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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第60回 介護職はエンターテイナー 
介護士シンガーアトムのできるまで

手塚 収さん(46歳)
特別養護老人ホーム三ノ輪(東京・台東区)

取材・文:藤山フジコ 

自分の基盤はボランティアでした

 栃木県宇都宮市のトンカツ屋の次男として生まれました。両親と兄と弟の5人家族です。中学までは内向的な少年で、好きなギターを家で弾いて過ごしていました。もともと格闘技が好きで、高校に入学すると映画スターのジャッキーチェーンに憧れてボクシング部に入部。人前で試合をすることで性格も外交的になり、人の前に立つことも平気になりました。

 高校卒業後の進路を決めなければならなかったのですが、かねがね自分はあまり商売には向いてないと思っていたんです。子どもと楽しそうに遊んでいる姿を見ていた近所の人に、「子ども好きだから保父さんにでもなれば」と言われたことがきっかけで、児童福祉の専門学校へ進みました。

 学校に通いながら、台東区の障がい児の通所施設のボランティアを紹介してもらいました。初めて行った日が障がい者のスポーツ大会。それまで障がいを持っている人と触れ合う機会もあまりなかったので、大勢の障がいを持っている子どもたちを見て、食事をするのもこんなに大変なんだ・・と驚きました。

 その通所施設には、小学生から高校生まで通ってきていて、自分は日曜日の子ども会のリーダーをするなど、ボランティア活動にのめり込んでいきました。当時は栃木から専門学校のある高田馬場まで通っていたのですが、施設の職員に「栃木から通うのは大変だから、ここに住んじゃえば」と言われ、管理員をしながら住み込みのボランティア生活をすることになりました。最初は障がいを持った子どもたちにびっくりしていた自分も、毎日接していると家族のようになり、生活の中に子どもたちがいることが自然な感じになりました。

 宿泊訓練など、子どもたちが施設に泊まったりするのも、お世話というより一緒に遊ぶという感覚。専門学校を卒業した後も、この施設に住み続けました。当時は児童福祉の求人がなく、工場でアルバイトをして生活費を稼いでいました。あくまで自分の基盤はボランティア。ボランティアをするために働く日々でした。その頃の自分は「ボランティア」という言葉も嫌いで、「当たり前のことをやっているだけ」という気持ちが強かったですね。

 住み込みボランティア3年目に、近くにアパートを借りて独立しました。実家からひとり立ちしたような気分でした。その後も施設にはずっと通い続け、台東区の障害者団体のキャンプや、福祉団体のお祭りにも参加していたので、台東区にすっかり根づいてしまったんです。そこからいろいろなつながりができました。

自分がやりたいのは児童福祉だったんですが・・・

 そんな生活を続けていた27歳のとき、知り合いから「地域で介護サービスの仕事をしているご夫婦がいるので、仕事が休みの日にちょっと手伝ってもらえないか」という話がありました。

 実際お会いしてみると、ご夫婦ととても気が合い、お手伝いしながら介護の仕方などいろいろ教えてもらいました。それまでは、自分がやりたいのは児童福祉。学校のクラスメートの中には老人福祉に進む人もいましたが、自分は「それは絶対にないな・・」と思っていました。ところが、介護サービスの仕事を手伝っているうちに「老人介護もやってみてもいいかな」という気持ちに変わっていきました。そして、偶然、特別養護老人ホームの仕事の話があり、2か月の予定でアルバイトへ行くことになったんです。

 行ってみると、初めて障がいを持った子どもたちに接したときとは違った衝撃がありました。まず、老人ホームに驚きました。当たり前ですが、お年寄りだらけ。職員は忙しく駆けずり回っていて、なかなか仕事を教えてもらえない。老人介護の勉強をしていないので、見よう見まねで身体で覚えるしかなかった。オムツ交換からして子どもとは違う。何より驚いたことは、女性の排泄介助も男性の自分がすることでした。障がい児の場合、同性介助なんです。それまで女性の排泄介助をしてこなかったので戸惑いました。とにかく、数をこなして慣れていきました。

 そういった意味では、最初に特養で働けたことは良かったと思います。最初の3日目までは「これは無理だ・・」と思いましたが、アルバイト契約が2か月だったので、そこまで頑張ろうと。結局4か月働いたんですが、その頃にはもう慣れてしまい、試験を受けて職員になりました。今年で18年になります。

みのわ音楽祭

 もともと音楽が好きで、趣味でギターを弾いていました。ボランティアのときも時々ギターを弾くこともありましたが、特養からデイサービスに移り、レクリエーションでギターを弾いて歌ったりするとお年寄りが本当に喜んでくれました。利用者さんが喜んでくれることが嬉しくて、懐メロを憶えてはレクリエーションで披露していました。

 その後、サテライト型の施設に相談員として移動になりました。そこは小学校の空き教室を活用してデイサービスを行っていました。お風呂もリハビリもなく、ただひたすらレクリエーションに特化したデイサービスです。利用者さんは15人いましたが、元気な方が多かった。ここは自分のやりたいようにできたので、入浴サービスがない代わりに、音楽を目玉にした活動をしていこうと思ったんです。当時の施設長が、それだったらイベントにしたほうがよいと。

 施設は台東区三ノ輪にあったので、「みのわ音楽祭」と銘打ったイベントを年に3回開催しました。施設のエントランスが会場になるので、地域の人も見に来れる。みのわ音楽祭は、地元の住民、地元の音大生、自分の仲間などに声をかけ、ノージャンルでさまざまな人たちが出演してくれました。著名な方がボランティアで参加してくれたこともあります。利用者さんも音楽祭に向けて練習した歌を披露して盛り上がりました。毎回、イベントのテーマを考えるのも、次々とアイデアが沸いて楽しかった。

 実は演者の側にも、こうした施設で歌ってみたいという人が多く、施設側も常にレクリエーションなどイベントに出演してくれる人を探している。自分はどちらも経験しているので、その架け橋になれれば良いなと。この「みのわ音楽祭」での経験が今の自分の音楽活動につながっています。

それまで学んだ技術や経験を持ってしてもうまくいかないこともある

 デイサービスの相談員として5年勤め、今度は同じ施設のホームヘルパー部門に異動になりました。ホームヘルパーは、施設のような整った環境ではないところで介護することもあったり、同居のご家族がいることもあり最初は緊張しました。

 印象深かったことは、受け入れてもらえない利用者さんもいるということでした。連れて行った実習生の働き方や掃除の仕方さえも意にそぐわないことがあるとクレームを言われる難しい方もいましたし、また「アンタには、もう来てもらいたくない」と言われたこともありました。結局、その担当から外されてしまい、それまで学んだ技術や経験を持ってしてもうまくいかないこともある一筋縄ではいかない仕事だと実感しました。

お年寄りは「このとき」が大事

 介護の仕事をしていて感じたことは、お年寄りは「今」が大切だということ。明日でいいやと思っても明日があるか分からない。この仕事は、いつも死がついて回ります。利用者さんが「○○に行ってみたいな」とか「○○食べたいな」というちょっとした呟きも逃さない方がいい。実現可能だったら、すぐにやるべきだと思います。

 「みのわ音楽祭」を楽しみにしていた、認知症の進んだ利用者さんがいました。一人暮らしをしていて、以前出演したシンガーソングライターの女の子が出るイベントを心待ちにしていました。しかし、本当に残念なことにイベント開催日の数日前に亡くなってしまったんです。そのとき、お年寄りは「このとき」が大事で、それを逃したら今度ってないんだなと、胸に刺さったんです。なので、多少無理をしても利用者さんの気持ちを第一に考えるようにしています。

介護と音楽はつながっています

 自分の目指す介護は、利用者さんに笑顔になってもらうことです。介護の仕事ってエンターテイメントだと思います。介護職の我々はエンターテイナーに徹し、利用者さんには残りの人生を楽しんでもらいたい。

 介護職を続けながら音楽の活動もしていますが、自分の中では、介護と音楽はつながっています。アマチュアのミュージシャンは、音楽をやるために仕事をしている。自分も以前は、ボランティアをやるために仕事をしていた。介護の仕事のすごいところは、どちらも一緒にできることです。自分はギターを持って出勤して、介護して、歌って、それが仕事になっている。こんな仕事ってないですよね。それってすごいなと。

 ボランティアを始めた20歳のときから現在に至るまで、ずっと関わってきた台東区という地域をとても大切に思っています。第2の故郷ですね。もう、出身の栃木より台東区にいるほうが長くなりました。ここを音楽で盛り上げて、福祉のつながりの輪を広げていきたい。自作の歌「町のたから」の歌詞「♪子供達も お年寄りも 身体の不自由な人もみんなが笑顔で幸せに暮らせる。そんなな町になれたらいいよね♪」のような町をこの台東区で実現していきたい。お世話になった方々に活動を介して恩返ししていけたらと思っています。

ライブで介護体操を披露する手塚さん
左、カホン奏者 井澤泉紀さん

ホームグラウンドである「焼き鳥たけうち」の前で

インタビュー感想

 手塚さんは、音楽活動では「介護士(シ)ンガーアトム」と名乗っています。「アトム」の由来は、漫画家の手塚治虫さんと読み方が同じなので、まわりから「アトム」と呼ばれたことがきっかけだそうです。介護職と並行して台東区で音楽活動もされてきた手塚さん。「音楽は生きがいでもあり、自分の居場所」と話しておられました。
 7月16日、手塚さんが出演されたライブを観にうかがいました。施設でのレクリエーションで磨きをかけた爆笑MCと演奏で、客席を大いに沸かしていました。その後の取材は、手塚さんをずっと応援している「焼き鳥たけうち」で。開店前にお店を使わせてくださったマスターをはじめ、取材後もお客さんたちから「アトム!」「アトム!」と声がかかり、地域の皆に愛されているのだなぁと感じました。今後も、依頼があれば学校やお祭りなど積極的に出演し、音楽で地域の輪を繋いでいきたいとのことでした。

【久田恵の眼】
 働く場としての介護現場は、懐が広い。人が暮らし、生きていくことのすべてがそこにある場所ですから、どんな人の表現活動も活かせるのですね。むろん、その場を切り開くかどうかは、本人の力量と情熱次第ですね。