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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

家庭を侵襲するレシピ

 この週末は料理に明け暮れていました。豚玉のお好み焼き(生地にイカ・エビ入り)8枚、豚あばら軟骨と根菜・卵の煮物(塩と中華風醤油の2バージョン)、鶏肉焼売、エビ焼売、鰻巻き、ミートソース、明太スパのソース、ミネストローネスープ、大根菜炒め、蕪の漬物、茹で野菜3種、8種の生サラダ。

豚あばら軟骨と根菜・卵の煮物

 緊急事態宣言が終わるところを祝ってパーティーを開いたのではありません。身重の娘が亭主と一緒にやってきて、作り置きできるおかず類を作ってもらえないかと言うので、その要望に応えてやることにしたのです。

 もちろん、すべてが私の手作りで、料理本やインターネット上のレシピを参考にしたものは一つもありません。私の子育ての間に、美味しくするにはどうすればいいのかあれこれ試行錯誤した挙句に、調理法が落ち着いたものばかりです。

 お菓子や黒豆煮などは別にして、食材のグラム数や調味料の塩梅(小さじ1とか)を記したレシピはありません。味見を基本に、視覚・嗅覚・触覚を動員した作り方が料理ごとにインプットされています。

 たとえば、大阪粉物界の代表格であるお好み焼きとタコ焼きを作るとき、溶粉(薄力粉を水、出汁、卵で溶いたもの)の塩梅は、お玉で溶粉を回したときのトロミ加減で一定の生地を作ることができます。

 家庭の料理では、このような感覚器官を動員した調理法に意味があると考えてきました。お好み焼きを作ろうとした日に、食材棚にある薄力粉の量はまちまちです。ここで、残っている薄力粉のグラムを計り、レシピに記載された100g当りの水・出汁・卵の量を按分していく手間暇は、お店でお好み焼きを出す人がやればいい。

 わが家のお好み焼き作りでは「丁度この頃合いだ」ということを体得しているのが肝心です。レシピを参考にするときもありますが、レシピ通りに作ることはありません。自分が納得できる仕上がりにするまでの試行錯誤も料理の楽しみだからです。

 エビの焼売と餃子は、いささか手を焼きました。エビの風味とプリプリ感を皮にキュッと詰め込んだ仕上がりに至るまでに7回くらいは試行錯誤しました。栗の渋皮煮(2010年10月18日ブログ参照)は極めつけの試行錯誤で、納得できるまでに20回(1年間に2回の計10年間)くらいかかりました。

 先日は、わが家の味を伝える機会でもありました。作り方の勘所を私が説明してやりながら、娘が味見をするたびに「旨っ」と言い、こうして調理の時間を共有するところにも家庭料理の意味があるのです。

 ところで、先日のあるテレビ番組で、インターネットのレシピ紹介サイトを事業展開している会社とその若手社長を取り上げているのを観ました。ビジネスが注目されているから取り上げているのでしょうが、私は率直に言って疑問だらけでした。

 この会社は、「毎日の献立を考えるのが大変」だというニーズに応え、調理の動画は1分以内の高画質で提供し、「レシピを食材購入とセットにするサービス」を今後の展開で重視していることなどを取り上げていました。

 都市部の共働き家庭を中心に、このようなサービスに利便性を感じる大量の「ニーズ」のあることは分かります。それでも、このレシピサイトの発想のすべてに疑問を抱きます。

 まず、「毎日の献立を考えるのが大変」という気持ちもわからないではないですが、だからといって食材調達を含めてレシピサイトに頼ることで、家庭の食事問題を解決しようとするのはいかがなものでしょうか。

 学校の宿題やレポートの〆切を前に自分の頭で考えて作るのは面倒だから、インターネットで調べて「コピペ」して済ませてしまう発想と通底しているように感じてしまいます。いうなら「料理のあんちょこ」提供サイトです。

 毎日の献立を考える契機は、実に多様です。お天気(寒い日は鍋など)、ここ数日の献立の流れ(揚物が多いとか)、そして何といっても食材との出会いがあります。

 たとえば、地元産の採れ立て野菜、秋のサンマ、寒ブリなど、旬の食材に売り場でばったり出会うことは、献立を考える楽しみの一つです。

 この間の緊急事態宣言の最中、高級店への行き場を失った北海道のナメタガレイがスーパーの鮮魚売り場にドーンと大きな一尾姿で出ていました。これはもう一期一会です。運命的な出会いを感じて、丸ごと煮付にしていただきました。ナメタガレイの煮付はメチャクチャ美味しいですよ。

 高知の障害者支援施設あじさい園は、外部の会社に委託してきた調理部門を直営にしました。給食委託会社が使う食材のほとんどは冷凍ものが多く、高知ならではの新鮮な野菜と魚介類を食材にして提供できないことは根本的な問題だと考えたからです。

 以前に視察をした漁港近くにある障害者支援施設も、漁港から市場に出ない魚介類を仕入れて食材に使っていました。「市場に出ない」のは、雑魚だから、市場に出すだけの量がないから、美味しいから地元関係者で食べてしまうから、の3通りがあるそうです。

 その施設の夕食を見学しましたが、涎が出そうになるほど新鮮な魚介が食卓に出ていました。このように、それぞれの土地柄と季節の移ろいによる旬の食材を献立につなげる営みに食の基本があると思います。

 次に、誰かが書き上げたレシピは、それを記載した人の「美味しさ」に過ぎません。たとえば、長い行列ができるラーメン屋を試してみて、私は一度も美味しいと感じたことはありません。それらを美味しいと感じる人もいるし、不味いと感じる人もいるのです。

 多くの人が美味しいと感じるものでも、そのありようは実に多様です。だから、さまざまな家庭ごとの美味しさが生れるところに家庭料理の醍醐味があると言っていい。

 沢村貞子さんの『わたしの台所』(光文社文庫、2006年)は、このような家庭料理の営みを随筆に描いています。

 夕飯の献立をあれこれと考える営みや、天ぷらは本職には絶対かなわない料理だけれども、家庭だからこそ手軽に美味しく食べるにはどうすればいいのかを試行錯誤する様子が、実に活きいきと、楽しそうに描かれています。

 沢村さんは、反戦に傾いていた新劇の時代に役者生活を始めた人です。何度か特高に捕まっていたはずです。この新劇時代を振り返って「自分はえらそうなことを考えていただけで、その実、誰のためにもちっとも役に立っていなかったと反省している」としながら、「多くの人を幸せにはできなかったけれども、私はたった一人の人=夫だけは幸せにできたと思っています」と晩年語りました。

 慈しみ合おうとする家族がいれば、「毎日の献立を考えることは大変だけれども楽しい」営みであり、必ずしもレシピサイトに依存する必要は生まれないと思います。

 つまり、家庭ごとの味を作り出す自由を享受し、多様な美味しさを慈しみ合う家族と共に作り出すところにイリイチの言う「コンヴィヴィアリティ」があるのです(2019年12月23日ブログ参照)。

 この活きいきとした暮らしの営みを「ニーズ=サービス」にもとづく市場システムの枠組みに閉じ込め、「社会が家庭に侵入する」(ジャック・ドンズロ著『家族に介入する社会』、新曜社、1991年)事態を食の世界にまでもたらしているところに根深い問題がありはしないでしょうか。

 家庭における食は、家族の慈しみ合いを深める基本的な営みの一つです。家庭の食という営みにある多様で包括的な内容を「食材と調理法」に還元して、忙しい家庭人の「ニーズに応えている」とするのは、「家庭を侵襲するリスク」に目を向けていないからです。