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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

反対多数に終わった大阪都構想

 大阪都構想にかかわる二度目の住民投票が実施され、反対多数の結果が確定しました。大阪市天王寺区出身の私は、正直ホッとしています。

澪標-大阪市の市章

 大阪市の市章である澪標(みおつくし)は、難波江(大阪湾)の浅瀬に立てられた船の水路標識です。この市章が存続することはまことに喜ばしい。

 百人一首(二十番元良親王)、源氏物語(第十四段「澪標」)、土佐日記などにも登場する歴史の重みと共に、暗礁に乗り上げることがないよう船と乗船者を導く標識が市のマークであることを、子どものころから誇りに感じていました。

 牧村史陽編『大阪ことば事典』(講談社学術文庫、1984年)の「ミオツクシ」の例文の中に、次のような『土佐日記』2月6日のくだりが引用されています。

 「みおつくしのもとより出でて、難波津来て河尻に入る。皆人々、女、翁、顔に手を当てて喜ぶこと二つ無し」

 ここからは、二度にわたって反対多数となった大阪都構想の問題点について考えます。

 まず一つは、この構想は、大阪の地域経済の停滞と衰退を行政機構の問題にすり替えている問題があります。

 江戸時代から続いた「天下の台所」大坂は、近代以降も1970年の万国博覧会辺りまで、日本一の商都としての座にありました。

 しかし、高度経済成長期の終盤には、大企業の本社機能はほとんどすべて東京に移転し、大企業が夜な夜な接待に使ってきた高級料亭の「なだ万」(1974年に本店を大阪今橋から東京のホテルニューオータニに移転)や吉兆(1961年銀座へ出店)さえも軸足を東京に移していきました。

 70年万博当時、都市銀行の本店はたくさん大阪にありましたが、今やメガバンクの本社はすべて東京です。

 大企業の本社が大阪にあり、阪神工業地帯が日本の巨大なモノづくりを支える根拠地でもあった時代の大阪と現在の大阪はまるで違う都市です。一言で言えば、現在の大阪は、いまでも大きな都市ではあるけれども、地方都市の一つになりました。

 近世から近代にかけて大きく発展した商都大阪の経済は、高度経済成長の終焉以降、構造的な地盤沈下を余儀なくされました。産業の空洞化と経済のグローバリゼーションが進む中で、東京への一極集中が進められます。

 大阪の地域経済は、長期低落傾向から脱却することはできません。すると、「なんで東京ばっかりええ思いできるんや」という大阪人の恨みと不満の市民感情が高まり、それを行政機構の問題にすり替えて政治課題にしたものが大阪都構想ではなかったと考えます。

 もちろん、行政機構の改善課題もありました。が、大阪の抱える構造的な地域問題が大阪都構想によって改善されるものとは到底考えることはできません。大阪都構想の枠内では、集権と分権をめぐる行政機構の問題が抜本的に解消することはないからです。

 もし、大阪都構想が実現していれば、次のステージでは国と地方自治体という大枠における集権と分権に論点が移され、地方自治の単位と行政機構の抜本的変更の必要性を訴えて憲法改正にもっていく戦略があったのではないでしょうか。

 もう一つは、大阪都構想は地域文化の発展をどのように考えているのかがさっぱり分かりませんでした。

 1990年代の中頃、埼玉県では「彩の国地方分権大学」が開催されました。これは「平成の市町村大合併」と関連してこれからの地域政策がどうあるべきかついて、県内市町村関係者・地域住民と議論して明らかにしていく取り組みでした。

 私は「地域福祉と地方分権」分科会の責任者として議論に参加し、忘れることのできない議論のあったことを覚えています。

 それは、それぞれの地域の文化とそれに由来する地域住民のアイデンティティを守り発展させることへの考慮がないまま、市町村を行政効率の観点からただ合併させていくだけでは、住民自治にもとづく本来の地域福祉につながることはないという討議の結論です(埼玉県総務部地域総務課編『平成7年度彩の国地方分権大学92づくり分権講座報告書』、1997年)。

 その時の分科会で、私は大阪ならどうだろうと考えて、大阪市と堺市が合併することは両市の成り立ちと地域文化の違いからあり得ないと発言したところ、地方分権大学の座長をしていた大御所が「その通りです。歴史と文化の観点を抜きにした合併には問題がある」と賛成意見を表明されたことを覚えています。

 大阪都構想は、このような地域文化の問題をあまりにも軽視していたと思います。

 ただし、大阪都構想への反対が多数を占めたとはいえ、賛成との差はさほど大きいわけではありません。この背景には、歴史と伝統があると自認する既成政党に地域政策にかかわる政策立案能力が決定的に不足していることへの住民の批判があります。

 Covid-19や保育所・子育て支援に係る政策について、大阪都構想の推進勢力は住民の必要に対してビビッドに対応していました。それに対して、既成政党はかつての時代の経験値からの対応を考えるのがせいぜいで、従来にはみられない家族と地域社会の現実に分け入って考えようとする地方議会議員は本当に少数です。

 先日、地元で既成政党の「以前保育士をしていた議員」と話す機会がありました。現代は5年前の経験値が陳腐化する時代です。ところが、当人は「かつて保育士をしていた」ことが子ども政策作る上でのアドバンテージのように思いこんでいます。現在の父母と子どもたちの現実についての呆れるばかりの無知蒙昧さに、もはやアナクロを通り越して、笑止千万を感じました。

 このようにみてくると、大阪都構想をめぐる争点の内実は次のようではなかったのでしょうか。

 国の地域開発政策が全国各地を網羅して対象としていた時代が過ぎ去り、「選択と集中」によって地域格差を拡大していく時代となりました。ここで、既成政党の地方議員にはオールターナティヴを提案できるだけの能力が欠如している現実に対して、住民の批判的な眼差しが強まっていました。

 大阪都構想は、このような地域社会の行き詰まりと既成政党の地方議員の弱点を突いて行政機構の改編を提案しつつ、将来的な憲法改正への道筋を展望しようとするものであったと考えます。

3Lの見事な栗

 さて、秋もたけなわとなりました。今年は、いい栗が入手できたので、これから恒例の栗の渋皮煮を作ります。手間はかかりますが、この道楽だけは美味求心でやめられまへん。