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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


●インタビュー大募集
「このコーナーに出てみたい(自薦)、出してみたい(他薦)」と思われる方がいらっしゃったら、
kawase@chuohoki.co.jp
までご連絡ください。折り返し、連絡させていただきます。

花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第22回 フィリピンから単身日本へ 
電気、水道が止まる極貧生活のさ中、夫が蒸発!
幼い子どもを抱えての奮闘から幸せをつかむまで

河村ガウディオサさん(44歳)
いっしん館 瀬谷(神奈川・横浜)

取材:藤山フジコ

これが普通だと思っていた

 フィリピンで生まれ育ちました。7人兄弟で、家は貧しく、生活が大変だったので、「お父さんやお母さんを楽にしてあげたい」と、高校を卒業してすぐに日本にやってきました。来日したのはちょうど冬だったので、暖かいフィリピンから来てみると日本はびっくりするほど寒く、まるで違う世界に来てしまったと感じましたね。

 すぐにフィリピンの飲食店で働き始めましたが、日本語が全くわからなかったので、ちょっとした英語と、あとは身振り手振りのコミュニケーションで仕事をしていました。その店で8か月働き、そこで知り合った日本人と結婚しました。相手は24歳年上、私はまだ19歳でした。

 店を辞めて家庭に入り、専業主婦になりましたが、21歳で長女、23歳で次女を出産し、また仕事に戻りました。今度もフィリピンの飲食店です。そこでスタッフとして働きました。夜の仕事なので、昼に仕事をしている夫と交代で育児をして、9年間その生活は続きました。家族のため、子どものため、これが普通だと思っていたので、別に大変だとは思いませんでした。

 三女を妊娠し出産したので、仕事を辞めたのですが、その頃から夫の仕事がうまくいかなくなり、乳飲み子を抱えながらまた別のフィリピンの飲食店で働き出しました。夫は仕事があったり、なかったり・・。私の稼ぎで一家を支えなければならなくなりました。「私たち、どうなっちゃうのかな・・」と毎日不安でした。

電気が止まったり、水道が止まったり・・

 そんなとき、友人にアイ・ピー・エスという外国人介護スタッフサービス会社を紹介してもらい、働きながら休日の土日に「東京ケアギバーアカデミー(※現在休校中)」で勉強し、ヘルパー2級の資格を取得しました。

 その頃、夫にさまざまな問題が出てきてお金に困り、電気が止まったり、水道が止まったり・・。水がないと顔も洗えないし、トイレも流せない。近くの公園まで何度も水を汲みに走りました。電気が止まったときは、ろうそくで生活して。3人の子どもを抱え、必死だったあの頃を思うと、今でも涙が出てきます。もう何度も何度もフィリピンへ帰ろうと思いました。でも、日本で育った子どものためにならないと踏ん張りました。大変な毎日だったのだけど、夫と別れようとは思わなかったんです。良い人だったし、人生、良いときもあれば悪いときもある。それに24歳も年上の夫を放ってはおけないと。

 そのうち、借金取りが家に押しかけてくるようになったんです。もう不安で押しつぶされそうになっているとき、私と3人の娘たちを残して夫が突然蒸発してしまったんです。「私と子ども、これからどうなるの!」と腹が立ちました。頼れる人は誰もいなかったのです。

 そのとき私は、アイ・ピー・エスから派遣されて「いっしん館 瀬谷」というグループホームで働き始めたばかりでした。夫が車とともに蒸発したので、片道40分、毎日職場まで歩いて通いました。歩きながら涙が止まりませんでした。夫には何度もメールしてやっと連絡がつき、1か月後に帰ってきましたが、この一件で、もう私は夫と一緒に人生を歩むことはできないと決心がつきました。

子どもたちは、何があっても私が守る!

「子どもさえいれば、あとは何もいらないから」と、夫と離婚して、狭いアパートに引っ越し、親子4人の新生活がスタートしました。ずっと夜の仕事をしていたので、昼の仕事に就いたら子どもたちはすごく喜びました。私、やっと昼の人間になりました(笑)。生活は相変わらず大変でしたが、安定していたので、やり繰りしながらなんとか毎月を乗り越えました。「子どもたちは、何があっても私が守る!」――、そんな心境でした。

 「いっしん館 瀬谷」で働いて3か月後に「社員にならないか」と誘っていただいたのですが、日本語の読み書きに自信がなかったのでお断りしたんです。1年後、「今のままのガウディでいいから」と言っていただいて社員になりました。ここに勤めて5年になります。

 フィリピンでは、介護施設に入居できる人はお金持ちだけ。家族で面倒を看るのが一般的ですね。みんなお年寄りを世話するのが大好きなんです。そんな文化で育ったので、介護職に就くことには全く抵抗はありませんでした。ここでは、入居者のお世話だけでなく、ご飯を作ったり、掃除をしたり、今まで自分のしてきた経験を活かせるので、スッと入っていけました。

仕事は楽しいし、「天職ね」と言われます

 ここで接するお年寄りの昔の暮らしと、私が育ったフィリピンでの生活がとても良く似ているんです。自分のお父さんやお母さんもこんなことよく言ってたな・・と懐かしく感じます。戦争の話や若い頃のことなどもお話ししてくださるので、日本の文化について勉強にもなります。入居者の方たちがどうやったら喜んでくれるか、楽しんでくれるかと常に考えています。仕事は楽しいし、「天職ね」と言われます。この仕事のおかげで娘たちを育てることができて感謝しています。

 2年前にアメリカ国籍のフィリピン人と再婚しました。もうぜいたくなことは何も望んでいないので、人生の中で今が一番幸せです。今の幸せを思うと、神様は見ているんだなと。あのときがあったから今がある。カトリックなので、礼拝に行くと、「神様ありがとう」と感謝します。

 幼い頃から、ずっと働きづめの人生でした。やっと余裕ができたので、今までできなかったことをやってみたい。介護の仕事も続けて極めてみたいですね。大変なとき誰も頼れる人がいなかったので、娘たちにはそんな思いをしてほしくない。夫とずっと日本で暮らし、将来、娘たちに子どもができたら、孫の面倒をみるのが楽しみです。

ガウディオサさんを見つけて喜ぶ入居者

インタビュー感想

 日本に単身来日してから苦労の連続だったガウディオサさん。そんなことは微塵も感じさせない笑顔で半生を語ってくださいました。別れた元のご主人が高齢になり、介護が必要になったら面倒を看てあげたいと話す彼女は天使のようで、本当に優しい方なのだと思いました。その優しさは介護の世界でも存分に発揮され、入居の方々やスタッフにも「ガウディ」「ガウディ」と愛称で呼ばれる人気者です。当時を思い出されて涙する場面もありましたが、再婚され、「こんな幸せな人生になるとは思わなかった」と話すガウディオサさん。本当に神様は見ていたんですね・・と、こちらも幸せな気持ちになりました。

【久田恵の眼】
 出稼ぎ大国のフィリピンでは、多くの女性たちが全世界に散らばって、ガウディオサさんのように、子どもや高齢者や病気の人をケアする仕事をしています。そして、そのケアの力がとても賞賛されています。でも、家族のために異国に出稼ぎに出るという選択には、大きな覚悟と勇気、さらにそれができる心身の強さを欠かすことができません。
 あの有名なレイモンド・チャンドラーの言葉を思い出しますね。
「強くなければ、生きていけない。やさしくなくては、生きている資格がない」
If I wasn’t hard,I wouldn’t be alive.If I couldn’t ever be gentle,I wouldn’t deserve to be alive.