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和田行男の婆さんとともに

和田 行男 (和田 行男)

「大逆転の痴呆ケア」でお馴染みの和田行男(大起エンゼルヘルプ)がけあサポに登場!
全国の人々と接する中で感じたこと、和田さんならではの語り口でお伝えします。

プロフィール和田 行男 (わだ ゆきお)

高知県生まれ。1987年、国鉄の電車修理工から福祉の世界へ大転身。
特別養護老人ホームなどを経験したのち99年、東京都で初めてとなる「グループホームこもれび」の施設長に。現在は株式会社大起エンゼルヘルプ地域密着・地域包括事業部 入居・通所事業部部長。介護福祉士。2003年に書き下ろした『大逆転の痴呆ケア』(中央法規)が大ブレイクした。

昭和62年痴呆性老人処遇技術研修1

 緊急事態宣言が出され名古屋の自宅に籠っていますが、「この間にあれこれ仕上げよう」と思ってはいるものの、細かいことに追われ、何も仕上げられずに時間だけが過ぎていきます。

 仕上げたいことのひとつが「片づけ」なのですが、片づけをし始めると片づけているモノの中身に興味が走り、前に進めなくなります(なりますよネェ)。

 先日片づけていて見つけたのが写真のもので、痴呆性老人処遇技術研修という研修の「実習ノート」です(痴呆とは認知症の前の呼称です)。

 僕が介護業界に入ったのは1987年・昭和62年4月ですが、この実習を受講したのは同年9月~翌年2月までの2週間ほど。実習先は特別養護老人ホームで、そこに泊まり込んでの実習でした。

 痴呆症という呼称は認知症に変わり、今でいう「認知症介護実践者研修」の走りとなった研修会といえるかもしれません。

 今調べると、痴呆性老人処遇技術研修というのは、昭和59年厚生労働省より通知されたもので、「特別養護老人ホーム等において入所者の処遇に直接従事する寮母、生活指導員が対象で、実習施設において指導寮母とペアを組んで日常の介護業務を行いながら、痴呆性老人の処遇について夜間業務も含めて実習する」とあり、当時としては画期的な研修だったようです。

 当時の僕は岐阜県の特別養護老人ホームに就労したばかりで、その僕に貴重な機会を与えてくれたのも、その後のことを思うと何かのご縁でしょうが、記憶する限り岐阜県第一号の受講者で、国が実施する痴呆性高齢者に関する全国研修が県で初めて開催されるということでNHKの取材を受けています。
 介護業界に入ったばっかりの頃からNHKさんとはご縁があったようなのですが、実習ノートには「研修というより取材の一日で慌ただしかった。細かく御老人に気配りした研修とはいきませんでした」とチクリ。

 前期と後期に分かれての講義と実習の構成となっており、その実習でのレポート(講義のページもありましたが、何ひとつ書いていませんでした)なのですが、当時の僕がどんなことを思ったのかが記録として残っていましたので、少しご紹介したいと思います。

 読み返してみて驚いたのは、僕が入った実習施設は男性介護職である僕にオムツ交換(排せつ介助)をさせてくれなかったようです。記憶が定かではありませんが、記録にはそう書いてありました。そういや実習施設では、介護職員に男性は一人もいなかったように思います。

 その証のように前述通知文にも「寮母・生活指導員が対象」とあり「指導寮母」となっていますもんね。逆に当時は特別養護老人ホームの生活指導員に女性が少なかったのではないでしょうか。
 当時僕ら男性介護職員は、女性介護職員の「寮母」に対して「寮父」と呼ばれていましたが、おかしな呼称でしょ。
 その寮父が通知文には「寮母・寮父」とも「寮母等」とも書かれてなかったようですから、対象者が存在していなかったんでしょう。

 今でこそ、介護事業所に男性介護職員はたくさんいますが、僕が入職した頃はとても珍しく、僕が入職した法人には男性介護職員が何名かいたのが先駆的だといわれていましたからね。
 男性介護職員を見聞きするようになったのは、平成6年頃からじゃなかったかなぁ。

 今ではもう皆無じゃないかと思いますが、この実習施設は当時「混浴」で、脱衣場も浴室も男性・女性が入り混じっていました。
 僕は実習レポートに「混浴ということで初めはヘーッと思いましたが、御老人も全く気に止めるような方はなく、別にたいした問題ではない…むしろ女性と男性の交流の場になり得るという利点もあるのかもしれません」と記しています。

 でもその後の僕は「混浴は日本社会にある文化だ」としたうえで「混浴は選択肢であり、選択するかしないかの選択権は自分にある」のが日本社会のあり様で、介護施設に混浴があることは肯定できたとしても、本人の意思とは無関係に混浴に入浴させるのは問題だと話すようになりました。同時に、日本の文化ともいえる混浴の選択肢が社会福祉施設にないのはおかしな話だと付け加えてもいますがね。

 実習中、僕が関わらせてもらったのはガンさん(仮名)という方のようで、ガンさんとのやりとりがレポートされていますが、あることを通じて「御老人が納得いくまで的確に応える姿勢を忘れていました」と省みており、「接する時間というのは最も大切なのかもしれません」と記し、前期最終日のレポートでは「どんなに仕事に追われていても、御老人とじっくり接することが大切な時は心ゆくまで接せられる“ゆとり”が大切ではないか」と介護現場における仕事での優先順位に疑問を投げかけています。生意気な一年生であり実習生だったことでしょう。

 今の僕は「処遇」という言葉は使いませんし「御老人」とは書かないところが違ってきていますが、前期レポート最後の言葉に「ガンさんとの再会を楽しみに、後期研修まで己を鍛えたいと思います」と結んでいるところは、介護業界一年生の時から“職業人和田行男”で変わっていないんだろうなって思いました。

 次回、後期実習レポートからひろって御紹介させていただきます。

追伸

 17年間、自宅から450キロ離れた地にありますが、毎月のように飲みに行っていた珈琲専門店のマスターが死にました。ガンとの闘病でしたが尽きました。

 この17年間、店内で別の客に会った記憶は一度か二度で、同じ空間で一緒に飲んだ記憶はありません。つまり珈琲豆を買いに来た客に会ったのさえ一・二度しかなかった「客に遭遇しない珈琲店」で、気に入らない客には、珈琲しか売っていないにも関わらず、それを提供しないマスターでした。
 僕にとって年齢は上だし、関係は月いちでしたが、「ともだち」と言える存在で、よく社会のあり様について語り合ったもんです。
 自分で焙煎するマスターの珈琲は、他の店では味わったことがないものでした。
 そのマスターがこだわった超特別で超高額なブルーマウンテンを出してくれたとき、「マスター、あかん。これは珈琲じゃない、白湯やな」と文句を言うと「和田さんは、そう言うと思った」と身体じゅうがニヤけたマスターの姿を思い出します。

 この訃報と同じタイミングで、注文をまちがえる料理店の仲間から「独立します」的メールがきました。これが不思議なことに「珈琲野郎」で大手の珈琲屋を卒業して自家焙煎の店を出すようなのです。
 よくばあちゃんが死ぬタイミングと子が生まれるタイミングが重なり「生まれ代わりかねェ」って言いますが、ほんとそんな感じで、二人は「自家焙煎家」という共通点だけなのですが、僕を「家(か)」が護ってくれているように思え、ありがたさを感じています。