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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

破戒の真相は何か

 埼玉県ふじみ野市で、在宅医療に携わる医療関係者が発砲に遭い、その内一人の医師がお亡くなりなりました。心からご冥福をお祈り申し上げます。

 この医師は、富士見市・ふじみ野市・三芳町の2市1町の在宅患者の8割に当たる約300人を診ていたと報じられています。この間は、Covid-19に係わる在宅医療にも取り組んでおり、在宅医療に係わるとてつもない努力をされていた様子が伺えます。

 昨年末には、大阪市北区の心療内科クリニックの放火事件でも院長をはじめとする多数の死傷者が出ました。これらの犯人の動機や目的などについて詳細なことは分かりませんが、呪いにも似た怨嗟の感情を募らせていたことは間違いありません。

 このような事件が起きると、「厳罰を求める」被害感情をテコに刑事罰の量刑のあり方に関心が集中しがちです。しかし、このような事件を繰り返さず、未然に防止できる取り組みを進めるための教訓を明らかにすることは何よりも大切です。

 そのためには、わが国の司法には、どうしてこのような犯行が発生したのかを徹底して解明する責任があるのではないでしょうか。わが国の裁判所は、アンナ・ハーレントの言葉を引用すると組織的な凡庸さの権化と化してきました。「凡庸な悪の陳腐さ」の巣窟で、人権擁護に資する法理の創造を課題に据えることは滅多にありません。

 それにしても、これらの事件で犠牲になった二人の医師は、医療と暮らしに係わる地域支援システムにおいてまことに重要な役割を果たしてきた方たちです。ここまでの地域支援システムづくりは、地域の医療・福祉関係者と地域住民の協働作業として、大変な労力と時間をかけた営みだったと思います。まさに、挑戦と創造です。

 このようなかけがえのないケアのシステムを、個人的な恨みから一瞬のうちに破壊するという事件が相次いでいます。しかも、この二つの事件には、犯人の周到な計画性が伺えます。このようなケアの貶め方は、どのような文脈によるものなのでしょうか。

 自分はもっと尊重され配慮されるべき存在であるにも拘らず、相手がそれを受けとめようともしない。そして、自らの全能感を踏みにじられたことに対する報復として、このような事件が発生したのでしょうか。

 ここで、二つの疑問が湧きます。一つは、高度な専門性を持つ医師を前に、肥大化した自分の全能感を振りかざすまでの運びを支え導くものは何か。もう一つは、喰ってかかりたい怒りがあるとしても、それを殺人行為にまで走らせる飛躍がどうして起こるのか。

 まず、肥大化した全能感について。このような全能感の内実は、からっぽです。もし、自らに確かな根拠にもとづく見識と対案があれば、それを提示すればいい。

 ところが、そのような内実のなさに怯えながら、自分の力を誇示して一方的に押し通したいとなると、大声で相手を否定し、土下座を求めるなど、クレームを突きつけ続けるしか道はありません。

 奇妙なことに、ここでは人間が形式的に平等化されています。つまり、それぞれの人間の持つ多彩な価値を等閑に付して、自分の優位性を力づくで作ろうとしているのです。まるで、抽象的な交換価値に還元された人間が、市場で何らかの多大な影響力を行使することによって、自らのアドバンテージを高めようとするかのようです。

 もう一つは、喰ってかかっていきなり殺人に及ぶ点についてです。このような犯人の日常生活世界の共通点は、話し合いによって折り合いをつけるプロセスを相手と共有するという民主的な所作が欠如していることです。

 ケアを受ける者は提供する者でもあるという平等な地平に立って、意見や事情の違いを話し合いによって折り合いをつけるプロセスを作ろうとはしません。自分の意見が通らないのであれば、相手を圧倒することのできる何らかの力(政治力、公権力、経済力、暴力など)を行使して、腹いせすればいいと考えを運びます。

 つまり、破壊しようとする者が放火・ナイフ・銃などによる圧倒的な力を行使すれば、自分のからっぽさを棚に上げたまま、いかなる相手に対しても自分の社会的な優位性を誇示できることに確信を持っています。

 自らに対する一方的なケアを求めはしますが、他者に対するケアを考慮することのない無責任を貫くのです。

 このようにみてくると、今回の二つの事件は、「ケアの貶められた現在の社会」を象徴しているのではないでしょうか。

 人間が交換価値に貶められ、それぞれの人のインテグリティー(その人らしさ)が見失われ、力の優位性をテコにして自らのケアだけを求め、他者のケアには一切の責任を負おうとはしない。

 すなわち、人間と社会に係わる荒涼とした新自由主義的世界が私たちの日常生活世界を広く植民地化していることを私は思い知るのです。

 46億年に及ぶ地球の歴史に支えられて、人間が今日までに築いてきた社会、文化及び自然の持続可能性は、わずか数十年という地球にとっての一瞬に、新自由主義によって破壊しつくされるのかも知れません。

庭にやってきたメジロ

 さて、厳寒期はさまざまな野鳥が餌を求めて人里にやって来ます。甘党を代表する野鳥のメジロが、毎冬わが家の庭を訪れてくれます。メジロは目の周囲の白い部分の大きいオスほど、メスにもてるそうです。これはそのようなオスの方が健康体であるからだそうで、人間にはびこるルッキズムではありません。

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