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マンガでわかる 介護のキーワード

梅澤 誠 (うめざわ まこと)

介護の常識は世間の非常識といわれることがありますが、介護現場で語られる言葉に違和感を覚える人もいるようです。
この連載では、こうした「介護の常識」をマンガで考えていきます。

プロフィール梅熊 大介 (うめくま だいすけ)

1980年生まれ、群馬県出身。
東京で漫画家アシスタントをしながら雑誌、ウェブにて作品を発表。2009年第6回マンサン漫画大賞(実業之日本社主催)佳作受賞。デジタルマンガ・コンテスト2012(デジタルマンガ協会主催)優秀賞受賞。9年間のアシスタント修業の後、32歳で介護職員となり、以後介護を中心とした企業広報マンガを執筆。2015年現在、所属する大起エンゼルヘルプのホームページに新規採用者向け介護マンガを連載。著書に『マンガ ボクは介護職員一年生』(宝島社、2015年)がある。

第6回 もうほんの少し余裕があれば。

 さる3月18日に報道されたニュースです。
「石川県で盲導犬を連れた男性、タクシーに乗車拒否される。『犬に座席を汚されたことがある』と語る運転手。会社を行政処分」

 どうもこの手のニュースは数年に一度、定期的に話題になる気がします。外国(コロンビア)での話ですが、去年、盲導犬のバス乗車拒否がネット上で話題になり、ニュース映像が何十万ヒットも視聴されていました。報道されていない乗車拒否の実数はもっと多いかもしれません。
 報道の大体の流れは「障がい者の差別だ」→「盲導犬の乗車拒否は法律違反」→「運転手、会社を処分へ」…となっています。障がい者を取り巻く意識、環境整備の遅れの例に出されやすいのでしょう。

 日本では『道路運送法』なる法律により「身体障害者の補助犬を乗車拒否してはならない」決まりとなっているので、当然といえば当然の批判なのですが…そもそも、一体なぜ乗車拒否はなくならないのでしょうか?

 介護職員的発想では「ケシカラン」と思う気持ちをグッとおさえて、タクシー運転手の立場から少し考えてみると…。

 むろん運転手は乗車拒否がいけないことだとは知っている、できればしたくない。拒否をしたのは、それ以上のデメリットがあると踏んだからではないでしょうか。
 問題になった運転手さんは、以前盲導犬を乗せたとき、次の客から「犬の毛がシートについている」と苦情を言われたそうです。きっと会社、上司にも叱責されたのではないでしょうか。運転手はワンオペレーション業務ですから、シートの掃除は時間体力とも自分がコストを負担する。その分売り上げが落ちたらまた成績に響いてしまう。ならいっそ断ってしまおう…そう考えても不思議はありません。原因が犬の毛だったのなら、それで障がい者差別をしたといわれるのもツラいところだと思います。
 それに単純に運転手が「犬嫌い」「犬の毛アレルギー」だったらどうしたらいいのでしょう。どこまでが「やむをえない事情」になるのでしょう。

 つまり法律では「乗車拒否はいけない」と言っておきながら、それに伴うデメリットに十分な補償がない。だからなくならないんだという考えもできます。
 2006年に大ニュースとなった大手ビジネスホテルチェーンの不法改造問題でも「障がい者に合わせていたら儲けがでない」と発言した社長がいました。言い方はともかく、経営者としての本音なのかもしれません(あんまり直截すぎるし、経営者なら法律は守りましょうよという話なんですが…)。

 仮に「盲導犬を乗せた後は20分掃除の時間をとってよい」と決め、粘着テープのクリーナー(通称、コロコロ)くらい国のお金でタクシー会社に支給する…などといった具体的な対応策があったらどうだったのでしょう。少なくとも何もしないよりはマシで、運転手も少しは余裕をもって対応できたのではないでしょうか。そんな制度があってもいいと思うのですが。
 介護の世界ではよく「環境整備」といいます。「環境」には住居や道路だけではなく、周りの人間も含まれます。介護職員は環境の最たるもので、利用者さんにとって「良い環境であろう」とします。時には専門的な勉強もするでしょう。が、それでも余裕のないときはどうでしょうか。事故を起こさないまでも、「良い環境」とはいえない振る舞いをしてしまうこと、正直あるのではないでしょうか。問題のタクシー運転手を単純に責める気にはなれません。

 認知症関連の書籍を読むと、「認知症とは…により、『社会生活が困難になった状態』をいう」などとよく書いてあります。ある種の障がい、精神疾患などの定義にも「…により著しい『社会的障害』をきたしている」「『対人関係上の困難』が生じている」とわざわざ但し書きがあります。
 病気そのものにプラスして、周りとの関係が悪くなることが条件に入っているのです。

 逆に、本人に認知症、障がいがあっても、周りが困っていなければ(対応できていれば)大した問題ではない…とも言えます。
 考えてみると別に認知症や障がい者でなくとも、「変わったヤツだなあ」という人はいます(笑)。考え方が理解不能だったり、とても付き合いきれんというような人、たくさんいます。いえ、他人から見たら、私自身がそうである可能性も否定…できません。得てして本人は無自覚なものです。

和田行男氏『認知症になる僕たちへ』(中央法規出版)の一節。
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医師から「何か困っていることはありませんか」と聞かれた友人の婆さん。
「私は何も困ってないんですが、周りは困ってるみたいです…」(60ページ)
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 これは認知症に限った話ではないような、自分にも心当たりがあるような…(苦笑)。

 しかし周りと付きあい、お互い知り合っていくうちに「あ、そういう人なんだ」「まあ、仕方ないよね」と許容し合い、対応していく。人と人との関係はそんなふうに成り立っているところがありますよね。

 障がいでも認知症でも、普通の人間関係と同じように、知ってしまえば「そういう状態なんだ」になります。周りに余裕ができれば関係は良くなりますよね。介護職員はほんの少し病気と保険の知識があるだけで、あとは利用者さんとの関係で対応している。普通の人間関係と「ほんの少し」しか変わらないような気がします。

 制度が変わるのを待っていても仕方がないので…介護にかかわる人はその「ほんの少し」を周りに伝えて、知ってもらって、対応する余裕を作ってもらう。それが広い意味での「環境整備」かな、と思われてなりません。

 直接介護にかかわらない人でも、ほんの少し知っている、手助けが必要な人に会ったとき、ほんの少し時間と体力が当てられる。
 その余裕は「コロコロ一本分」でも十分効果があるような気がします。