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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


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花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第149回 壮絶な学生時代を過ごし、決意を持って介護職へ
人を大切にしたい
~大事なことはみんな利用者さんが教えてくれた~

植 賀寿夫さん(39歳)
みのりグループホーム川内 管理者
介護福祉士/ケアマネージャー
(広島県・広島市)

取材・文:原口美香

この資格で食っていこう

 高校三年生の時、同じサッカー部に生まれつき耳が不自由な同級生がいたんです。サッカーはすごく耳を使うスポーツ。見ることでしか情報が入ってこないと、すぐに囲まれてボールを取られてしまう。やっぱり試合には勝ちたいから、全体の練習が終わった後、その子を誘って練習をしているうちに仲良くなっていきました。僕は耳が聞こえないことに触れたらいけないと思っていたけれど、そんなことは全然なくて、「なんでおまえは耳が聞こえるのに、みんなに伝えるのが下手なの?」と逆に言われたりして。その子が「福祉っていう仕事があるよ、向いているんじゃないか」って教えてくれたんです。

 それで先生に聞いたら「福祉というのは介護だ。専門学校に行って資格を取らないといけない」と言われました。今考えるとそんなことは全然なかったんですけれど。うちは父親が中3の時に亡くなっていたので、3つ上の姉も進学を諦めて就職していました。僕は双子で兄もいたので、兄弟の誰も進学なんて考えていなかったんです。だからいったんそこで諦めて、父と同じ大工の道に進みました。だけど、棟梁に怒られるのが嫌で、一年で辞めてしまうんです。その時に、福祉の専門学校に行きたかったんだ、行こう、と思い出したんですね。

 半年後までに専門学校の入学金が7、80万円必要でした。大工の給料は最初すごく安くて、道具も揃えないと働けない。給料は全部道具につぎ込むような感じで貯金は、ほぼゼロでした。それで工場で働いて、計算しても足りなかったので、まずは昼飯を抜くことにしたんです。工場の冷水だけにして。夕方仕事を終えると、そのまま別の工場の夜勤に入り、朝になると元の工場に戻ってという、そんな生活を続けて締切最終日になんとか入学金を納めることができました。

 入学しても授業料を払っていくために、バイトを掛け持ちしました。家に帰って寝ると遅刻してしまうので、深夜のバイトを終えたら学校の駐車場に車を止めて寝て、朝、登校した友達に起こしてもらったり。弁当も、クラスの女子が弁当の蓋にみんなから一品ずつ集めて、「植、食べぇ」って自分の割り箸を折ってくれたり。2年間、そんな感じでした。

 僕は家族に授業料を払わせなければそれでいいと思っていたんです。だけど本当は働いて家にお金を入れなければいけなかった。僕以外の兄弟はそれをちゃんと分かっていて、家にお金を入れていたんです。ある時、ひょんなことからそれを知って、すごく恥ずかしい思いをしました。兄弟と言っても姉は3つしか違わず、兄は同級生。僕は自分の為なんで必死にやれましたけど、兄弟は家庭の為に必死になれた。背負っているものが全然違う。借金まで背負って資格を取ったのだから、その資格分、僕が稼ごう、この資格で食っていこうと思ったんです。

覚悟を持って向き合おうと決意

 厳しく言われるような環境じゃないと伸びないと思っていたので、厳しくて有名な老健に頼み込んで実習に行かせてもらい、やがてそこに就職したんです。配属されたのはデイケアでした。リハビリに特化していたので、技術はすごく学べました。レクの提案もどんどん受けてもらえて。人間関係で悩むことなどもなく、2年目には職員の教育係にも抜擢され、3年目には入居施設に副主任として異動になりました。だけどそこで初めて壁にぶち当たるんです。こうしたらいいのに、っていうことを言っても今までこうしているんだから、って全然通用しない。僕もそれを打ち砕くだけの根拠を持っていなかった。結婚も考えていたけれど、給料は全然上がらなくて、将来が全く見えませんでした。

 その頃、デイサービスを立ち上げようとしている女社長と出会い、声をかけてもらったんです。その人は「本業があるから、自分はできない。誰かに託したい。利用者を自由にさせてあげたい」と。老健は医療色が強く危険管理に重点を置いていたので、「そんなことを言っても、何かあったらすぐ訴えられますよ」と言ったら「私らのしようとしていることを、分かってくれる人は分かってくれる。それでも何か起きて、訴えられるなら訴えられようや」って。その時にストーンと落ちたんです。そのくらいの覚悟でやろう、と。そこで一気に介護観が変わりました。

24歳、デイサービスを立ち上げる

 すぐには職場を辞められなかったので、半年くらいオープンを待ってもらって移りました。正社員は僕ひとり。建物だけあって、パソコンと電話が床に置かれているような状態でした。利用者が全然来なくて、朝パートの方に電話をかけては、「今日も休んでください」と言うしかなくて「早く利用者集めてくださいよ」と怒られる毎日。半年くらいそんな状態が続いて、さすがに自分が悪いんだと思わざるを得なくて。ある時、知り合った人のデイサービスに見学に行かせてもらったんです。そこには何度も何度も通わせてもらいました。

 そんな中、あるケアマネさんがフラッと見学に来てくれたんです。その時利用者の方は土曜に一人いるだけでした。「もう少し増えたら紹介できるかも」と帰っていかれたんですが、結局自分のお母さんを利用者さんとして連れて来てくれたんです。「お風呂に入れてください」って。僕はありがたくて、その利用者さんとずっと喋っていたんですよ。あっという間に時間が経って、「あれ? もう帰る時間ですか?」みたいな感じで。お風呂は誘ったけれど、断られてしまってケアマネさんに平謝りしました。来てほしいから嫌われたくない一心でした。その後もちゃんと通ってきてくださって、いつの間にかお風呂も入られるようになり、少しずつ利用者さんが増えていきました。「うちではテレビは置きません、レクもしません、何もしません」と言い続けていたら、どこのデイでも続かなかった方たちも通ってくるようになりました。そのうち利用者さん主催でイベントをやったりもして、職員が全部用意しなくても、こういう形でやっていったらいいんだということを学んだんです。今まで僕は利用者と職員という形でしか接していなかった。でもそこで、○○さん、△△さん、というように初めて固有名詞になったんじゃないかと。その経験はものすごく大きかったですね。

大事なことはみんな利用者さんが教えてくれた

 一人暮らしを続けたいというおばあちゃんが通ってくることになって、70代でまだ若かったんですけれど、パーキンソン病でした。本当はいけないことですけれど、朝7時に行って、ベッドから起きてもらい着替えを済ませ、朝ごはんの後に車に乗ってデイに。帰りは二人分の夕ご飯を職員にお弁当にしてもらい、おばあちゃんを送って一緒に食べて、寝るまでの介助をする。「また明日ね~」と帰るのが21時か22時というのを週4くらいでやっていたんです。実は始めは断っていたんです。めちゃくちゃ遠いところだったんで、それは無理です、って。だけど「テレビは置きません、レクはしません」と自分の好きな色を出しているのに、自分の思う送迎範囲の中で選ばれたらいいな、って思うことの方が勝手だなと思って。遠くても通おうと思っている人を断るというのは自分の都合過ぎるんじゃないかって。それで周りのベテランの人に相談してみたら「おまえが倒れたらどうするんだ」「そこまでするのはサービスじゃない」と言われたんです。介護職4年目の僕だってそんなふうにも考えた。だけど本当にそうなのか、結果を恐れずやってみたらいいと思って受けたんです。

 そしたらめちゃくちゃ仲良くなって、結婚が決まっていた彼女も紹介したくらい。僕も職員としておばあちゃんのことを知っておかなければならなかったけれど、おばあちゃんも僕のことをすごく知ってくれて、朝早く夜遅くも全然苦痛じゃなかったんです。

 ある朝、迎えに行ったら、すりガラス越しにおばあちゃんがベッドに腰掛けているのが見えました。体調のいい日は自分で起きれるんです。お、今日は体調いいんだと思って。すごく小柄なおばあちゃんだから、覗き込まないと顔が見えない。「○○さん、おはよう」って見たら、座ったまま亡くなっていました。

 お通夜に行った時にヘルパーさんの管理者の方が僕を見つけて声をかけてくれたんです。「○○さんは二言目には植さんの話をしていた」って聞いて、会ったこともないヘルパーさんが、僕のことを全部知っているんですよ。ご家族から「母は、植さんに出会えたことが幸せだったと言っていた」って聞いて、初めて人の役に立てたんだと思えたんです。介護冥利に尽きるすごい経験をさせていただいたなって。この人から学んだことはずっと続けていこう、それが恩返しかなって。それが今の自分に繋がっていると思います。

 講習をやっていたりして「誰を支持していますか?」ってよく聞かれるんですけれど、僕は誰でもないんです。ふっと浮かぶのが全部利用者さん。大事なことはみんな利用者さんが教えてくれた。それが唯一誇れるところです。

もう一度、家族や地域へ繋ぐグループホームへ

 「みのりグループホーム川内」に管理者として移って9年目になります。来た当初は、正直、あまり評判がよくなかったんです。しばらくは職員とも溝があるような状態が続いていました。

 ある時、身寄りのない女性が「お墓参りに行きたい」って言っているというのを職員から聞いて。聞いても場所が分からなかった。「どんなところ?」と聞いても「川」とか「学校」っていう単語が出てくるだけ。なんとか見つけられないだろうかと、その利用者さんを車に乗せて、戸籍謄本を取ったりして、やっと生家を探し出すことができたんです。やがて、お墓の場所を教えてもらうことが出来ました。事業所に戻って「墓、見つかったよ」とベテランの職員に言ったら「植さんは本気なんですか?」って聞くんです。「本気よ、この施設も変われると思っている」と答えたら、その頃から、何かあると、そのベテランの職員が僕の意見に賛同してくれるようになりました。他の職員も「○○さんが言うなら」とそこから一気にベクトルが向いたような気がします。

 職員全員にアンケートを取って面談をして、疑問や文句の一つ一つに向き合っていくようにもしました。逆に僕の管理者としての評価もしてもらったり。そんな真っ只中も、どうにもならなかった気難しい利用者さんが僕だけに気を許してくれるようになったりして、そうすると職員も「植の言うことは一理あるんだな」みたいになって、いつの間にか利用者さんが僕を「管理者」にしてくれたようなところもありました。

 僕はグループホームが好きなんです。まるめだから利用者さんの望みに寄り添える。介護度も幅広いので、一番長く利用者さんと付き合えるし、その姿を見ていられる。入居施設に入ったら、それでおしまいじゃなくて、その上でもう一度、家族や地域に繋げていきたい。最終的にご本人も希望するところだと思うんですよね。そこに挑めるんじゃないかと思っています。


みのりグループホーム川内 外観


敷地内にある畑で。
利用者さんが植えたいものを、利用者さんの好きなように育てる。

【久田恵の視点】
 植さんは、まさにホスピタリィーの心を持つ天性の方。個々の人の気持ちを察して、相手に安心と幸福感を与えることを自分の喜びにすることができる、介護がまさに天職なのだと思います。介護の分野では、時折、そういう方に出会ってしまいます。