メニュー(閉じる)
閉じる

ここから本文です

宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。
さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

「切れ目のない支援」を阻むもの

 現在の障害福祉計画は障害児福祉計画と連動して、子ども期における「切れ目のない支援」の充実を重要な課題としています。

 ところが、障害のある子どもたちの成長・発達に求められる「切れ目のない支援」の実現には、多くの困難が立ちはだかっています。支援者の不足、支援者の専門性、営利主義の弊害、ネットワークの構築等、課題は山のようにあります。

 その中でも今日、子どもたちの必要にふさわしい「切れ目のない支援」を阻む大きな要因として浮上するものの一つに、家庭のあり方があります。家庭の子育てが機能不全に陥っている深刻な事態です。

 1986年に男女雇用機会均等法が施行されて以来、女性の社会進出を柱とする男女共同参画が推進されてきました。1986年から今日までの間、残業をなくす、育休を取りやすくする、マタハラをなくすなどの「働き方改革」は常に後回しにされてきましたから、両親の共働きが広がると、家庭における子育ての条件は厳しくなる一方となりました。

 先日のブログで指摘したように、今や、子育て期にある家庭の食事は「買い食い」状態になっています。その証拠に、スーパーマーケットとコンビニは、家庭の夕飯をターゲットに惣菜と弁当の売り込み競争をますます過熱させています。

 そうして、家庭で子どもたちの食事を調理しない日常に、親は必ずしも疑問を抱かないようになっています。成長期にある子どもにとっての家庭における「食」の重要性は、これまでに議論されつくされてきた感さえあるというのに、です。

 栄養バランスや体調への配慮、四季の移ろいと旬の食材、食味・食感と調理の多様性、家庭と地域の食文化の継承・創造、食事と家族の団らんなど、多様な角度から子どもの「食」が議論されてきました。ところが、親が子どもの「食」ついて考えることを弱めて外注化することの弊害は、現在、十分議論されているのでしょうか。

 これと同様に、家庭の取り組みとして期待される教育・子育ての営みの多くが、外部サービスに丸投げされるようになっています。この問題についても、当事者は等閑視しているように思えます。

 前回のブログで指摘したように、放課後等デイサービスの歪みには、親が放デイを安上がりの「塾」や「習い事教室」のようにとらえる安易な姿勢の問題が伏在しています。

 親は子どもとの日常的な係わりの中で、子どもの発達を支援しようと苦心しているのではありません。月・水・金は「集団適応」が「売り」の放デイを、火・木は「成功体験の充実」を「売り」にする放デイを、それぞれ「購入」すれば、親の期待する子どもの成長・発達が実現できると考えているのです。

 子育ての営みと「コンビニでカフェラテを購入する」こととの本質的な違いは、どうして自覚されないのでしょうか?

 親が子どもとともに成長・発達を展望することのできる最低条件は、親が子どもの「発達の根拠地」としての役割を果たすために必要十分な相互関係を追求し続けていることにあります。

 子育てには、親子の人格的触れ合いが必要不可欠です。親が子どもの「発達の根拠地」になろうとしないまま、「外部の支援サービスを購入する」ことの子どもへのしわ寄せと弊害は、中長期的にみると、取り返しのつかないほど深刻です。

「子育て」が「外部サービス」にすり替えられた時点で、親はもはや子どもにとって発達の根拠地ではなくなり、子どもにとって「切れ目のない支援」を担保する親の責任の所在は消失しています。

 それは、〈家庭-学校(保育所等の就学前施設)-外部サービス〉の間で子供を「引き裂く不適切な関与」です。障害のある子どもたちのティーンエージャーにおける二次障害(とくに行動障害)の、従来には見られなかった拡大は、「引き裂かれた」関与に起因する子どもへの人権侵害の所産だといっていいでしょう。

 つまり、このような文脈での外部サービスの利用は、それらが福祉サービス、保育サービス、民間サービスのいずれであれ、「子どもたちにとっての有効な支援につながっている」とはとても言えない状態なのです。

 一見、社会的な支援に「つながっている」ようでも、子どもたちの成長・発達の必要にはまったくつながっていない。こうなると「切れ目のない支援」というフレーズは、もはや戯言です。

「不適切な養育」の広まりは「虐待」発生の裾野の拡大です。また、ティーンエージャーの間に行動障害を拡大させてしまうことは、自立した地域生活の実現を阻み、入所型ケアに対する不当な親の依存を拡大するだけです。これらの「外部サービスへの丸投げ」が生み出している悪循環は、すでに深刻な現実として広まりつつあります。

 私は、自らの子育てと保育所の父母会活動の経験をくぐって、親はときとして子どもに対し傲慢になるものだと考えるようになりました。親の子どもに対する「切実な気持ち」や「願い」という姿の真相には、常に親の傲慢さや欲が巧妙に隠されているものです。

 したがって、親の気持ちや願いは、相対化して日常的に点検されなければ、子どもの必要に応えることになっているかどうか保証の限りではありません。この点は、子どもの側からの意見表明が弱く乏しくなりがちな障害のある子どもの子育てにおいて、しばしば軽視され続けてきた問題ではありませんか。

 障害のある子どもを育てる親の営みの自己点検と相互点検の質を高め、子どもたちにとっての「切れ目のない支援」を実現することが改めて重要です。この点に求められる障害特性の早期理解や障害受容を社会的に促進するためには、ペアレントメンター養成事業の抜本的拡充や新しい型の親・家族のアクションが必要だと考えます。

早朝の温泉津港

JR温泉津の駅名標

 さて、仕事のついでに温泉津(ゆのつ)温泉に立ち寄りました。石見(いわみ)銀山が栄えた時代の銀を運び出す港に温泉が湧いていたので、「湯(温泉)のある港(津)」をまとめて「温泉津」という地名になったと言われています。JR温泉津駅の駅名標は、それを端的に表示しています。

1300年以上の歴史を持つ元湯

 元湯共同浴場は、1300年以上前に、タヌキが傷を治すために入っていた湯を僧侶が見つけたのが始まりとされる湯治の湯です。源泉の湧出場所から湯舟がわずか1メートルというお湯は、新鮮そのものです。

薬師湯

 薬師湯も、源泉の湧出場所から湯舟が2~3メートルで、とてもフレッシュなお湯です。1872年の浜田地震の時には湯柱が上がったと言われています。温泉津温泉は、「ナトリウム―カルシュウム塩化物泉」と日本ではもっともありふれた泉質で表示されてしまいますが、温泉津温泉の実際は決してありふれたお湯ではありません。

 自然湧出で、淡い翡翠色に濁り、ほんのりと鉄分の香りが漂います。湯で温められた体は、入浴後半日以上はホカホカです。まさに名湯です。

【前の記事】

公共性の空洞化

【次の記事】

あをによし再び