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福祉の現場で思いカタチ
~私が起業した理由わけ・トライした理由わけ

介護や福祉の現場で働く人たちはもちろん、異業種で働く人たちのなかにも、福祉の世界で自分の想いを形にしたいと思っている人は、実はたくさんいます。そして、今、それを実現できるのが福祉の世界です。超高齢社会を迎え、これからますます必要とされるこの世界では、さまざまな発想や理想のもとに起業していく先達が大勢いるのです。そんな先達たちは、気持ちだけでも、経営だけでも成り立たたないこの世界で、どんな思いで、どんな方法で起業・トライしてきたのか、一か月にわたって話を聞いていきます。行政への対応や資金集めなど、知られざる苦労にも耳を傾けながら、理想を形にしてきた彼らの姿を追います。


●インタビュー大募集
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花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第53回②
素顔館 館長 能津 喜代房さん
時代はフィルムからデジタルへ。
父の死によって「遺影写真」と向き合う。

素顔館 館長
能津 喜代房さん(74歳)
1948年山口県宇部市生まれ。東京工芸大学(旧東京写真大学短期大学部)を卒業後、資生堂宣伝制作写真部に入社。やがてフリーのカメラマンとして広告写真の分野に携わる。1988年、有限会社STUDIO‐CAN設立。1990年、朝日広告賞部門賞受賞。2002年、ニューヨークADC銅賞、TDC賞受賞。2008年、60歳になったのを機に遺影・肖像写真館 「素顔館」開館。日本写真家協会会員。

 取材・文 原口美香

―前回は、生まれ故郷の山口県宇部市を出てフリーの広告カメラマンになられたお話を聞かせて   いただきました。
 今回は、60歳をきっかけに広告写真をやめ、遺影写真を撮ろうと考えた経緯を伺っていきます。

 僕の時代はずっとフィルムで仕事をやっていました。シャッター1枚切る瞬間にしても、フィルムというのはすごく緊張感があるんです。商品を撮る時は、埃がちょっとついただけでダメになっちゃうから、アシスタントは僕がシャッターを押す瞬間までブロアーで埃を飛ばして飛ばして。撮った後も現像して仕上がってくるまで、どんなふうに写っているか分からない。フィルムをビュワーに乗せた瞬間に「やった」と思うか「うわーダメだ、やり直し」と思うのか。とにかくその緊張感が楽しかったんです。それがデジタルに変わったら、仕上がりはすぐにモニターで確認できる。埃が付いていても簡単に修正できてしまう。ファインダーを覗かないでシャッターを切ることも出来てしまうんです。仕事じゃなくて、作業になってしまった。何となくおもしろくなくなってしまったんです。

 そんな時に、家内の父が亡くなりました。遺影写真を選ぼうとした時に父の写真がなかったんです。家族みんなで集まった時に撮ったものはあっても、父ひとりの肖像写真を僕が撮っていなかった。結局葬儀に使われたのは、誰が撮ったか分からない、どこか旅行へ行った時のスナップ写真でした。ずっとお世話になってきた父の写真を、どうして撮っておかなかったんだろうと残念な気持ちでいっぱいになったんです。
 その後もいろんな方の葬儀に参列しましたが、飾ってあるものは生前のその人らしい写真が少なく、スナップ写真を大きく引き伸ばして少しボケたような寂しい写真が多かったんです。
 これはもう自分の親だけは何としても撮っておかなければと思って、実家に帰ったときに「父ちゃん、母ちゃん、ちょっとそこ座って。今の元気な顔を俺に残してよ。死んだら遺影写真にするから」と早速撮りました。僕は故郷を出てきてから盆と正月にしか実家に帰らなくて、親がそばにいないのが当たり前の生活をしてきました。でもその仕上がりを見た時に、親父の声がブワーっと響いたの。写真の親父と会話ができたんです。これはすごいなと感動して、僕がこれだけうれしいということは、こういう写真を撮らせていただくときっと皆さんに喜んでもらえると確信したのです。いつか広告の仕事をやめたら、遺影写真の仕事を本気でやろうと思いました。

 その頃子どもたちは学生でしたので、どうしても生活にお金がかかる。ともかく子どもが独立するまで待とう。無事に巣立ったらこれからは好きな仕事をさせてもらおうと決めました。ちょうど60歳になる時に「今しかない。気力体力があるうちに始めよう」と広告の仕事を一切やめて、東麻布のスタジオをたたみました。

―中野で「素顔館」を始めたのは理由があったのですか?

 義父は開業医をしていて、ここはもともと病院でした。父が亡くなって10年くらい、母は思い出があるので誰にも貸さずにそのまま残していたんです。
 「素顔館」を始めようとした時、最初は僕もどこでやればいいかいろいろな場所をリサーチしました。それこそ「お年寄りの銀座」と言われる巣鴨にも行ったんです。調べたら巣鴨に写真館はなく、競合相手はいないと。だけど実際に借りようとすると家賃がものすごく高い。場所的にはすごくいいと思ったけれど家賃が高いということは、その分経費がかかるということ。その経費は写真代にプラスされるということなんです。僕は自分の父を撮った時の喜びを皆さんに感じていただきたいという思いがありました。お客さんは年金生活をしている高齢者の方が多いだろうから、外食を1回か2回我慢すれば来ていただける料金を設定したいと考えていたのです。それにはなるべく経費はかけない。経費の中で一番大きいのは家賃と人件費です。母に「遺影写真館を本気でやりたいからここを使わせてくれないか」とお願いをして貸してもらえることになりました。人件費は人を雇わずに自分が動けばいいと考え、2008年の2月8日に遺影写真専門「素顔館」をスタートさせたのです。

―能津さんのいろいろな思いが詰まってオープンされたでのすね。
 次回は「素顔館」を開館してからのことをお話いただきたいと思います。

仕上がった写真を見た時に声が響いたという、
能津さんのお父さん。