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福祉の現場で思いカタチ
~私が起業した理由わけ・トライした理由わけ

介護や福祉の現場で働く人たちはもちろん、異業種で働く人たちのなかにも、福祉の世界で自分の想いを形にしたいと思っている人は、実はたくさんいます。そして、今、それを実現できるのが福祉の世界です。超高齢社会を迎え、これからますます必要とされるこの世界では、さまざまな発想や理想のもとに起業していく先達が大勢いるのです。そんな先達たちは、気持ちだけでも、経営だけでも成り立たたないこの世界で、どんな思いで、どんな方法で起業・トライしてきたのか、一か月にわたって話を聞いていきます。行政への対応や資金集めなど、知られざる苦労にも耳を傾けながら、理想を形にしてきた彼らの姿を追います。


●インタビュー大募集
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花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第41回③ 堂園晴彦 NAGAYA TOWER
人と人の「絆」を取り戻し、相互扶助できる未来へ。
「NAGAYA TOWER」を通して発信していく。

NAGAYA TOWER
堂園晴彦(どうぞの はるひこ)
1952年鹿児島県生まれ。慈恵医科大学卒。学生時代に寺山修司主催の劇団「天井桟敷」に所属。国立がんセンター、慈恵医大講師、鹿児島大学産婦人科講師などを経て、1991年、父の産婦人科を継承する。1996年11月、内科、がん総合診療科、産婦人科、東洋医学科、ホスピス病床を備えた「堂園メディカルハウス」を開業。2013年、血縁や年齢にとらわれずに老若男女が知縁で助けあい生活していく現代版長屋「NAGAYA TOWER」を設立。

取材・文:原口美香

―前回は次女の春衣さんが実際の設計でこだわってきたことを中心にお話を伺いました。
 今回は堂園先生に資金面や「NAGAYA TOWER」を通して未来にかける思いなどを伺っていきます。

―大きな建物なので、資金面は大変だったのではないでしょうか?

 最初に政府系銀行の方とお会いして、融資について非常に前向きなお話をいただけたんです。低金利でお借りできるという。ただ、鹿児島支店の方に理解していただけなかった。そういうコミュニティ住宅という概念がないから難しかったんです。鹿児島のある銀行の頭取ともお会いしました。「堂園メディカルハウス」を建てる時にお世話になった銀行です。こちらからも、いいお返事をいただけた。ですが、支店長には理解してもらうことが出来ませんでした。何か新しいものを始めようとすると、前例がないということで難しくなる。日本はまだまだそういうことがありますね。そんな時に熊本ファミリー銀行の頭取が理解を示してくださった。それで私と春衣が熊本まで行って、かなりの額を貸していただくことができたのです。

―堂園先生は「NAGAYA TOWER」に「ファミリーホーム」も取り入れていますね。

 私は児童虐待や特別養子縁組と長く関わっていましたから、マザーテレサの施設を見てから「こういうものをやろう」と、それが目的の一つでした。しかしそのための部屋を造ったのに、一年は誰も入らなかったんです。ある時冨永さん(現在NAGAYA TOWERの一室でファミリーホームを運営中)が手をあげてくれて、今は小さいお子さんも一緒に生活しています。
 二階はシェアハウスになっていて青年たちが入っています。高齢者と子どもたちだと間が抜けてしまう。そこに青年たちがいて、あらゆる世代が一緒に暮らしていくということはとても重要なことだと思いました。
 ある意味、これは社会実験だと思っています。本来社会実験はパブリックがすべきだと思うのですが、なかなかやらないので私がプライベートでやっている。社会がもっと目を向けてくれて、貧困家庭やシングルマザーに対しても助け合う仕組みを作っていかなければいけないんじゃないかと思うんです。単に市営住宅、県営住宅と住宅だけを造るだけじゃなくてね。

―2002年にNPO法人「風に立つライオン」を設立されていますが、どのような活動をされていたのか教えてください。

 2年くらい前に解散しましたが、病だけではなくて、その人全体を診るような医療者を育てたいという思いがあり、「最新医療」ではなく「最愛医療」を学ぶという目的で設立しました。最新機器はないけれど愛のこもった医療やケアをしていく。マザーテレサのインドの施設に医学生や若い医者や看護学生がボランティア研修に行き、現場で学ぶという活動をしていました。2003年には、アフガニスタンの中村哲先生のところにも行っています。延べ100人以上になりますね。

―堂園先生は、うつ病を克服されたそうですが、どのように治されたのでしょうか?

 私の師匠に精神科医の神田橋篠治先生がおられます。この先生からうつ病というのは基本的に脳疲労だということを学びました。脳を使いすぎて脳機能が落ち、気分が抑うつになってしまう。堂園メディカルハウスを造り、有床診療所では最初のホスピスでしたから、あちこち講演に行ったり論文を書いたり学会発表をしながら、年間100人以上の方を看取っているうちに私の脳に限界がきてしまったんだと思います。でもその先生の方針で薬は飲まずに、漢方と歩くことで克服しました。
 産婦人科医として新しい命と向き合ったり、検死の医者をしたり、虐待やファミリーホーム、特別養子縁組など、今までの人生は「生と死」にとても関わってきましたので、経験豊富になりました。今は「人生科」と称しまして、いろいろなよろず相談のような外来をしています。

―ありがとうございました。
最終回では、実際に「NAGAYA TOWER」で人々がどのように暮らしているのかなどを
春衣さんに伺っていきます。

共に過ごす時間が心を通い合わせる。