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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第13回 外郭団体の事務職から、介護職へ 
失恋の痛手が、介護のミラクルな世界で吹き飛んだ!

大野由美さん(43歳)
介護支援サービスしろもと(1)
小規模多機能ホーム・メサイア(愛媛、久万高原町)

取材:久田 恵

大失恋がきっかけ

 26歳のときです。大学を卒業して県の外郭団体に勤めていた私ですが、付き合っていた彼と結婚しようとした寸前、大失恋をしました。彼にほかの女性がいたのです。その場面に出くわして、もめて、結婚がなくなりました。

 それは、衝撃的な出来事でした。

 立ち直るには、相当なことが必要でした。

 それで、「違う世界を見たい!」、そう思っていきなり飛び込んだのが介護の世界でした。

 それから、すでに介護職歴、通算11年。今、夫がいて、子どもが二人いて、小規模多機能ホームで管理者をしています。

「僕を殺すんですか!」

 パソコンで会議のまとめを作成するなどのデスクワークをやっていた私が、飛び込んだ介護の世界は、病院。入院患者の回復期のリハビリの現場でした。脳梗塞の後遺症の方とか、認知症の方とかのケアで、私には、なんともミラクルな世界でした。

 忘れられないのが、16歳の脊髄損傷の男の子です。自分が酷いことになった抑えきれない怒りを新人の私にぶつけてきました。彼が、枕の側のボタンをあごで押して呼ぶのですが、呼ばれても行けないことがあったら、彼がものすごく怒って、叫んだのです。

 「僕を殺すんですか!」って。

 首から下がまったく動かせない彼にとって、呼び鈴は命綱。ケアする側のちょっとしたミスで、「この子を殺す」ことになるのかって。脊椎損傷とか、そういうことにも無知でしたから、ショックでした。私は、とにもかくにも「自分のことは全部、自分でできる、全然問題がない私」みたいなことを突き付けられ、おまけに、バタバタ忙しいしで、自分のことなど考えてもいられない。失恋の衝撃など吹き飛んでしまいました。

 ともあれ、そこが、私が人をケアするという仕事に入っていった入り口でした。

そこにKさんがいたから

 恋愛? 今の夫と出会うまでは、全然しませんでした。

 結婚したのは、失恋から3年後、29歳のとき。夫は、役場の職員でした。私は、子どもが生まれても仕事をするつもりでしたので、松山市に近いところで、新婚生活を始めたのです。でも、「町の職員は地元に住むように」と言われ、職員住宅に引っ越しました。病院の仕事は遠くても続けたいと思ったのですが、「子どもを犠牲にしてまで、遠くから通うような仕事じゃない」などと上司から言われて、やめました。

 そのまま年子で子どもが生まれ、3年後に今の事業所から「1か月だけでいいから」と声がかかり、地元の介護支援サービスしろもとに入りました。

 その1か月がとうとう8年続いてしまいました。

 続いたのは、そこにKさんがいたからです。

 彼女が、そこの管理者だったことが、もう決定的でした。

 そもそも、今の事業所は、子育て応援企業で、母親の私が働きに行っているということを、ウチの子どもは小学校5年生まで知りませんでした。幼稚園から帰ったら、必ず私が家にいましたし、どうしても、というときは、子どもを連れて遊びに行くという形での働き方ができたんですね。母親べったりの子どもだったので、納得がいくようになるまで言わなかったのです。

 介護の仕事は、やっぱり、ミラクルです。

 その人その人で世界がある。それが面白いというか、考えさせられる。

 背後には、いろんな人のいろんな事情があります。

 そういう中で、自分が変わりました。早く言えば、丸くなりました。わりとはっきりした性格で、「こうだったら、こう」の人でしたが、ミラクルな人には、「こうすべき!」じゃ、全然ダメでしょう。だから、次第に変わっていきました。

利用者と向き合って

 私は、この仕事についてから、勉強するようになりました。介護の世界はいろんな分野にかかわってくるので、制度のこと、医療のこと、高齢者の心理的など、いろいろ関心が高まり、通信教育などで勉強もしたくなりました。

 この過疎の町で、介護サービスの事業を立ち上げた先人、社長や管理者のKさんたち先輩にすっかり洗脳されたというか。特に、直接の上司であるKさんが私のすべてになっちゃいました。その魅力というのは、一緒に働いているだけで、知らず知らず学んでしまうという、一つひとつは小さいことなんです。利用者の方の足にちらっとなにか、できたとかね、教科書には載っていない、小さなことにもすぐ気がつく、その人のことを考えているからできることで、ぶれない信念がそこにあるんです。たとえ、スタッフから不興を買っても自分がこうと思ったら、やる、そこにKさんがいるだけで、みなが安心する、空気が変わる、楽しくなる、そんなオーラがあるのです。

職員がいいところで働けてよかった、という感謝があれば

 それと、ここが働きやすい職場であることがすごいです。ここは、自分の生活の条件、家庭の事情をきちんと聴いてくれるんですね。希望を聞いて細かくシフトを組んでくれる。そこは、すごい配慮で、こういうところはほかにないのじゃないか、と思います。職員がいいところで働けてよかった、という感謝があれば、利用者さんにも親切に優しくなれる。

 無理をすれば、家庭もギスギスして、仕事場もそうなります。Kさんが率先して働くから、それをみんなが知っているから、協力するようになるのですよね。

 私が、パートから職員になったのは、3年前で、Kさんが、グループホームのほうへ異動するので、こちらの小規模のほうの管理者になるようにこんこんと説得されました。

 管理者になると、すべての責任をとる。他の職員とは、線を引かねばなりません。このホームには介護ポリシーがありますから、それに反したことは、ダメとはっきり言わなければならない。それには勇気がいるんです。人にクレームを出すのってつらい。言いにくいことを言って、相手との間にザラッとする感じがいやですよねえ、でも、言わなければならないわけです。

 それが厳しいのですが、あの人を越えたいけれど越えられない、そう思える人がいることは素晴らしいと思っています。

利用者と向き合って

 それから、家族も変わりました。

 私が忙しくなったので、夫が子どものことを気にかけてくれるようになり、親子が仲よくなりました。思春期の男の子ですから、父親の役割も大きいので、我が家にとってはとても大きなことです。

 今思えば、26歳のあのときの私の失恋は、とても意味のあることでした。

【久田恵の眼】
 四国、愛媛の久万高原町は、私の知人が東京から移住した町です。知人は小学校教師を早期退職して誰ひとり知り合いのいないこの町に来ました。そのとたん、お向かいの介護施設から声がかかり、50代の新人介護ヘルパーとなりました。その彼女の推薦する介護職仲間のお二人に急ぎ取材に出かけたのが、ここ介護事業所しろもとでした。
 この町の人口は約9000人。高齢者人口がすでに半分を超えている高原の過疎の町です。が、朝霧に包まれていた町が、陽が上るとともに深い緑に包まれていく美しい町です。高齢の方もなかなかに元気です。町の介護施設は、いわば地域の方たちの共同介護の場、お嫁さんやお隣さんがヘルパーとして働くその場所に、お姑さんや親御さんが入所しているという構図です。ホームの窓から、自分の家が見えて孫が手を振っている、なんてこともあるのです。地域の人たちが共同で介護をして、地域の高齢者を支える、そんなこれからの介護の理想的なシミュレーションがここでなされている、という思いを強くします。小規模の介護のコミュニティづくりは、楽しく、温かく、きめ細かい介護を実現する希望のような活動ではないか、と思います。