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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


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花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第131回 あこがれから新卒で介護職へ 
誰もが気軽に来られる場所をつくりたかった

小林敏志さん(34歳)
宅老所 はいこんちょ 代表
介護福祉士/社会福祉主事/
介護支援専門員/福祉住環境コーディネーター2級
(栃木県・鹿沼市)

取材・文:原口美香

始まりはあこがれから

 高校生の時に「Beautiful Life~ふたりでいた日々」っていうドラマがやっていたんです。キムタクが美容師の役で、常盤貴子さんが難病で歩けない車椅子の女の人の役で。その常盤貴子さんがドラマの中で、すごく卑屈になっているんですけれど、キムタクが「卑屈になることないじゃん」って言って、一緒に遊園地に行ったり、ご飯食べにどんどん外の世界に連れ出していくんです。しかもそれが正義感とかじゃなくて、普通に見ているわけです、常盤貴子さんのことを。そこがかっこいいなと思って、あの人みたいになりたいと介護の道に決めました。内発性というか、あこがれを持つ、ってすごくいいことだと思うんです。それでたまたま学校推薦があったので、福祉の短大に進みました。

 僕は高校の時からアルバイトをしていたんです。でも全然仕事ができなくて長続きしなかった。マクドナルドで「ピクルス抜き」って言われても、作っているうちに気付いたらピクルスを入れちゃっていたり、ツタヤで返却されたものを棚に戻さなきゃいけないのに、どこに戻していいか分からなくて、持ったままグルグルまわっていたり。どの仕事も全然ダメで、おもしろいとも思えなくて。だから何とかこの仕事に就かないと、と思っていたんです。だけど短大で実習に行っても全然おもしろくなくて。しかも夜遅くまで遊んでいるから、朝、実習に行っても眠いんです。ウトウトしていたら、利用者のおばあちゃんが「寝てていいよ、(職員が)来たら起こしてあげるから」って。寝ているとトントントンって、そんな感じでした。それでもなんとか介護福祉士の資格をもらえて卒業し、長野に戻って老健に就職したんです。

自分と向き合って見えてきたもの

 そこは大きな老健でした。100人くらいいるところで、僕はなんとか仕事を覚えなきゃと、家に帰ったら一生懸命書いたりして、今までにない努力をしていました。でも3か月後にそこの婦長に「いつ辞めてもらっても構わないから」と言われたんです。すごくショックでした。辞めるときに絶対「辞めてほしくない」って思われるような人になろう、っていう気持ちと、この仕事じゃなくて他に向いている仕事があるんじゃないか、という気持ちで揺れました。それで俳優のオーディションを受ける友達がいたので、一緒に受けたら、僕だけ一次審査に通ったんです。二次審査は、仕事の休みがもらえなくて、受けることができなかったのですけれど、自分が肯定されたという思いで自信になりました。それでまた頑張ろうという気持ちになったんです。

 それから一年くらいして、親父が仕事中の事故で突然死んじゃったんです。僕はその頃、実家から車で2時間くらい離れた長野市で兄と暮らしていました。一週間くらい前に電話した時はすごく元気だったから、実感が湧かなくて、お葬式も些細なことで笑っちゃって。

 少し休んで仕事に復帰した時、そこの老健は、お昼寝といって、お昼ご飯の後に利用者の方を全員寝かせなきゃいけないという決まりがあったんですね。昼の1時半までに寝かしつけていないと、仕事のできない職員だと思われる。僕はもうここしかないと思っているし、もう一生懸命寝かしつけるんですけれど、その時の職員同士の組み合わせや、利用者さんの状況にも左右されるんです。僕が4人部屋で寝かしつけをしていた時、隣の部屋の認知症のおばあさんが歩行器で間違って入ってきました。「こっちじゃないよ、もう一個先じゃん」と思って、方向転換をさせたら倒れちゃって。とっさに頭は押さえたんですけれど、お尻を打って骨折させてしまったんです。ほんの一瞬の出来事だったから、細かなところはよく分からないんだけれど、急に方向転換させちゃいけないという介護ができなかった自分、転倒したのは自分のせいじゃないと、したかった自分、そんな弱い自分。そういうものがブワーっと出てきたんです。もう仕事にも行きたくないけれど、休む勇気もなくて、お天道様の光を浴びれないみたいな気持ちになって、仕事以外は一切外に出なかった。

 それから一か月くらいした時、初めて死んだ親父が夢に出てきたんです。小さかった僕を車の後部座席に乗せて、運転席のフロントミラーから僕を見ている。しょうがねえな、って顔をして。目が覚めた瞬間にブワーっと泣けてきて。その時に、初めてやってしまったことを受け入れたんだと思うんです。それも自分なんだ、って。

 その後くらいに「介護福祉士」という雑誌で三好春樹さんを知りました。ある介護の学校の試験で、食欲のないおばあさんに対してどういう介護をするかという問題があって。胃ろうとか点滴とかの医療的行為の回答が多かった中で、「自分が好きだから、うな重の出前を取る」という回答に100点を付けたという話だったんです。三好さんは「自分に置き換えて考えるのは悪いことじゃない。やれることがたくさんあるのに、それをやらないのは介護じゃない」って言っていて、すごく勇気をもらったんですよね。これなら僕にもできるかな、って。

 それから1年後、やっと地元に特養ができたので、婦長に「地元に戻って働きたいので退職したい」と伝えたら「困る」と言ってもらえて。その日は、兄と一緒に酒を飲んだのですが、本当にうまかったですね、あの日のビールは。

逆らわず、従わず

 移った地元の特養は新設だったので、結構自分たちの好きなようにやれるんです。僕はユニットのサブリーダーとういう役職をもらえて、いざ、好きなようにやろうと思ったら、何もできない。何をしていいか分からなくなったんです。自由にやっていいよ、って言われたのに、結局は自分が否定していた老健の介護しかできなかった。そこから、三好さんのセミナーに行くようになりました。そうすると今まで疑問だったことも、「ああそういうことか」と分かってきて、それを利用者の方の希望に合うようにすり合わせていきました。

 あるおばあちゃんがいて、夜、トイレに行こうとすると、毎回ベッドから落ちちゃう。その時のリーダーは「本人がおむつでいいって言っているから、おむつでいいんだ」と言っていて、みてもらう側からしたら「おむつでいいよね!」と強い口調で言われたら「大丈夫だよ、おむつで」ってなるじゃないですか。だから僕が夜勤の時は、連れて行ってあげていたんですね。安全面を注意して、危なくないようにやればいいんじゃないかと思っていて。必要じゃないことは、やれって言われてもやらないし、やらなくていいって言われても、その人に必要だったらやるし、三好さんの言葉を借りると「逆らわず、従わず」っていう感じで。一番はお年寄に喜んでもらえたらいいんじゃないかと思って。僕はずっとそんなふうにやってきたんです。

 サブリーダーからリーダーになった時に、「排泄委員会」を立ち上げておむつ外しを始めました。おむつの方がいいという職員もいたので、実際におむつをはいてもらって体験してもらったり。入浴も、機械浴から普通のお風呂に変えていったり、施設改革を始めていきました。助けてくれる仲間もいて、仕事はすごく楽しんでやっていたのですが、独立したいって気持ちはずっとあったんです。親父が60で亡くなったので、僕も60で死ぬと仮定したら、30歳であと半分。長野北部地震も経験していたので、やりたいことをやろうって思ったんです。祖母を自宅で看取ったのも一つのきっかけになりました。地域の仲がよかった人たちがみんなで看取ってくれて、亡くなるその瞬間を共有することの大事さも体験しましたね。それで在宅で仕事をしたいと考えるようになったんです。

普通の生活を大事にした介護

 平成26年4月、奥さんの実家のある栃木県鹿沼市で「宅老所はいこんちょ」をオープンさせました。始めた初日は誰も来ないし、知り合いもいないし、借家をリフォームしてお金は減っているし、軌道に乗るまで精神的なキツサは相当ありました。でも本当にやりたかったことだから、楽しかったですね。地域に混ざりたいと思って、月1回介護の勉強会を呼びかけたり、お祭りに参加したり、青年会に入れてもらったり。自分が出ていったり来てもらったりして、少しずつ積み重ねてきたという感じです。

 最高のケアをしようと目指しているわけではなくて、病気や老化や障害でできなくなってしまった今までの生活に、一緒に力を合わせて戻していこう、ということなんです。基本的なベースがあって、そこから排除されないかをちゃんとみていけば、個別ケアをしなくていいとも思っています。何か違うニーズが出来てきた時も、目の前の人を大事にしていこうって。それから脱権力。社長だし、権力は持っているけれどなるべく権力的じゃない社長、というものも大切にしたいですね。例えば、むせてご飯を上手く食べられないおばあさんがいて、おかゆがいいと言う職員がいて、おにぎりがいいという職員もいて、でも、どっちがいいとは決めずに、おばあさんの状態に合わせて、その時食べたいものを出してあげればいいんじゃないかというように。おばあさんが大事だっていうのは、みんな一緒だから。

 夢は「はいこんちょ」のデイサービスを続けていくことです。人の生活を大事にした介護というものを続けていきたいし、そのためには経営もしっかりしなければいけない。だけどお金にならないことも大事にしていきたいと思うんですよね。目の前に困っている人がいたら、ちゃんと向き合っていきたい。それで気付いたら30年経っちゃってたな、というのが理想です。

「はいこんちょ」とは小林さんの出身、長野県下水内郡栄村の方言で「ごめんください」の意味。誰もが気軽に来られる場所にしたいとの願いから。

ひと手間を惜しまず、されど力まず。
それが「小林流」

【久田恵の視点】
 多様性の大切さがしきりと言われている時代ですが、現実はまだまだ画一性で押し切られているのが現実。でも、そこからはじきとばされたからこそ、小林流の楽しい介護の世界が誕生したのですね。逆らわず、従わず、名言です!