ページの先頭です。

ホーム >> 福祉専門職サポーターズ >> プロフェッショナルブログ
宗澤忠雄の「福祉の世界に夢うつつ」

支援者のアンサンブル

 先日、静岡県沼津市にある社会福祉法人あしたか太陽の丘の支援者の皆さんと障害者虐待防止研修をともにしました。3時間に及ぶ講演の後、有意義な質問がフロアから多数寄せられました。
 
munesawa_0716_1.jpg
あしたか太陽の丘研修センターで

続きを読む

 この法人は静岡県の施策方針に沿って1977年に設立されて以来、県東部における総合的な障害者支援の拠点としての役割を果たしてきたところです。現在、生活介護や就労継続支援をはじめ、障害者生活支援センター、障害者就業・生活支援センター、地域生活定着支援センターなどの社会資源を含む地域生活支援に関する総合的なサービスを提供するとともに、県東部におけるさまざまな事業者職員の研修センターとしての機能を併せもっています。

 虐待防止研修の講演には、いささか長い時間を要します。法律上の定めにある虐待対応の守備範囲だけでも、養護者による虐待、施設従事者等による虐待、使用者による虐待の3領域があります。ここで、領域を限定した話でも最低2時間が、包括的な虐待防止の取り組みともなると4~5時間がそれぞれ必要です。

 今年に入り、毎月2~3回は虐待防止研修をお引き受けしてきましたが、支援者職員、企業担当者、ご家族のいずれを対象とする場合でも、長時間にわたる講演に集中力を切らせることなく、皆さんが真剣に耳を傾けていることが分かります。さまざまなテーマの講演をさせて戴いた私のこれまでの経験からいっても、虐待防止と人権擁護に関する課題意識は特別に高いものがあると感じるのです。

 あしたか太陽の丘の研修では、支援者の皆さんの眼差しが私を射るようにずっと集中していて、これまでの中でも特に高い研修意欲を感じさせられました。恐らく、私の虐待防止研修の講演に至るまでの取り組みやプロローグとしての準備作業が行き届いていたのではないかと思います。

munesawa_0716_2.jpg
集中力は途切れない

 さて、戴いた質問の中で、とくに有意義だったものを二つほどご紹介しましょう。

 一つは、安全確認・事実確認の実施は市町村職員の職責であるが、生活支援センター等の民間支援者が同道することは許されるか、また同道した方がいいかどうか、という質問です。私は、同道することがベストであると考えます。

 虐待の通報・受理を経て、安全確認・事実確認を実施するステージは、市町村職員の責務であるとの法的定めがあります。ここは、民間の支援者に「みなし公務員」規定は適用されませんから、安全確認・事実確認は市町村職員だけの業務となります。

 しかし、安全確認・事実確認からはじまる支援の取り組みは、ネットワークを駆使した連携支援をアセスメントにもとづいて組み立てなければなりません。その他、保護分離のための「やむを得ない措置」や首長による成年後見の申立てを含めて考慮すると、市町村職員と民間支援者の協働・連携によって虐待対応の初動段階をつくることには、その後の迅速で適切な支援を進める上でとても重要であると考えます。

 もう一つは、障害者就業・生活支援センターの支援者からの質問です。一般就労での職場定着を見通すためには、場合によっては、「職場の厳しさに耐える」とか「理不尽なことにも少しは我慢できる」といった力をつけてもらう必要を感じることもあるが、使用者による虐待または不適切な処遇との関係でどのように考えればよいか、という内容です。

 職場で発生する虐待には、「一般就労を続けていくには、少々のことがあっても我慢しないといけない」と、周囲や支援者が間違った支え方をすることによって、虐待の重症化や長期化をしばしば招いてきたという歴史的な教訓があります。

 したがって、職場における虐待対応は、不適切な処遇が生成し始めた初期段階において、職場定着支援の一環としてのフォローアップの形で対応することがベストです(拙著『障害者虐待』222-228頁)。ただし、障害のあることを理由にした抑圧的な処遇や規律があるような場合は、明白な差別であり人権侵害ですから、使用者による虐待事案または差別事案としての毅然とした対応が必要です。

 このような対応を前提にした上で、職場で何かを「我慢しなければならない」ことが本人の達成感や職場全体の達成感につながるものであるのか、ただ単に抑圧的な処遇に耐え忍ぶだけなのか等が判断の分かれ目でしょう。この分岐点は、障害のあるなしに関係なく、本人にとって働き続けることに意味がある職場なのかどうかを最低限の判断基準とするものですが、個人差や職場との相性の問題も介在するため、実際にはケースごとに紙一重の見極めが求められるところです。

 あしたか太陽の丘の研修では、このような相談支援系の支援者から出された質問を施設支援系の職員も共有することになります。虐待に係る対応支援は、ネットワークを駆使した連携支援の総合力が試される領域であり、支援者のアンサンブルの質が問われます。そうして、多様な専門性と立ち位置にある支援者が、それぞれの課題意識から虐待対応のあり方を検討する場を共有することは、とても大切な営みとなるのです。

 あしたか太陽の丘の中で、多様な専門性と立ち位置を持つ支援者のアンサンブルが虐待防止の取り組みにふさわしく形成されるならば、それは静岡県東部地域全体の支援者のアンサンブルの質を高めていくことになるでしょう。皆さんの今後の取り組みに期待します。


コメント


 虐待問題は社会全体で考えていくべき問題の一つであると思います。人間形成と教育の講義の中でも扱われた大きなテーマでもあり、ビデオにおいてその実態の一部を垣間見たので、非常に関心を持っています。定期的に開催されている虐待防止研修講演において多くの人々が問題に強い関心をもち、高い意識をもって現状改善に望んでおり活発な研修会となっているようでした。専門家とそれの支援者の協力が不可欠なだけに共同体単位で問題に取り組み、今回の研修地である静岡県東部地域からより質の高い虐待の改善がなされていけばいいなと思います。


投稿者: そふとん | 2013年07月16日 10:36

虐待は人間形成と教育の講義の中でも取り上げられた大変重要な問題だと思います。今回の公演は障がい者への虐待についてというこであまりなじみのないものでした。擁護者によるもの、施設従事者等によるもの、使用者によるものとその領域も多く学ぶのは大変だと感じました。私は人間形成と教育の中の講義の中で最も興味を持っているのが虐待についてなのでこれからも知識を深めていきたいと思います。


投稿者: いも | 2013年07月18日 16:40

虐待は重要な問題だと思います。しかも、思っているよりも身近な問題で誰にでも起こりうる問題だと思います。今回の場合では虐待と我慢しなければいけない試練との間で苦しんでいる人がいるのだと感じました。確かにどこまでが虐待でどこまでが試練なのかとても線引きが難しいと思います。なので、第三者が必ず見ていなければいけないのかなあと思います。虐待の問題に関してはもっと身近に考える習慣が必要だと感じました


投稿者: チェルシー | 2013年07月18日 21:34

障害者への虐待は起こりやすく、とても大きな問題だと思います。「一般就労を続けていくには、少々のことがあっても我慢しなければならない」という考え方があるようですが、障害者の人たちはすでに多大なる苦労と我慢をしているのではないでしょうか。支援者となるのであれば、“支援してあげている”というような感情は持ってはいけないと思います。また、最近は『雇用者の何パーセントかを障害者にする』というような制度がありますが、そのような考えはまさに“支援してあげている”という状態だと思います。障害者虐待にはこのような制度があることも起因しているのではないかと思いました。
前回の講義で、盲目のピアニストの演奏を聴きましたが、障害を持っている分、抜きんでているところもあると思います。そこをみんなで理解することによって、障害者虐待を少しでも減らすことができるのではないかと思いました。


投稿者: ペンギンのペンちゃん | 2013年07月19日 15:37

虐待防止研修のような連携体制確立の場が設けられていること自体が重要だと思いました。相談支援系と施設支援系、それぞれ専門的に精通する分野があり、立場がありますが、支援される側からすれば両方とも必要です。そう考えると、支援のために質問や情報が共有される場が大切になってくると思います。
また、こういった研修などの取り組みを社会全体として知る機会があってもよいのではないかと思いました。


投稿者: だいこん | 2013年07月21日 16:15

 障害者の虐待は特に難しい問題なのではないかと感じます。障害者の方は仕事を続けていくためには我慢をしなければいけないなど考えてしまう方をいるのではと思います。私自身にも言えることですが、日本社会は障害についての知識不足やハンデをもった方のための環境整備も十分ではないと感じます。教育の場においての同じようなことが考えられると思います。
 周りがその人にあった支援をし、どんな人をのびのびと生活のできるような世の中になればと思います。まずは、教員を目指す私自身学校の教室という場でこんな環境が作りたいと思います。


投稿者: n.m | 2013年07月21日 23:52

虐待は絶対に許されない重大な行為ですが、誰にでも起こりうる身近な問題なのかもしれません。だからこそ、あしたか太陽の丘の支援者の皆さんも、より意欲的に研修に参加されていたのだと思いました。障害者虐待の防止・解決のためには、市町村職員と民間支援者の協力が欠かせないものなのだということがわかりました。今の社会では、障害ということにマイナスイメージばかり持つ人も多いかもしれません。しかし、障害を持っていても別の面での能力や才能がある。そのことを当たり前に理解し合い、引き出せるような社会になればいいと思います。


投稿者: S/T | 2013年07月22日 04:09

虐待は当事者だけに任せて解決できるものではないが、第三者が関わることが難しい問題だと思います。その問題について正しい知識を持ち、それぞれの状況についてもきちんと理解して、ケースごとに解決策を考えることが必要なのではと感じました。自ら行動しなければ虐待について知る機会はあまりありません。より多くの人にこの問題について関心を持ち、考えてもらうためにも虐待防止研修などは重要なのだと思いました。


投稿者: こめこめ | 2013年07月22日 23:06

虐待については講義の中でも大きく取り上げられていたので、自分の中でも特に印象に残っています。中でも虐待というのは親が子に対してのみ行うものという先入観を持っていたので、二つ目にとりあげられて質問のように職場で行われている虐待などさまざまな虐待の形態が存在することは今まで知りませんでした。虐待という問題を改善するためにはこのことをより多くの人に知ってもらう必要があると思いました。


投稿者: ラオウ | 2013年07月23日 01:39

障害者虐待の問題には社会全体で取り組まなければならないと思います。講義の中で、虐待についてを学びましたが、本来、講義や講演を受けた人以外の人たちも知るべきだと思うのです。できれば、義務教育の中に取り入れて、より障害者の方や虐待に触れる、知る回数を増やして、肌で感じてもらうべきです。
それが現代にあった教育でもあると思いますし、障害者への助けとなると思います。


投稿者: やまもと | 2013年07月23日 17:06

"市町村職員と民間支援者の協働・連携によって虐待対応の初動段階をつくることには、その後の迅速で適切な支援を進める上でとても重要であると考えます"
という考え方にわたしも同感しました。実際、障害者が本当の意味で自立するのはとても難しいことだと思います。なので、いかに周りのひとたちがあたたかい目で見守り、共存していくことが大事だと思います。
職場での障害者への対応はとても難しいと思うので、専門家などの第三者が積極的に介入することも必要であると私は考えます。


投稿者: ジャパンエナジー | 2013年07月23日 23:55

障害者への虐待についてはこの講義はもちろん、先生のほかの講義でも取り上げられていたので、とても参考になりました。個別支援入門において実際に障害をもつお子さんのお母さん方のとてもリアルなお話を聞いた時、虐待というものは本当に起こりうるものだということを思い知らされました。そしてその本音を聞いて強く感じたのは障害者に対する支援はもちろん、その家族に対する支援がいかに大切かということでした。しかし、そういった支援が行き届かない場合もあるのが現状です。もっとそういった支援の環が明るみになることが必要だと感じています。


投稿者: gs-wireless | 2013年07月24日 00:30

記事における写真からも支援者の方々がこの虐待問題に対していかに真摯に取り組もうとしているかが伺えました。
「虐待」といえば自分はまず親子間による虐待が頭に浮かびます。職場における障碍者の方への虐待については自分にとっては今まであまり身近な問題ではなかったなと振り返ってみて感じています。講義の中で視聴した映像を見ても虐待を第三者が認知するのは非常に困難であり、デリケートな事だと思いました。加害者が「やっていない」と言ってしまっては、被害者である障碍者の方の口からその事実を容認するのはやはり難しいのでしょう。
先生が講演の中で受けた質問については、自分も賛成です。公務員の人々だけで安全確認・事実確認を行うよりも民間支援者の経験や知識を活用して取り組む方がより確実に実施できると思います。


投稿者: はますか | 2013年07月24日 01:37

障がい者に対する虐待問題を考えるにあたり、「障害のあることを理由にした抑圧的な処遇や規律は、差別であり人権侵害」という先生のお言葉を受け、"障がい者だから"とひとくくりにする前に一人の人間として尊重することの重要性を感じました。ものごとの得意不得意は誰にでも存在するものであり、決して障がい者に限った話ではありません。それを障がいを持っているというだけでその人の可能性を無駄に狭めたり、気持ちや考えを踏みにじってしまうのは大変悲しいことであり、あってはならないことだと思います。そうした虐待を減らすためにも、支援者の教育や社会的意識改革を題材的に行い、適切な環境づくりをしていくことが必要だと考えます。


投稿者: まいく | 2013年07月24日 01:46

ここ数年、介護施設や支援学校などでの虐待のニュースをよく目にするようになった気がします。収入を得るために仕方なくその職についている人もたくさんいるのだと思います。望んでついた職では無い分、やりがいが見いだせなかったりしてストレスを感じ、その矛先が社会的に弱者とされる人々に向けられてしまうのではないでしょうか。職員の方が施設の利用者に虐待をするのは決してあってはならないことですが、日々のストレスの積み重ねで我慢の限界が来ると思います。ですから、虐待防止の研修などの場で、職員の方々の抱えているものを少しでも軽くしてあげられるようなヒントを与えられたらいいのではないかと思いました。虐待を無くすにはまず職員の心のケアも大切だとわたしは思います。


投稿者: 耳たぶ | 2013年07月24日 02:14

虐待問題については、昔から学校でも考えさせられてきた問題でした。
それだけ重要な問題なのだと思います。僕自身は虐待をしない自信はありますが、虐待を受けている人にどう対応したらいいのかは、わかりません。
これからの人生の中で一生を通して考えていく問題だと思います。
少しずつ知識をつけて答えを見つけたいと思います。


投稿者: はまっこ | 2013年07月24日 10:05

虐待は社会のおおきな問題だと思います。
人間形成と教育の講義の中のビデオでその実態の一部を見たのですが、非常にショッキングであり、関心を持ちました。
私自身、親から躾という形で平手打ちなどをもらったことがあります。ですがそれを虐待だとはおもいませんでした。
ですが自分自身、躾による子供への仕打ちと、虐待であるただの暴力なのかの線引きがいまいち分かりません。虐待というのは人の精神的なこともあり、学んだり、知ろうとしないと、分からないことがとても多いと思います。
もっと深く学び、虐待という大きな問題を考えていく必要があると思います。


投稿者: チョコボール | 2013年07月24日 13:13

 職場での我慢について書かれたいましたが,我慢しなければならない場面というのはどんな環境の中でも,必ずあると思います。もちろん我慢の中にも,度を超えたものもあるし,それが起こりやすい社会になってしまっているようにも感じます。しかし,それとは反対に仕事が長続きしなかったり,働く気のないニートと呼ばれる人が増加していますが,私はこの原因を日本の教育だと感じています。大学に入学してから大学の授業の様子を見ていて,大学生は我慢というものをしないんだなと思う場面が何度もありました。24時間ずっとしてないわけではなくて,しなくてもいい場面を見極めているように思う。
 現代は昔と比べると我慢という概念についての価値観が低くなったのかもしれません。我慢しなくても何とかなるから我慢する力をつけること自体が減っていると思います。「我慢,我慢」というと耐え忍んでいるようで聞こえが悪いかもしれませんが,自分で責任を持って何かをやるということは,どうしても,やり遂げるために辛抱することも必要だと思います。人間は,確実さを持つ生き物ではないので,個人の人格やそこから生まれる感情の深い部分までは,みることはできません。意識してないだけで誰にでも,攻撃性のようなものが存在しているように思う。それを深いところに宿してはいるのにも関わらず,表に出さないのは,何かにイライラした時などに,その事に向き合って「我慢」が成り立っているからである。昔は現代ほど虐待がなかったのは,社会の中で「我慢」が成り立っていて「我慢」に支えられていたことも大きいと思う。我慢を結果としてだけでなく,過程まで意識することで社会の支えになるように感じる。何かやり遂げるもの(目標)があってそこまでの過程の1つとして我慢を認識する視点を持つことができれば,我慢の社会的重要性を1人ひとりが実感できるのではないかと考える。虐待のような出来事も加害者の中の我慢力(物事に向き合う力)がないことで生じているように思った。


投稿者: あじさい | 2013年07月24日 16:03

我慢について
我慢しなければならない場面というのはどんな環境の中でも,必ずあるように思う。
 現代は昔と比べると我慢という概念についての価値観が低くなったかもしれない。我慢しなくても何とかなるから我慢する力をつける機会が減っていると思う。「我慢,我慢」というと耐え忍んでいるようで聞こえが悪いかもしれないが,自分で責任を持って何かをやる際,どうしても,やり遂げるために辛抱することも必要だと思う。人間は,確実さを持つ生き物ではない。個人の人格やそこから生まれる感情の深い部分までは確認できない。意識してないだけで誰にでも,攻撃性を持っていると思う。それを深いところに宿してはいるのにも関わらず,表に出さないのは,何かにイライラした時などに,その事に向き合って「我慢」が成り立っているからだと思う。昔は現代ほど虐待がなかったのは,社会の中で「我慢」が成り立っていて「我慢」に支えられていたことも大きいと思う。我慢を結果としてだけでなく,過程まで意識することで社会の支えになるように感じる。何かやり遂げるもの(目標)があってそこまでの過程の1つとして我慢を認識する視点を持つことができれば,我慢の社会的重要性を1人ひとりが実感できるのではないかと考える。虐待のような出来事も加害者の中の我慢する力(物事に向き合う力)がないことで生じているように思った。


投稿者: あじさい | 2013年07月24日 17:30

教員採用試験の勉強をしていると、虐待、いじめといった言葉がよく出てきます。これらの定義は一応定められていますが、私はこれらを判断するのに、この定義はとても曖昧なものだといつも思います。
 虐待の線引きはとても難しいです。同じ行為でも、人によってその行為が虐待と受け止めるかしつけと受け止めるかが違うからです。虐待としつけの間にはグレイゾーンが存在し、虐待を見極めていくのは非常に難しく、判断しにくいものです。
 親の愛情の裏返しとしてしまえば、虐待であっても見過ごしてしまうこともあります。また子どもが親をかばってしまうこともあります。そのため私たちは、日常から子どもの出すSOSのサインに敏感に気づいていくことが必要です。日頃から、子どもたちの行動や仕草から違和感がないかをしっかり見て、虐待の早期発見、迅速な対応を心がけたいです。


投稿者: N22 | 2013年07月26日 08:29

「我慢しなければならない」ことが、自己、そして周囲の達成感につながる、ポジティブなものなのか。あるいは、ただ抑圧を与え、苦にしかならないネガティブなものなのか。その線引きは、おっしゃるように「紙一重」であり、とても難しいと思います。こうした問題は、障害の有無にかかわらず発生するものですが、障害のある人には、より一層深刻な問題のように思います。
例えば、「我慢しなければならない」ことが起きたとき、障害のない人は、「自分に合っていない」のか「我慢すべき」なのかと悩むと思いますが、障害のある人は、そこにさらに「障害があるから」なのかと、悩む点が一つ増えるように思います。今は例に一つあげただけですが、障害があるゆえの悩みというのは、私の想像以上に多くあると思います。そして、まじめな人、なまじ忍耐強い人は、虐待という状況の中でも、我慢をしようとしてしまうかもしれません。そうした場合、虐待が表に出てこないケースも考えられると思います。
相談を受けて、そこから支援をするというのももちろん大切ですが、こちらから、虐待、またはそれに近い状況に陥ってはいないか、注意深く見ていく必要があるように思います。


投稿者: sido | 2014年01月05日 01:01

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。

コメントを投稿する




ページトップへ
プロフィール
宗澤忠雄
(むねさわ ただお)
大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

【宗澤忠雄さんご執筆の書籍が刊行されました】
タイトル:『障害者虐待 その理解と防止のために』
編著者:宗澤忠雄
定価:¥3,150(税込)
発行:中央法規
ご注文はe-booksから
障害者虐待 その理解と防止のために
メニュー
バックナンバー
その他のブログ

文字の拡大
災害情報
おすすめコンテンツ
福祉資格受験サポーターズ 3福祉士・ケアマネジャー 受験対策講座・今日の一問一答 実施中
福祉専門職サポーターズ 和田行男の「婆さんとともに」
家庭介護サポーターズ 野田明宏の「俺流オトコの介護」
アクティブシニアサポーターズ 立川談慶の「談論慶発」
アクティブシニアサポーターズ 金哲彦の「50代からのジョギング入門」
誰でもできるらくらく相続シミュレーション
e-books