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梶川義人の虐待相談の現場から

梶川 義人 (かじかわ よしと)

様々な要素が絡み合って発生する福祉現場での「虐待」。
長年の経験から得られた梶川さんの現場の言葉をお届けします。

プロフィール梶川 義人 (かじかわ よしと)

日本虐待防止研究・研修センター代表、桜美林大学・淑徳大学短期大学部兼任講師。
対応困難事例、家族問題担当ソーシャルワーカーとして約20年間、特別養護老人ホームの業務アドバイザーを約10年間務める。2000年から日本高齢者虐待防止センターの活動に参加し、高齢者虐待に関する研究、実践、教育に取り組む。自治体の高齢者虐待防止に関する委員会委員や対応チームのスーパーバイザーを歴任。著書に、『高齢者虐待防止トレーニングブック-発見・援助から予防まで』(共著、中央法規出版)、『介護サービスの基礎知識』(共著、自由国民社)、『障害者虐待』(共著、中央法規出版)などがある。

有償の愛の物語

 先日、米国映画の「キング・コング」をTVで視聴しました。ご存知のように、島で出会った美女と野生のコングの、種を超えた心の交流の物語ですが、視聴に先立ち、人と犬は互いに相手の喜怒哀楽を読み取れている、という最新の脳研究の成果を知ったせいか、ある考えが頭に浮かびました。

 喜怒哀楽の読み取りのみならず、自らの危険を顧みず相手を助けようとする例が多くあるところをみると、美女とコングや特定の飼い主と犬の間などでは、愛情関係が成立しているのではないか、という考えです。

 とくに注目したいのは、自らの危険を顧みず相手を助けようとする、いわば見返りを求めない「無償の愛」が体現されている点です。無償の愛は、主体的統合の「第5の立脚点」の成立に欠かせないものですが、異なる種を対象としても成立するというのですから、感嘆せざるを得ません。

 しかし、虐待者と被虐待者の関係に目を転じると、愛情関係とは言っても、そこに「無償」の要素は薄く、「○○なら」という条件づきの「有償」の要素が濃いようにみえます。見返りを欲する下心の勝る愛、とでも言えるでしょうか。

 たとえば、自分の果たせなかった夢を子に期待する親、というのはよく聞く話です。そして、期待するだけなら問題はありませんが、「子が期待に応えること」が愛情を注ぐ条件になると問題化しやすくなります。期待に応えている間は惜しみなく愛情を注ぎますが、期待はずれになった途端、愛情を注がなくなるからです。

 これは、夫婦関係にも当てはまります。私たちは、配偶者に対して多かれ少なかれ何らかの期待を抱いていて、それに「相手が応えること」が愛情を注ぐ条件になると問題化しやすくなるのは同じだからです。期待していた引退後の悠々自適の生活が、配偶者が突然に要介護状態となり、夢と消えた途端、虐待が発生する例さえあります。

 こうなると、親子や夫婦という愛情関係の代名詞のような関係にあっても、期待はずれの利用者だけを虐待する従事者とさほど変わりません。もっとも、無償の愛の要素は皆無で全てが有償の愛の要素ばかり、という極端な例は僅かだと思います。むしろ重要なのは両要素のバランスを取ることであり、無償の要素が有償の要素に勝ってさえいれば、救いはあるのではないか、と思います。

 ですから、有償の要素が勝っていると気がつかず放置していると、しっぺ返しを食うことになりかねない、と言えます。人は案外、相手の下心に気づくものであり、報復する機会をじっと待っている場合も少なくないからです。過去の因果が今に報いる「リベンジ型」の虐待は、その典型です。

 いずれにせよ、「有償の愛の物語」にハッピーエンドは期待できないようですが、裏返して考えれば、最近よく聞く「共生」は、「無償の愛の物語」のハッピーエンドのひとつのカタチなのかもしれません。とは言っても、自らを振り返ると、少し首筋が冷たくなるのは、気のせいでしょうか。

「有償の愛だったのね…」
「リベンジの前にご相談下さい!」