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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

参加することに意義がある

 Covid-19禍の下で、またオリンピックがはじまりました。何のためにオリンピックを開催するのか、憤りにも似た疑問を抱きます。

 近代オリンピックの父といわれるピエール・ド・クーベルタン男爵は、「オリンピックは勝つことではなく、参加することに意義がある」という名言を残しました。この名言について、日本オリンピック委員会のホームページに詳しい解説がありますからそちらもご覧ください(https://www.joc.or.jp/olympism/coubertin/)。

 フランス人であるクーベルタンの名言の中心部は、“ L´important,c´est de participer”が原文らしく、英訳では“The important thing in the Olympic Games is not to win,but to take part”とされています。

 この名言にある“take part”を「参加する」と邦訳すると、誤訳ではないけれども「本来もっている意味と違う意味で受け取られる」問題があると指摘したのは内田義彦さんの『社会認識の歩み』(岩波書店、19頁、1971年、まだ現役の新書です)です。

 内田さんは、「社会科学は、われわれの生活現実のうえに立って、それを科学的に処理するところに成立する」学問であるから、「言葉の面でいうと、社会科学の用語は日常語と学術語の双方に足を出して」いると言います。

 そこで、原文にある“take part”と日本語の「参加」が生活現実における日常語としてどれほど意味が違ってくるのかを、社会科学的な認識の成立過程の問題として指摘するのです。

 “take part”とは「ある特定の人が、ある特定の部署を責任をもって果たすという意味」であるのに対し、「参加する」という日本語は「とにかく顔を出しておけばいいんだろう、何しろ参加することが大切だからという、はなはだ無責任な言葉に化け」るのです(同書17-18頁)。

 それぞれの個人が自分の持ち場を責任をもって果たすのではなく、「個人が集団に埋もれちゃう」、「集団をまるがかえにしたエライ人になるか、集団に埋もれるか、いずれにしても自覚した個々人が、共同の行為で共通の目的を持った集団を形成すること」が少なく、「こういう日本的参加に埋まっているかぎり、絶対に社会科学は自分のものにならない」。

 したがって、「一人一人が決断と責任をもって共同の仕事に参加するという行為の継続の中でこそ、一人一人の中に社会科学的認識のそもそもの端緒ができる」(同書19頁)と指摘します。

 このようにみてくると、クーベルタンの名言の真意は、次のようになるのではないでしょうか。

 「オリンピックは、とにもかくにも参加することに意義ある」というのではなく、「オリンピックという共同の取り組みに1人1人が責任をもって参加するという行為の継続を通して、一人一人の中に国際平和を実現する社会科学的認識の端緒を形成し深め、分かち合っていくことに意義がある」と。

 わが国における社会福祉システムにおいては、今世紀に入り、名目的には「参加する」ことが原則として位置づけられるようになりました。市町村自治体のプランニング、個別支援計画の策定、サービス利用契約のすべてが、市民として、利用者として「参加する」ことを原理原則とするシステムとなっています。

 ところが、これらの多くが「個人が集団に埋もれちゃう」日本型参加によって形骸化し、サービスと施策の質を高めていくための端緒を形成し深めていくものとはなっていません。

 それに加えて、北欧における本来の意味からわざと意味をずらして政策的に使われた言葉もあります。「ノーマライゼーション」がその典型です。

 わが国では2000年の社会福祉基礎構造改革に向けて、支援に責任を持つのは公助だけではなく、共助・自助を含めて「みんなで支え合う」という意味にノーマライゼーションの意味をすり替えて、国家責任を希釈化する地ならしをするための用語として意図的に使われてきました。

 このような政策用語の操作が通用してしまう土壌にも、「会議なんかでも『賛成意義なし』」(同書19頁)で通り過ぎてしまう「集団に埋もれた個人の無責任性」があったのではないでしょうか。この問題点が、サービスの利用契約制度の形骸化につながり、「利用者主体のサービス」からほど遠い現実を今日まで産出し続けています。

クーベルタン像-オリンピック記念館前

 さて、オリンピックに関するクーベルタンの名言はもはや完璧な死語です。現在のオリンピックは、「メダルの色・数、経済効果および国威高揚に意義がある」に貶められています。Covid-19禍はスポーツの感動という金メッキを剥がし取りました。

 パンデミックに喘ぐ膨大な数の人たちが世界中にいる現実をしり目に、オリンピックを開催し続けるIOCという組織は腐敗しきっていると思うようになりました。民衆にとって、Covid-19禍は厳しい現実であり、「スポーツの力」はただの幻想です。

 大学は今、入試に追われ、在学生には試験に卒業論文の提出があり、教員には成績をつけながら来年度の体制を作るための実務に多忙な時節です。そこをオミクロン株の感染拡大が襲い、学生や教職員に感染者が出て、その対応に右往左往しています。

 テレビでオリンピックを観る気はまったくありません。「勝手にやってください」くらいの気持ちです。「スポーツの力」よりも、「すべての国民に行き届く充実した検査・医療体制の力」が必要なのです。

 「スポーツの力」にリアリティがあるのは、メダルを獲得してご褒美の賞金に与る選手、公共事業にありつける業界、そして大手不動産会社だけです。東京2020はCovid-19禍でインバウンド需要はほぼ全滅でしたから、観光・飲食関連の業界にとっても、オリンピックの幻想は幻滅に帰結しました。

 私たちにはオリンピック・ムーヴメントに参加することによって、現在のオリンピックに巣食うスポーツ幻想と拝金主義を拭い去る責任を分かち合うべき時期に来ているのではありませんか。