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福祉の現場で思いカタチ
~私が起業した理由わけ・トライした理由わけ

介護や福祉の現場で働く人たちはもちろん、異業種で働く人たちのなかにも、福祉の世界で自分の想いを形にしたいと思っている人は、実はたくさんいます。そして、今、それを実現できるのが福祉の世界です。超高齢社会を迎え、これからますます必要とされるこの世界では、さまざまな発想や理想のもとに起業していく先達が大勢いるのです。そんな先達たちは、気持ちだけでも、経営だけでも成り立たたないこの世界で、どんな思いで、どんな方法で起業・トライしてきたのか、一か月にわたって話を聞いていきます。行政への対応や資金集めなど、知られざる苦労にも耳を傾けながら、理想を形にしてきた彼らの姿を追います。


●インタビュー大募集
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花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第23回③ 南 寿樹 NPO法人くるみの会 生活介護事業所「来夢(らいむ)」 所長
支援する仲間をどんどん増やすのが
継続の力になる

NPO法人くるみの会 生活介護事業所「来夢(らいむ)」 所長
南寿樹(みなみ としき)
1958年生まれ。愛知県立の特別支援学校の教員を務めながら、「フレッシュ」「紙風船」「ポップコーン」「あそび座」と車いすを利用する肢体不自由児者による4つの人形劇団を設立。なかでも「フレッシュ」は2000年にフランスの国際人形劇フェスティバルから招待を受け、海外公演も果たした。「世界初の肢体不自由児者の人形劇団創設と自立支援活動」で第46回博報賞特別支援教育部門を受賞。また、「愛知県障害者(児)の生活と権利を守る連絡協議会」副会長、「愛知県しょうがい者の生活を豊かにする会」会長を務めるなど、在職中から愛知県豊明市を中心とした障がい児者の社会自立支援活動を精力的に行っている。2019年に特別支援学校教諭を退職。


グループホーム建設準備募金活動も行っています。ご興味のある方は、ご連絡ください。

取材・文:毛利マスミ


──前回は、障がい者福祉の現場で欠けている視点、「来夢(らいむ)」の理念、スタッフのことについてなどをうかがいました。今回は、特別支援学校の教諭となったきっかけや活動の原点でもある教員時代に立ち上げた人形劇団についてお聞きします。

──特別支援学校の教員を志したきっかけを教えてください。

 教員になろうとは、まったく考えておらず、京都大学の経済学部を目指していたんですが、浪人してしまいました。その浪人時代に体力づくりのために、近所の小学校の校庭で運動をしていたのですが、これが私の人生を大きく変えました。校庭に通ううちに、子どもたちと仲良くなってしまい、しまいには家まで遊びに来るようになっていました。それで、子どもたちと毎日楽しく遊べるならと、進路を変更して教員を目指すことにしました。
 さらに、教育実習先では、併設されていた特別支援学級の子どもたちと仲良くなってしまい、それを見た校長先生からの推薦もあって、卒業後は特別支援学校の教員となりました。そもそも小学校の普通学級の教員になるつもりでしたから、特別支援教諭の免許は持っていないんです。

──特別支援学校で教諭を務める一方、数多くの障がい者福祉の活動に尽力して来られていますが、その姿勢は、どこで育まれたものなのでしょうか。

 特別支援学校に新任として赴任したとき、私は高等部の入学選考の担当になりました。高校は義務教育ではないので「障がいの重い生徒には入学願書を渡さなくてもいい」という指示に最初は何の疑問も感じませんでしたが、先輩教員や保護者の「在宅も進路とはおかしいと思わない?」という声に突き動かされ、教育権の保障運動(署名を集め県議会に働きかけるなど)に参加しました。
 さらに活動のなかで、あるお母さんから「教育も大事ですが、卒業後の生活の方がずっと長い。ほとんどの親が一番心配しているのが親亡き後のことです。子どもたちが、活動する場づくりに力を貸してください」という働きかけがあり、心を揺さぶられました。
 これをきっかけに、施設づくりの活動に関わるようになり、これまで5つの施設を立ち上げ、障がい者(児)関係者の声をまとめ行政と交渉する愛知県障害者(児)の生活と権利を守る連絡協議会の役員なども務めています。

 ほかにも、生徒からの「夏休みの40日間、一度も家から出かけてない」「今の生活はつまらない。楽しいことない?」という問いかけを受けて、私なら、ストレスがたまっておかしくなるなぁと感じ、私が学生時代から取り組んでいた人形劇を一緒にやらないかと提案。学級活動の一つとしてスタートした人形劇は、保護者や教員仲間、ボランティアなどの協力を得て、あれよあれよと世界初の肢体不自由児者による人形劇団「フレッシュ」となりました。

 私はこれまで、何事も「一緒にやっていきましょう」というスタンスで、続けてきました。卒業後の居場所や親亡き後の不安など、親御さんの悩みは尽きません。でも、私だってこの先何十年も活動できるわけではありませんから、「支援する仲間をどんどん増やしていきましょう」と、活動を続けています。

──海外公演まで果たした、人形劇団について教えてください。

 1992年に「フレッシュ」、1996年に「紙風船」、2002年に「ポップコーン」、2004年に「あそび座」と、4つの人形劇団を結成しました。いずれも教え子たちを中心とした活動です。「フレッシュ」を立ち上げた当初の、「北海道から沖縄まで、日本全国を公演旅行しよう」という夢は、多くの支援者に支えられて実現。さらに2000年には、フランスの国際人形劇フェスティバルに招待され、海外公演も果たしました。

 また、プロの人形美術家のおばらしげる氏との出会いが私たちの活動を大きく発展させてくれました。初めは人形に取り付けた棒を一緒に持っての操作でしたが、「指が2~3センチしか動かない、ではなく、2~3センチも動くとみよう」と、発想の転換をはかってくれたのです。
 こうして、障がいのある仲間が表現の主体者になるように、筋力が弱くても扱える軽い人形や、わずかな指の動きで口や手足が動く人形が誕生。介助の手を借りずとも、子どもたちがひとりで人形を扱えるようになったんです。

 公演で浴びた拍手喝采は、子どもたちの「まんざらでもない自分」に対する、大いなる手応えとなりました。また、お母さんの一人からは、「社会のお荷物だと思っていたわが子が、そうではないことに気づかされた。人形劇は私と息子の生きる力になっています」という手紙をもらいました。
 その後、「紙風船」は全国初の重度肢体不自由者によるプロの人形劇団になり、「フレッシュ」は、ボランティア活動を続け、2016年には東北復興支援公演ツアーも成功させました。

──ありがとうございました。次回は、障がい者にとってのやりがいのある活動や今後の夢についてうかがいます。

人形劇団フレッシュの岡山公演の様子。人形には、力が弱くても扱いやすいような工夫が凝らされている。


人形劇では、障がい者も健常者も一緒に一つの舞台をつくりあげる。