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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第148回 救急救命士の資格を持つ消防官から介護職へ
命を明日につなげるのが救急医療なら、
その方が生き終えるまでを考えるのが介護職です

大岩 謙介さん(36歳)
医療法人社団つくし会 グループホームのがわ
ホーム長
(東京・小金井市)

取材・文:毛利マスミ

利用者さん中心の「スケジュールのないグループホーム」

 認知症対応のグループホームのホーム長をしています。入居者さんは18名と小規模で、みんなでワイワイと暮らしています。うちの特徴を一言で言うならば「スケジュールのないグループホーム」でしょうか。 レクリエーションは行いませんし、みなさん思い思いに自分らしく暮らしていただいています。玄関に施錠もしておらず、散歩も自由。もちろん、そっと後からついて行きますが。
 食事も献立作りから買い物、 料理、配膳、片づけまですべてみんなで行っています。暑い日が続くと、「昨日も、冷やし中華食べたよね」ということもありますが、普通に生活していればそんなこともありますよね。栄養学的には問題があるのかもしれませんが、利用者さんの「今、食べたい」という気持ちを尊重しています 。

 1日の予定を決めるということは、「●時には●●をしなければいけない」ということです。ですから予定をクリアするために職員がすべてを行ってしまうなど、本末転倒なことが起こってしまう可能性があります。それでは利用者さん中心ではなく、介護職中心ですよね。
 ここでの暮らしは自宅での生活の延長、あくまでも住み替えただけにすぎません。うちには要介護1~5までの方が入居していらっしゃいますが、利用者さんは、本当に自然な形で家事も行ってくださっています。もちろん、やりたくない方はやらなくていいのですが、主婦の方も多いためか掃除や洗濯など、みなさん進んで手を貸してくださいます。
 僕は利用者さんの「自分たちの生活」という意識を大切に、ふつうに日常生活を送っていただくのがグループホームの本来の姿だと思っています。そしてみなさんが「今」したいことをするために、どうしたらいいのかを臨機応変に考えるのが介護職の仕事です。

消防官をパワハラで退職。うつ病を患いつつ、介護職へ転身

 僕の前職は、救急救命士の資格を持つ消防官です。幼少の頃よりケガをしがちで、医療職への憧れから、救急隊として活躍できる消防官になりました。そんな僕が介護職に就いたのは、ある挫折があったからです。実は勤めて10カ月ほどでうつ病になってしまったのです。
 消防官になると、消防学校に入るのですが、当時僕は骨折をしていて訓練を受けることができませんでした。半年間、男ばかりの寮生活です。厳しい訓練が続き、みんなにストレスも溜まってくると、だんだんに仲間から外されるようになり、やがていじめが始まりました。逃げ場のない暮らしのなかで夜も眠れず、食事も摂れなくなった僕が、教官に指示されて病院に行くと、「あなたはうつ病です」と言われました。

 それから休職扱いとなり自宅療養になったのですが、毎週のように上司が訪ねてきて、消防学校を途中で辞めた中途半端な人間は雇っていられない、というようなことを言うのです。今思うとパワハラ以外の何物でもないのですが、心を病んでいた僕は耐えられずに心ならずも退職を決意しました。家族からは、せっかく消防官になったのになぜ辞めるのか、辞めるなら1か月以内に仕事を見つけて家を出ていけと言われました。
 失意の底にいた僕に今の仕事を紹介してくれたのは、学生時代からの友人です。しかし当時僕は正直に言って、介護職にはよい印象はもっていませんでした。認知症の人は何もできなくて、問題行動ばかり起こす人。ご飯を口に入れられて、漏らした排泄物を介助してもらう人……。でもここで接しているうちに、みんな普通のおばあちゃんだということに気づいたのです。

希望の実現のために、何ができるか考えるのが僕たちの仕事

 そして、仕事に慣れるにしたがって利用者さんそれぞれにやりたいこと、要望があることも知りました。当時のホーム長からは、「大岩君だったら、何ができるのかを考えよう」と、常に問いかけられました。「どうしたら利用者さんの希望を実現できるのか。それを考えるのが僕たちの仕事だよ」と言うのです。
 僕はうつ病だったこともあり、「自分はこんなこともできない」とネガティブに考えてしまいがちでしたが、「利用者さんのために、何ができるのか」を考えるうちに「自分はこれならできる」というように意識が変わり、2年を過ぎる頃には通院も辞めることができました。そして3年が経つ頃には、介護職という自分の姿を誇れるようになっていました。

 介護職のすごいところは、その方の代弁者になれることだと思います。利用者さんの思いを叶えるには、その方のバックグラウンドを知り、家族とコミュニケーションを取ることが欠かせません。そして利用者さんを理解して、その方を知りつづけていくこと。それができて初めて介護職なのかなと思っています。たとえば、Aさんという利用者さんの気持ちを、「私なら嫌だと思うんです」と、あたかもAさんの思いを語っているように「自分語り」をするスタッフがいますが、そんな話し方をしている間は介護職ではありません。
 「Aさんはこういう生き方をしてきて、こういうときにはこんな行動をとることが多いから、この場面ならこう感じていると思う。だからこうしてあげたいと思う」。こんな風に言えるようになってようやく、このスタッフはAさんの代弁者になろうとしていることがわかります。常に利用者さんの気持ちがそこにあることが、介護職の一番大事なことです。

救急隊にも、もっと認知症について理解を深めてほしい

 ほぼ全員が延命を望んでいらっしゃらないので、救急救命士の資格が役立つことは、実はほとんどありません。医療職は「生きている」ことを重視しますが、介護職は「その人らしく生きていること」を重視します。尊厳と表現できるかもしれません。命を明日につなげるのが救急医療なら、最期の時をいかに迎えていくのか、そのために何をして差し上げられるのか。その方が生き終えるまでを考えるのが介護職です。
 僕の学生時代の友人には医師や看護師も多いのですが、救急の現場から地域医療、訪問医療に転職する仲間も意外とたくさんいます。在宅医療はまだ社会的なシステムも不十分なので、その部分を支える人間になりたいと。
 介護職になって思うのは、高齢者が街にあふれるということが社会の状況としてわかっているはずなのに、消防はなぜ認知症のことを勉強しないのかということです。救急のシステムも含め、認知症や高齢者への理解はまだまだ十分ではありません。これは、消防から介護職にきた人間だからこそわかることだと思うので、伝えていきたいですね。

「おいしそうなランチだね」「あなたも食べて行きなさいよ」。笑顔で利用者さんとの会話が続く。

【久田恵の視点】
 「利用者の方の代弁者」になるには、相手の方への深い理解があってできることなのですね。介護の現場では、「そこがいい場所かどうかって、結局は人できまるんだよね」、という声をよく聞きます。誰がホーム長であるか、そのことの大事さを実感させられますね。