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梶川義人の虐待相談の現場から

梶川 義人 (かじかわ よしと)

様々な要素が絡み合って発生する福祉現場での「虐待」。
長年の経験から得られた梶川さんの現場の言葉をお届けします。

プロフィール梶川 義人 (かじかわ よしと)

日本虐待防止研究・研修センター代表、桜美林大学・淑徳大学短期大学部兼任講師。
対応困難事例、家族問題担当ソーシャルワーカーとして約20年間、特別養護老人ホームの業務アドバイザーを約10年間務める。2000年から日本高齢者虐待防止センターの活動に参加し、高齢者虐待に関する研究、実践、教育に取り組む。自治体の高齢者虐待防止に関する委員会委員や対応チームのスーパーバイザーを歴任。著書に、『高齢者虐待防止トレーニングブック-発見・援助から予防まで』(共著、中央法規出版)、『介護サービスの基礎知識』(共著、自由国民社)、『障害者虐待』(共著、中央法規出版)などがある。

縄文人の介護

 先日、縄文人の暮らしぶりを特集したテレビ番組を観て、縄文人たちも介護をしていたと推定されると聞き、興味を引かれました。平均寿命が30歳代半ばなのに、歯の無い60歳代の人骨が発掘され、介護食の提供や食事介助がされていた筈だとか、重度障害のために幼少期に死亡する筈なのに、十代後半まで生存したと示す人骨が発掘されたから、介護されていたに違いない、というのです。

 介護の基本を教える教科書も、さすがにそんな昔にまでは遡りません。しかし、はるか昔である縄文時代に、弱者を捨て置かずに介護するという発想があったと聞くと、介護は私たち人間の本質と関係しているのではないか、と思えてきます。虐待の問題も太古の昔からあったと推定されますから、こちらも私たちの本質と浅からぬ縁で結ばれているのかもしれません。

 何やら、人間のなかで天使と悪魔が同居しているような話ですが、思考実験の格好の材料にはなりそうです。そこで、既述した3つの理由から、主体的統合の立脚点が偏向・固着する体験が、乳幼児期から蓄積されて、主体的統合の基本的な傾向までもが偏る場合を考えてみました。言わば偏向・固着の「第4の理由」であり、解消するためには、安定領域の形成と安定点の成立以前の体験にまで遡る調整が必要になります。

 たとえば、虐待者によくみられる、個人内領域への偏向・固着から生じている病理的現象は、自己防衛の硬い鎧のなかで自分だけの世界に埋没していて、共有領域を上手く形成できないことに由来します。そのため、人間関係は形骸・希薄化して孤独・孤立化し、何らかの理由で自己防衛できなくなると直ぐに危機に陥ります。

 そして、さまざまな神経症を患ったり、必要な支援の拒否や集団生活への不適応などの問題を起こしたりします。また、反社会的・非社会的な行動をする、反社会的・非社会的な集団のリーダーとなる、自傷他害を伴う個人内病理に陥る例もあります。

 これに対して「傍観者」や「観客」によくみられる、共有領域への偏向・固着から生じる病理的現象の特徴は、依存先に同一化しやすく、他者との世界に埋没している点です。共有領域の形成は容易なのですが、濃厚な人間関係を求めるため、依存先を喪失すると深刻な危機に陥ります。

 たとえば、カリスマや偶像に自分を同一化させてそこに埋没する例や、人間関係の共有領域だけでなく、役割、規制、基準などに依存して生きようとする例、自分の期待を実現してくれそうなものには、危険を顧みず飛びつき続ける例もあります。

 もっとも、他のことにも眼を向ける柔軟さがあるなら、「縄文人の介護」のように昇華的な状況も生まれます。しかし、柔軟さを失ってしまうと、独善と排他、他者(対象)志向の「集団病理」が発生します。

 歴史上数え切れないほど発生している、残虐行為や宗教的・国家的・民族的紛争や暴動などは、独善と排他の好例ですし、他者(対象)志向の強さについては、人間の機械化や奴隷化、過剰適応の例や、疾病利得や不正行為の例が挙げられます。

「介護を子孫に伝えるのだ…」
「土偶は介護を象徴!?」