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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

相手を支配しようとする欲求

 千葉県野田市で小学校4年生の女子が虐待を受けて死亡した事件の裁判で、傷害致死罪などに問われている父親は、長女に対する暴行の大部分を改めて否定しています。

 被告であるこの父親は、この裁判の最初の法廷で、傷害致死罪などの成立は争わないとしました。それでいて、父親の証言は長女に対する暴行の大部分を否定するのです。どうして、このような矛盾がでてくるのか。ここには、父親の特異な精神構造があることを推測させます。

 長女を飢餓状態に追いやったこと、数々の暴力を加えたこと、冷水シャワーを浴びせ続けたこと等の事実は、長女に原因があって親としてやむを得ずにしたしつけや対応であるとデフォルメされ、虐待そのものを認めないところに父親の証言は帰着しています。

 この被告の証言について、児童相談所の対応等の問題点を検証するために千葉県が設けた第三者委員会の川崎二三彦委員長は、次のようにコメントしています。

 多くの証人による証言を最後まで否定するように、「正確な表現ではないが『大変な人だな』と感じた」として、児童相談所等の援助機関は「虐待についてここまで認めない、聞いても答えないという人がいることを含めて、どのように対応していくのかを考えることが今後の課題だ」と指摘しています。

 野田市が設けた野田市児童虐待事件再発防止合同委員会の中で、弁護士でNPO法人シンクキッズ代表の後藤啓二さんは、「心愛さんを救う機会は七回あった」と指摘し、「命を救えなかった反省を踏まえ、有効な再発防止策を取らなければ、また繰り返される」と発言しています。

 この虐待事案については、関係機関の対応の不手際もありますが、対応することに特別の困難が伴うケースであったことも間違いのない事実だということでしょう。

 野田市同委員会の委員であるジャーナリストの江川紹子さんは、父親の虐待は今でも続いている」と言います(https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20200221-00164135/)。

 裁判の中で父親は、すでに亡くなって反論のできない長女にこそ問題があって、行き過ぎたしつけが生じたかのように印象づけようとし続けている点で、この父親による長女への「虐待は、人格を貶めるという形で、今なお続いていると言わざるを得ない」と。

 では、この父親の「大変な人」という本質は何なのか? すでに亡くなった長女を「虐待し続ける」とはどういうことなのか?

 まず、この父親は、虐待によって支配する長女の存在に照り返されて、自己の存在理由を見出す精神構造を持っていました。だから、他者による多くの証言を認めてしまえば、自分が自分である存在理由を見失ってしまうほどの不安や恐怖に駆られてしまうのです。

 そこで、次に、多くの証言を否定し、自己を正当化し続ける根拠がなければならない。この根拠は父親の「認知の歪み」にあり、長女を虐待して支配し続ける装置の原動力になっていたのです。

 「長女が悪いことをするから」「言うことをきかないから」、「父親としては」仕方なく「しつけ」たり「応戦するほかない」という論理を根拠づける認知の歪みです。つまり、子どもの悪意や敵意に原因を見出す「被害的認知」に焦点づけられた認知の歪みが、一貫して父親の証言を彩っていくのです。

 この父親ほどではないにしても、自身の虐待行為を「頑なに認めようとしない」虐待者の方が、一般的には圧倒的に多いように思います。虐待通報からの初動段階で、虐待者が自らの虐待をスッキリ認めることの方がレアケースだといっていい。

 それでも、虐待行為があからさまな暴力については、支援機関による虐待の認定が容易であるかも知れません。むしろ、心理的虐待やネグレクトの場合には、支援者と虐待者の間で押し問答になることが多い。

 虐待者が「しつけの方法」の考え方の違いを持ち出してきて「虐待ではない」と言い張ることが出来します。つまり、どのようなしつけ方をするのかについての「考え方」は人それぞれであるとして、問題の焦点を相対化しすり替える自己正当化の手法です。

 とりわけ、暴力によって相手を支配するタイプの虐待ではなく、「相手によりそい続けて」「相手のことを思い続けて」相手を支配し続けることに執着を持つ「共依存型虐待」では、このような自己正当化が目立ちます。

 野田市の虐待事件の父親や「共依存型虐待」は、相手と「慈しみ合う」「労わり合う」「育み合う」互酬的な関係づくりに目的があるのではありません。相手と関係し続ける背後にある真の欲求の所在は、相手を支配することに置かれているのです。

 はじめから相手を支配することに欲求の所在があるケースもあります。あるいはまた、当初段階では「よりそう」気持ちからのアプローチであっても、慈しみ合うイメージや能力の未熟さによって「よりそって支配し続ける」方向にぶれて固着してしまう場合もあります。

 虐待に彩られるこのような関係性が、家族という固定的な制度枠組みの下で夫婦や親子を縛り続けることの弊害は、とてつもなく大きい。とりわけ、成長・発達の途上にある子どもへの悪影響は、はかり知れないものがあります。

 虐待する実親が、「望ましい親子関係」への修復に至らないケースの割合を、そろそろ明確にすべき段階に来ているのではありませんか。「修復できない基準」を一律に明確化することが難しいというのは、言い訳に過ぎません。

家族という法的枠組みを金科玉条に、虐待する実親の元に子どもたちを縛り続けていくことは、明白な子どもの権利条約違反です。虐待が明らかになった時点から修復するまでの期限に1~2年のタイムリミットを設けて修復できない場合は、新しい型の子どもの幸福追求権の社会的な保障が構想されて然るべきです。

 実親に縛られることなく、子どもにとってより良い発達の根拠地となることのできる「第2の親」が保障される社会的養護の仕組みを、現行の里親制度の枠組みをはるかに超えて充実させたものとして構想する必要があるのではありませんか。

閑散とした川越の蔵造りの街並み

 さて、新型コロナウイルスの問題は、未だに終息する気配をみせていません。感染者の拡大が続いていますし、経済活動への打撃も相当大きくなってきました。

 埼玉県最大のターミナルである大宮駅でも人影はまばらとなり、日曜日なら観光客であふれ返る川越の蔵造りの街並みもご覧の通りです。あらゆる社会活動の収縮がもたらす影響は、未曾有のものとなるのではないでしょうか。

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