メニュー(閉じる)
閉じる

ここから本文です

介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第47回 フリーライターも介護職も ダブルワークを続けて十数年 
働ける間は、社会の中できちんと働き続ける、それが私のポリシーです

森賀津子さん(78歳)
東久留米ケアサポート「ファミリー」(東久留米市)

取材:久田 恵

子育ての問題の後は、女の老後問題だなあ

 東久留米ケアサポート「ファミリー」は、1997年に地域の仲間たちと立ち上げた事業所です。仲間は、地域の市民グループで一緒に活動していた人たち。保育園問題とか、学校給食のセンター化問題とかを一緒にやっていたのです。

 その6年前に、私たちは、家事育児支援グループ・ファミリーというのを立ち上げたのです。私たちの世代は、保育園のお迎えを頼み合ったりして、友だち同士で助け合って働き続けてきたけれど、今の若い世代は、一人で問題を抱え込んでいる、だから、子どもからお年寄りまでのことを、家族という関係を越えて、地域で助け合える組織を作りたい、と思ったんです。

 当時、私は小さな出版社で雑誌や本の編集をしていたので、50代の半ばから、二足の草鞋(わらじ)というスタイルが始まったわけです。

 私は、仲間の中では年長だったので、子育ての問題の後は女の老後問題だなあ、なんて思っていたのです。そして、介護は結局、女性が担うのよね、これって、ジェンダーの問題よね、だったら個人的じゃなくて、組織的に助け合えるシステムがほしい、そう思ったのです。

 その原型が練馬にあったシェモア(私の家)というグループでした。

 その頃、地域福祉推進事業といって、区が高齢者を対象に含めて、民間の力で助け合いの組織を作ることに助成金を出すようになったのです。年間100万くらい。それで、勉強のために、私もその仕事を手伝いました。それが、はじまりでした。

 このシェモアからいろいろ学んで、私は、自分の地元の東久留米で、同じようなグループを立ち上げたわけです。

年間2千万円くらいを動かすNPO法人理事

 私が、家族を越えた地域の支え合いに関心を持つのは、私自身が、親との縁が薄いとことが理由かもしれません。父がいたり、叔母がいたり、叔父がいたりしたけれど、一度も介護をしていないのです。きっと誰かがやってくれたのだと思います。ならば、家族を越えたところで、自分も誰かの介護ができたらな、と思っていたんです。

 というのも、両親は私が3歳のときに離婚。私は叔母夫婦とともに、福井県の祖父母の元で育ったのですが、小学校3年生のときに、養女に出たんです。でも、養父母とはうまくいかず、12歳で養家を出ました。そのとき、一切の親子関係を断ち、どこにも属したくないと言い張って、私、一人の戸籍を作ってもらいました。それで、高校までは叔母の家で暮らし、卒業後、地元のデパートに勤めたのですが、20歳のときに一人で東京に出てきてしまいました。

 当時、労働運動が盛んな時代で、全百貨店組合連合会というのが結成されていて、そのつながりで、東京の全国百貨店組合連合本部の事務局で働いたりしていました。けれど、運動が下火になり、小さな通信社に就職したんです。

 それが編集者や取材ライターとして働き続けることになるきっかけで、結婚後も子どもを保育園に預けながら、仕事を続けてきました。でも、子どもが成人後に夫と離婚、今は、娘たちと共同生活のような形で暮らしています。

 もとは育児誌関係に書くことが多かったのですが、今は月刊誌で、社会的なテーマを取材して書くコラムなどを担当したりしています。そんなわけで、取材して原稿を書いたり、ヘルパーをやったりのスタイルをずっと続けているわけです。

 立ち上げた東久留米のケアサポート「ファミリー」は、介護保険事業に参入するため、2001年にはNPO法人にしました。起ち上げからずっと理事をやり、法人の運営も経営もやってきました。毎年総会をやって、年間2千万円くらいを動かすので、なかなか大変ですが、15年、続けています。

訪問する介護者を替えたら、収まっちゃった

 私は訪問介護の仕事は好きです。経験することの奥が深くて、たくさんのことを考えさせられますから。立ち上げの頃は、介護者も利用者さんも新しいことに遭遇し、不慣れで大変でした。利用者さんにいじめ抜かれて泣いたこともあります。始めた頃のことですが、嫁いじめみたいな感じで、その方は、ほんとすごかったんです。

 介護に行くと、「あんたなんかに来てもらわなくていいわよ」って始まるんです。それでも頑張っていくと、「また、来た」と罵られる。彼女は一人暮らしで、息子夫婦は鎌倉に住んでいたのですが、お風呂で複雑骨折して、寝たきりになったのです。そういう状態だったので、息子さん夫婦が通ってきていたのですが、お嫁さんもいじめられていて、ケアマネさんもいじめられて、どうにもならなかったのです。それで、とうとう、精神科のお医者さんに、お嫁さんと私とケアマネさんと、いじめられている3人で相談したのです。

 そうしたら、お医者さんから、「あなたは、胃に穴を空けてまで訪問介護をすることはないから、行くのをやめなさい」と。お嫁さんは、「ご主人に『離婚させていただきます』と言えるでしょう?」と言われたんです。それで、なんだかホッとしちゃって、訪問する介護者を替えたら、収まっちゃったんです。

 老人ホームなどの施設と違って、家に訪問で介護に入るってことは、そもそもの介護環境が違うんですね。家は、利用者さんが、そこの主人だから、「私の家に、来るなって」キレることもできるのです。やっぱり、望んでもいないのに、他人を自分の家に受け入れるつてことは、生易しいことじゃない、自分たちはいいことをしているのだから、とつい思ってしまうけれど、当人にしてみれば、知らない人を自分の家に入れることは大変な精神的負担だったりするんですね。訪問する人は、自分が信用されているか考えないとだめだし、相手が女性の場合は、特に気をつかわないといけない、と学びました。介護者が来てくれないと困るけれど、価値観が合わない人とは無理、ということもあると思います。

 そういうわけで訪問介護では、人間関係能力がすごく必要かもしれません。

この仕事はやっぱりいいなあ

 思い出深いのは、精神を病んで一人暮らしをしていた元お嬢様。都営住宅に住んでいた方ですが、弟さんが商売に失敗して家をつぶしちゃったので、その恨みが大きかったんです。その方が、「ケアマネを選ぶのは利用者の権利だ」というので、いろいろ事業所に電話があって、ついに、私たちのチームの中からヘルパーを派遣することになりました。

 一人でいることをすごく不安がっていて、「最後の骨もちゃんと拾いますからね、安心してください」と言い続けました。それで骨も拾って、お葬式もちゃんとやって、最後までお付き合いした方なんです。彼女には恋人がいて、その方からもらったラブレターのことなどの話をするのです。気難しい方なのに、なにを話していてもその恋人の話になるんです。そういうことを聞いていると、この仕事はやっぱりいいなあ、と私は思ったんです。

 訪問介護などのヘルパーとの関係があれば、そこのつながりで、全く孤立感を持たずに、一人で生きて、一人で最期を迎えることだってできるんだ、と思うし。

 その方は、お金がなくて生活保護になったのですが、保護費で、ちゃんと骨まで拾ってあげられました。でも、それは介護保険制度の財政がゆったりしていて、生活援助としていろいろ認められていたからで、これからはどうなるのかと心配です。

 今は、介護保険による生活援助は、45分が上限です。ウチの事業所は、今、15分持ち出しで1時間はやっているけれど、45分以上は介護報酬は出ないのです。うちでは、60分で足りなければ、80分まではやります。だから、事業所の経営は大変なのです。今は何とか持ち出しでやっているけれど、「介護保険で生活援助はしません」などという方向性になってきていて、ついに仕事そのものもなくなってきているんです。身体介護の重い方は、せっかくやっても施設に入ってしまう。今は、訪問介護で要介護5なんていう方はいなくて、みんな施設に入るか、家族が頑張って介護をしているかです。

 家族のいる人は、介護保険を使っている方も少ないです。で、重度の利用者さんがいないのは、うちだけと思ったら、ほかの事業所でも、重度の方は減っているって言うのです。

 それと、長年やっていると、生活保護の人のほうが、保護すれすれの人より恵まれていると実感しますね。前に92歳の方で、都営住宅に入っているけれど、年金がとても少なくて、「自分が病気になったら医療費がないのでおしまいだ」ということでサプリメントばかりを飲んでいる方がいたのです。でも、「生活保護にはかかりたくない」と言うので、それを受けたほうがいいのだから、とみんなで説得してついに受けることになったんです。そうしたら、医療費が無料になると知って、医療費のことが心配で少しのお金も使わないでいたけれど、そのことを考えなくてよくなって、ホッとしたって。一人では生活ができなくなって、施設に行ったのですが、最後まで喜んでいました。

 家族がいなくて一人で、どん底の貧乏という人は、ヘルパーの人とか、事業所とつながっていれば救済されますし、骨を拾ってくれる人も出てくるんですね。

 生活保護の制度って、私たちは大事にしなくちゃと思いますね。でも、いざとなったら、それがあるって思えるのも、実は、今のうちだけかもしれない。そういうことも、現場をよく知る介護職の人は、社会に向かって声を出していかなくてはいけないと思います。

みんなで知恵を絞って対応することが必要

 介護をしていると、いろんなことを学びますね。いつだって、明日は我が身だと思います。年齢に関係なく、亡くなる数年前は、似た経緯をたどって、ラストは人の手を借りないでは、暮らせなくなる。その数年のことは自分であらかじめ考えておかないとならないかもしれない、とか。

 東久留米にあるサービス付きの高齢者住宅(サ高住)に90過ぎて入居している方で、認知症がどんどん進行していって、夜中にも出て行って、転んで救急車。これを繰り返している方がいます。サポートしたくても、ホームヘルパーは時給制で時間が限られていますし、サ高住もほとんど対応できない。

 それほど、彼が以前住んでいた場所に帰りたいのなら介護保険外のサービスを自費で賄って、連れて行ってあげたいと思うけれど、保険外サービスの自費分は後見役の方の許可が必要で、なかなか実現できないのです。

 思えば、昔、家政婦さんをやっていた人が事業所にいたのですが、「介護保険のヘルパーよりも、保険外サービスを自費で受けている人のお世話をするほうがお金になるから」と辞めた方もいました。介護保険を全部使って、それ以外を自費で介護サービスを買えればそれなりにいい介護を享受できるわけですが、介護保険の自己負担分も払えないという人もたくさんいるわけです。ともあれ、せめて地域の介護の事業所や施設の横のつながりを持って、地域でもっと情報を共有して対応できることには、みんなで知恵を絞って対応する、そういうことがなによりも必要だと思います。

自分を常に客観的に見ていたい

 取材ライターと介護職の関係? 介護だけやっていると視野が狭くなっていく恐れがあります。だから自分を常に客観的に見ていたい、介護の仕事に埋没しちゃうと、つい制度の問題とか、社会の中での介護のあり方とかの全体的なテーマが見えなくなる気がするんです。この仕事にかかわっている以上は、介護の現場をよくするようにしたい、制度もいいものにしたい、その思いを強く持ち続けることができると思うのです。

 それと別に、取材の仕事で、いろんな方の話を聞くのもとても楽しい。原稿を書くのも好きで、やめられないのですよ。

【久田恵の眼】
 介護職の人が発言していくことは大切です。現場で起きているさまざまな問題や実態を、介護保険制度を立案したり、改訂したりする立場の方たちに、伝えていかねばなりません。つまり、介護職は、社会的視点を持ち、発言していく勇気を持つことが求められている仕事だということです。
 特に、弱い立場にある方や貧困に陥っている方、家族や縁者がいなくて、地域で孤立しがちな一人暮らしの高齢者を最先端で支えているのは、ホームヘルパーの方々です。彼ら彼女らが、今や大きな力を発揮しているのです。声なき声の代弁者としての役割の重要さがもっと知られるべきです。最先端で働く彼らからの情報に真摯に耳を貸すべきだと思います。
 取材をしていると、日本の介護制度は、見るに見かねて活動を始めた民間の心ある人たちによって、ここまで切り開かれてきたのだと、実感されます。