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介護の仕事って、こんなに素晴らしい

是枝 祥子 (これえだ さちこ)

是枝さんは、特別養護老人ホーム「福音の家」勤務を経て、大妻女子大学で介護福祉学の教鞭をとってこられました。東京都介護福祉士会会長を長く務めるなど、介護の世界にはとても造詣が深い方です。
せっかく介護の仕事に就いたのにもかかわらず、辞めてしまう人が多いと聞きます。「もう辞めてしまおうか」などとお考えの人もいらっしゃるのではないでしょうか。

プロフィール是枝 祥子 (これえだ さちこ)

1941年生まれ。
1964年、東洋大学社会学部応用社会学科卒。
短い製薬会社勤務を経て、子育て中に友人の紹介で、1980年から神奈川県の児童相談所で非常勤相談員を始めたのが、福祉との本格的な出会い。
1983年から介護福祉分野へ転じて、特別養護老人ホーム、在宅介護支援センター、ヘルパーステーション等の現場経験や施設の管理職経験を積む。
1999年、多摩キャンパスに新設された大妻女子大学人間関係学部人間福祉学科の助教授に迎えられ、2004年には教授に昇任。現在、名誉教授。

第10回 教養のない介護はだめだ

差別について話し合う

 在日一世(生まれも育ちも朝鮮で、成人してから日本に来た人)のCさんは、プライドの高い人で、印刷会社の社長でした。

 右片麻痺ですが、頭ははっきりしていて、自分で何でもしようとします。後ろから車いすを押そうものなら、左手でぴしゃりと手を払われます。ひどく無口な人ですが、ゆっくりと話をし、言語障害はありませんでした。

 Cさんは、4人部屋に入っていました。手を差し伸べることを嫌がるので、介護職員はゆっくり見守ることにしていました。

 左手だけで車いすをこぎ、腕が痛いはずなのに、こちらから「痛くありませんか」と聞いても、黙って車いすをこぎます。ですから、食堂に来るにも時間がかかり、食事のときなど、人が食事を終えたころ、食堂にようやく到着します。本人はそれが嫌なので、食堂に行く途中で部屋に引き返すこともしばしばでした。風呂の順番も遅くなります。

 あるとき、介護職員が、テレビをみながら涙を流しているCさんを目撃しました。番組は、在日差別のことをテーマにしているものでした。介護職員はそのことを記録し、私たちは、その記録をもとに、なぜCさんが涙を流したのかを話し合いました。

 「在日一世として、差別は身にしみているはずだ」「こちらがふつうに話しても、差別的に聞こえるのかもしれない」という意見が出て、私たちは、Cさんへの対応の仕方を変えることにしました。それまでは、「ああしてください、こうしてください」といっていましたが、その後、必ず本人の意向を聞くことにしました。

 たとえば、食事は、食堂で食べるのが原則ですが、Cさんには、「お部屋で食べますか、食堂で食べますか」と聞きます。ほかの入居者には、「はい、お風呂ですよ」というところを、Cさんには、「今、お風呂がわきましたが、入りますか」というように声をかけます。それも、「今、お風呂の水を替えたばかりの一番風呂です。気持ちいいですよ」というと、ホッとした様子が伝わってきました。段々、それまでのトゲトゲしい言葉がなくなり、私たちの手を払うような極端な拒否は消えました。日本人に対して、構えていたのかもしれません。

 ときどき訪れる家族とは楽しそうに食堂の片隅で話をしていましたから、完全な孤立状態ではなく、私たちは気にしながらも安心していました。

キムチが心を溶かした

 それから2年くらいたったあるとき、Cさんのほうから、「腰が痛い」というようになりました。

 これは、私たちを驚かせもし、喜ばせもしました。「腰が痛い」といっているのに、喜んでいては申し訳ないのですが、それまで、Cさんは「痛い」とか「つらい」といった弱音を吐いたことがなかったのです。これには、栄養士の「一押し」がありました。

 私たちの施設では、栄養士が入居者と仲良くなるのはふつうでしたが、彼女はCさんにキムチの味について相談したのです。

 30年近く前のことですから、今のように、簡単にキムチは手に入りませんでした。スーパーでも売っていません。Cさんは、家族がキムチをもってきても拒絶しました。自分だけ特別なものを食べることに抵抗があったのかもしれませんし、キムチの独特な匂いが周囲に漂うことを気にしたのかもしれません(今では信じられませんね)。

 栄養士は、自分がどこかから手に入れたキムチの入れ物を手にしながら、Cさんに尋ねました。

 「このキムチは、韓国の材料で韓国人がつくったキムチだというんですけど、ほんとうかどうか味を見てください」。

 Cさんはうれしそうに味見して、「これは韓国のものですよ」と答えました。Cさんは、ふだん滅多にものをいわないし、故郷のことはもちろん食べ物のことなんか話したこともないので、この会話は「画期的」といってもいいものでした。

 それから、急に打ち解けるようになったのです。それまでとは打って変わって、私たちに「こうしてほしい」というようになりました。そして、段々、ほかの入居者と同じように、私たちに接してくれるようになりました。