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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

77回目の終戦記念日


 今日は77回目の終戦記念日です。先日、テレビ朝日の「徹子の部屋」に出演された毒蝮三太夫さんは、大空襲の猛火の中でお母さんと逃げ惑った戦争体験を語りました。

 焼夷弾のものすごい熱気で履いていた靴に穴が開いたとき、たまたま子ども用の革靴が落ちていたので履いてみると、元の持ち主の足首だけが靴の中に残っていたというお話がありました。戦争の悲惨さを生々しく伝えています。

 毒蝮さんはこの番組の冒頭で、自身の戦争体験を話すようになったのはこの10年ほどのことだと明らかしています。

 以前は、自分より年配の人たちが悲惨な戦争体験を世間に伝えていたけれども、いつのまにか自分より年配の方々の数が減って、戦争体験を語る人がどんどんいなくなっていることに気づいたと言います。「それじゃ、俺が語らないといけない」と思ったそうです。

 私の子ども時代は、そこかしこに戦争の残滓がありました。動物園のある大阪の天王寺公園に行けば、いつも軍服に包帯をまとい義肢義足と松葉杖の目立つ佇まいの傷痍軍人の団体が必ず何某かの演説をしていました。

 小学校から高校まで、年配の男の先生は元兵隊ばかりでした。だから、何かの折にふれて、学校でさまざまな戦争体験を耳にする機会がありました。

 終戦の日を日本帝国陸軍の少佐として迎えた中学校の社会の先生は、陸軍士官学校の卒業生でした。この先生は、日本人の戦争体験としてはいささか珍しい角度から、戦争体験を生徒に伝えていました。

「戦争というと、食べるものがない、空襲で逃げまどった挙句に一面が焼け野原になるというような話がよく出てくるでしょう。東京の陸軍の本部の少佐として終戦を迎えた私はまったく違いました」

「私を含めて、軍や大本営の中枢にいた連中は、終戦の日まで、何でも食べ放題、酒と女に不自由することもない、という贅沢三昧の毎日です。自分は前線に飛ばされる兵隊ではないことを自負している連中が、戦争の駒を進める。これが戦争の姿です」と。

 私の父は、陸軍の車両部に配属された一等兵でした。車の運転免許取得には、今とは比べものにならないほどの高額な費用が必要だったため、当時の兵隊で運転免許を持っているのは、ごく一握りのお金持ちの出身者に限られていました。しかも、スバ抜けた富裕層の男子は、裏の手立てを使って徴兵を免れていましたから、運転免許を保有する兵隊はごく限られていたと言います。

 終戦までの半年間は、名古屋の陸軍部隊に配属され、部隊長付きの運転手でした。名古屋は第二次世界大戦の末期に、アメリカ軍が繰り返し大規模空襲を行った地域の一つです。空襲の度に、父は軍の車両に部隊長を乗せて郊外まで「緊急避難」をしたと言います。

「空襲警報が鳴るか鳴らないかくらいの時点で、部隊長が軍車両のあるところにカバンをもって飛んできて、『宗澤、重要な秘密書類を守るために郊外に急いで俺とカバンを避難させろ』と叫ぶんや」

「それで、車を飛ばして郊外へ逃げると、軍人関係者のために特別に作った防空壕に部隊長は駆け込む。でもカバンは車にほったらかしや。それで、そのカバンの中にどんな秘密書類が入っているのかと思い、開けてみると中は空っぽ」

「部隊長は、空襲の度に自分の部隊を放り投げて、自分だけ逃げてただけや」

 高校の倫理社会の先生二人は、京都帝国大学在学中の学徒動員組でした。

 一人の先生は、満州国防衛の前線に送られた陸軍少尉でした。毎日、最低30kmは徒歩で移動し、現地住民から食料の略奪や、現地の女性を見つけては欲しいままにするのが日常だったそうです。

 部隊を引き連れて土手を歩いていた時、片方から敵の銃撃が始まったそうです。攻撃が右からか左からかの判断がつかないまま、とっさに土手の右下に飛び降りたら周りには誰もいない。自分の部下は全員、土手の左側に飛び降りており、自分だけが敵側に飛び降りるという、とんでもない失態を犯したそうです。

「部隊にはたまたま同郷の部下がいて、そいつが大声で、少尉、そっちに居たままやったら体じゅうに、ハチの巣みたいな穴が開きまっせ、早よこっちに来なはれ」と助けに来てくれたそうです。

 その少尉には満州に移住していた親戚がいて、こっそりとおはぎの差し入れをしてくれました。でも、おはぎを部隊の中で食べる訳にはいかない。上官にみつかれば、ぶん殴られて全部もっていかれる。懐と帽子におはぎを隠して大用のトイレに入り、「用を足しながらこっそり食べるんやけど、虚しかった。出しながら食べるって想像できんやろ…」と。

 もう一人の先生は、南方の前線となったフィリピンに送られた陸軍少尉でした。現地で日本の兵隊は全員、食料と女性を略奪していたと話しました。とくに、接近戦の最後になって銃剣や軍刀で敵兵や現地の抵抗住民と闘う場面は、実に生々しく悲惨な話でした。

「銃剣や軍刀の類は急所に刺さらない限り、どちらかが失血死するまで血みどろの闘いになる。テレビドラマや映画の戦争物で、どちらかが直ぐに死んでしまう場面が描かれるのは、全部うそや」

 終戦を迎えて現地で捕虜となり、しばらくは飢えとの闘いが続いたそうです。手分けして、食べ物を探しに行くのですが、すでに食べることのできるものは食べ尽くしています。

 ある時、後ろを振り向いた瞬間、「目の前にビフテキ(ビーフステーキの大阪弁)があったんや。もうびっくりしてそれをつかんで食べようとしたら、楕円形の大きな葉っぱやった。この時が『本物の幻想』を見た最初で最後の体験や」と。極限まで追い込まれた人間の心の運びだったのでしょう。

 その他、私が子ども期に聞いた戦争体験はまだまだ山のようにあります。今の子どもたちは、私のように戦争体験者の話を直に聞くことは殆どなくなっています。

 しかし、日本人のこれまでの戦争体験談は、被害体験に傾きすぎているのではないかと考えてきました。歴史の真実は、日本が盧溝橋事件を起こして日中戦争を始め、朝鮮を併合し、傀儡を頭に据えて満州国を建設し、真珠湾攻撃に突入します。

「東南アジア各国を解放する」という口実を設けて、他国への侵略を行った戦争の加害国でもありました。私が聞いた戦争体験にあったように、戦争の前線では兵士の窮状とともに、食料や女性の略奪は当たり前のように行われていたのです。

 だから、戦争という事象は、加害者であるか被害者であるかの区分をして議論するだけでは、戦争を引き起こさないための教訓は出てこないのではありませんか。

 戦争は始まってしまえば、どちらの側の国の人であろうとも、民衆の殆どと前線に投入された兵士に、取り返しのつかない犠牲が生まれます。だから、本来は戦争に至らないための努力を重ね続けることが最も大切です。

 この点は、虐待防止の取り組みと実によく似ています。虐待に至らない取り組みにこそ虐待防止のキモがあります。

 虐待は、発生してしまえば、虐待を被った人の傷をケアすることに多大な努力を傾注しなければならないし、虐待によって脳が傷ついた場合には、修復不可能な犠牲を被虐待者の生涯に強い続けることになります。

 不適切なケア(養育、養護、支援など)の状態を、そのまま見過ごして悪化させてしまい虐待に発展させてしまうのか、不適切な状態に注意深く目を留めて正常で良好な状態に組み替えていくのかは、虐待防止を考える上で最も重要な点です。

 不適切な状態が、事態を戦争にまで悪化させるのか平和に向けた正常化に向かうのかの分岐点なのです。不適切な国際関係があるとすれば、それが戦争に向かわないよう今の日本に何ができるのかについて、とことん検討し、全国民的な議論をしてみる必要があるのではないでしょうか。

 わが国にもかつては戦争に突き進むのか、戦争を回避できるのかに係わる分岐点があったはずです。この点に係わるかつての戦争に係わる体験談が、残念ながら、日本ではとても貧しいように思います。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑六角堂

 千鳥ヶ淵戦没者墓苑では、今日の終戦記念日に向けた行事の準備が進められていました。この間、軍事的なパワーバランスの上でどの国や勢力が優位性を持つのかにかかわる議論が目立つようになりました。

 その一因は、ウクライナへの軍事侵攻が国際関係の緊張を高めたことにあるのは間違いありません。が、それ以前から核保有国となって軍事的な優位性を持ち、覇権主義的大国であり続ける、あるいはそのような国と肩を並べようとする動きは続いてきたのです。この不適切な状態を平和に向けて正常化する努力に傾注するための、世界の人たちの連帯は果たして実現するのでしょうか。