ソーシャル・メディア小括(1)
明けましておめでとうございます。
このブログを記しはじめて5年近くの歳月が経ちました。ブログを書き記すことを通じて、ソーシャル・メディアについて考察することを私自身の模索的なテーマとしてきました。ここでひとまず、個人的なソーシャル・メディア論(とてもまとまった見解ではありませんが)を小括しておきたいと考えます。
この間、さいたま市における相談支援体制・条例づくりから障害のある人の虐待への取り組みと研究など、私には様々な営みがあり、それぞれの課題にふさわしい探求が必要でした。それと同時に、20世紀型の発想と取り組みの文化的刷新がこれらすべての個別課題を貫くテーマでもあり、その一環として、ソーシャル・メディアとソーシャル・ネットワークについて実験的に考察し続けてきました。
このブログコーナーは、私が毎回のテーマを自由に決めて書き、画像も存分に掲載することができました。週1回アップすることにはタイトな面もありますが、テーマさえ決めると書くこと自体に必要な時間は1~2時間もあれば十分で、さほどの窮屈さはありません。むしろ、私にとってもっとも悩ましい問題は、ブログという新しいメディアの性格をどのように捉えるかにありました。それによって、内容と文体にかかわる書き手としての構えと目標が変わるからです。
雑誌のコラム欄であれば、雑誌の編集意図、性格および読者層などはコンスタントなものとして理解できます。しかし、このブログは「けあサポ」のコーナーにあるとしても、立ち寄る人の層を狭く特定できるものではなく、少し大きな視野と括りを前提していると受けとめてきました。もちろん、芸能人のブログのように、日記と随筆の間の子で、目的はあくまでも書き手の注目度と消費文化的価値を上げるためにあるというものでもありません。だって、私が「今日は渋谷で新しいスイーツを見つけました、ステキ♡」なんて画像を添えて書いても、気持ち悪いだけでしょう(笑)。
ブログは書き手の個人性を前面に出すしかないのですが、日々の出来事を私小説的に綴るのは醜悪だし、私の趣味ではありません。そこで、ソーシャル・メディアの一角にあることを自覚しつつ、自身の思想とフィールドワークの実際を率直に開示し展開することを基調に据えることによって、私なりの論点や課題意識を社会に広く提示し続けようと考えました。毎回のテーマは限定的で多彩なものを取り上げ、「人間―自然―社会―文化」のつながりを全体として感じ取れるものにしながら、折にふれて本の紹介を交え、対人支援領域の専門職に大切な何かを常に問題提起し続けることができればベストだとイメージしてきたのです。
ブログですから、お堅いだけではいただけません。が、だからといって根拠のない思いつきや理論的誤りを含むものでは駄文に過ぎませんから、ときとして厳密な文言の運びに注意することもありました。福祉関連領域にいる読み手が多いからこそ、逆に福祉の制度・実践に狭くテーマを絞ることなく、読み手がそれぞれの日常から跳躍できる「間」となるような、学際的な発想の豊かさに開かれた内容にすることがふさわしいと考えました。このような跳躍力こそ、日々の実践やルーティンを客観視することにつながるからです。
このような5年弱のブログライターとしての経験は、まことに貴重なものでした。金環日食(2012/05/21のブログ参照)の当日は、朝に撮影した画像がその日のお昼にはアップできましたし、さいたま市の条例づくりが「全会一致」で成立した背後には、このブログを含めたソーシャル・ネットワークの力も間違いなく存在しました(関係者の一部には、この点に全く気づきや注意をもたなかった人たちもいるでしょう)。書き込みの多様な反応に考えさせられることもしばしばありました。
ここでは、従来型の紙媒体と直接的な対面交流による人間の結びつきや、利便性・スピード感の違いについて隔世の感があり、ソーシャル・メディアとソーシャル・ネットワークに関する尽きないテーマが湧いてくるのです。
ブログ、Twitter,Facebookなど、この20年間に進展した新しい型の社会的メディアの特質は、旧来のメディアのあり方と根本的に異なるだけでなく、ヒエラルヒーや規則にもとづく特定の枠組や組織内人間関係を超えるソーシャル・ネットワークの創造に、はかり知れない意義があるといわれています。ここにはもちろん、光と影を伴う様々な問題点が存在します。
1 メディアとしての特徴について
まず、誰でもどこでも情報発信することができる点があげられます。それは、あらゆる権力や組織から自由に情報を発信できる画期的な側面をもつと同時に、誤った情報、くだらない思いつき、誹謗中傷などを含む玉石混交の情報が過剰に飛び交う言説空間を膨張させます。前者は「アラブの春」を産出しましたし、後者は、自己顕示欲を満たすためとしか思えない記事・画像をはじめ、子どもたちの「いじめ」発生に深く関与するSNSや一部の「訴訟まみれ」の掲示板に確認することができます。
次に、紙媒体と比べると、字数や画像掲載の制約が著しく少なく、印刷の手間もいらない分、迅速にアップすることのできる利点があります。私にとって、これは画期的な自由度を感じました。テーマに応じて書き手に必要な字数と資料の量は変わって当然なのですが、雑誌などの紙媒体でこの点が考慮されることは、これまでほとんどなかったといいでしょう。編集する側の字数・資料制限の枠組みで書けないのは、書き手の力量不足とする一方通行がこれまでの常識でした。
しかし、字数・画像の掲載に関する自由度は、書き手の側に言葉や資料・画像を選び抜こうとしない安易さをもたらす欠点にもなっています。根拠に欠ける思いつきや、すでに明らかにされていることを大発見のように書く節操のなさがソーシャル・メディアには、はびこっています。
要するに、調べを尽くす手間もかけない、にわか作りの文章が「情報」として氾濫するのです。そこで、ソーシャル・メディアにおける情報発信が消費文化的価値に流される傾向を強めていくと(ヒット数の多さを競う、面白さと目立つことを旨とするなど)、読み手には過剰な情報の中でさまよい続ける不安の高まりを帰結させるでしょう。このような社会不安をベースとして、強権的なリーダーシップによる大衆社会的統合を求める風潮は、間違いなく強まっていると考えます。
場合によっては、ソーシャル・メディアにおける送り手と受け手が、共依存関係になることもあるでしょう。それは、常に「誰かにつながっている」ための不安解消の電子的ツールであり、不満と欲求のはけ口になっています。
この問題点は、情報の受け手側のメディア・リテラシーを課題とすることだけに還元することのできない難問が含まれています。送り手の問題が厳然として存在するからです。しかも、旧来の報道機関の倫理綱領のような縛りをかけることのできる領域ではありませんから、ユルゲン・ハバーマスの指摘する「討議と人権」の知見と所作を多数市民の成熟に向けて高めていく以外に手立てはないのかも知れません。
三つ目は、双方向性のある点です。これは、書き手に対してさまざまな見解が応答することによって、論点の鮮明化や議論の発展を産む場合と、「いいね!」と御愛想のような「つぶやき」だけを増やし、言葉・画像の「アクティング・アウト」や上っ面をなぞるだけの「社会的表現」を惹起しているように感じます。ここには、表現主体に偏りやすいわが国の個人主義が介在しているでしょう(作田啓一著『個人(一語の辞典)』、1996年、三省堂)。
このような双方向性を活かしたNHKの「NEWS WEB24」という番組は、アクセス数の多い話題を掘り下げる新しい型のニュース番組としてはじまりました。が、話題によってはネットナビゲーターのバイアスが掘り下げの良し悪しを左右してがっかりしてしまう場面もあり、「アクセス数が多い話題を取り上げて掘り下げる」アプローチのどこがニュース番組の「新しさ」であるのかは、今のところ私には納得できるところがありません。
アクセス数の多少に拘らず、情報の重要性に関するメディア独自の判断があることにも、報道機関の社会的存在理由はあるはずです。双方向性の報道企画はテレビでは初の試みなのかもしれませんが、ラジオの報道番組ではかなり以前からリスナーとの双方向性をもったニュース番組作りをしています。番組手法の新しさはあるとしても、テレビの新しいあり方を提示するまでには至っていない印象を拭うことができないのです。(次回に続く)
コメント
私も最近のメディアの成長は著しいものだと感じるとともに、次々と新たな問題が出現しているのを目の前にして、とても問題視してました。確かに、メディアの多様性が広がったことにより、いろんな情報が、そしてそのユビキタス性の広がりにより、いつでもどこでも手に入るようになったことにはとても感動しています。でも、その成長がもたらす多くの問題にもとても困惑してることも現実です。
ソーシャルメディアは私たちの生活に密接に関連しています。人脈の拡大や手軽く情報を集めるし、大きな影響力を持っています。しかし、このソーシャルメディアも企業が作ったものであり、人間の便利さより、利益を追求する目的があります。それでその被害で個人情報の流出など様々な問題が発生しました。情報リテラシーも限界があります。そのため、ソーシャルメディアを作る企業などに制約とか法を作り、強化することなど政府や人々が関心を持ち、もっと良いソーシャルメディアを作り出すのが重要になると考えます。
一般人でさえソーシャルメディアを用いることで責任感のない文章を「情報」として発信できてしまうことは、多くの人間が年々理解を深め、情報のリテラシー能力は向上してきていると私は思います。しかしながら、ソーシャルメディアが新しい人間関係のあり方を形成している点はまだ多くの人間が自覚していないように考えられます。顔の見えない文章による情報だけの関わりは、現実では仲良しの友達に対して憎しみを感じるほどに異なるものに成りえるのではないかと考えます。これらは周りの人間や私自身が実際に体験したものです。ソーシャルメディアの増加の影響で起こる変化に私たちは対応していかないとソーシャルメディアの奴隷となる人間が増えてしまうのではないかと感じています。
SNSをはじめとするソーシャルメディアは記事にも書かれている通り、様々なメリット、デメリットがある。また、ストレスのはけ口として使われたり知人と楽しみを共有したりと用途も様々である。ただそうしたところで流れている情報はすべてが正しいというわけではないので、メディアリテラシーが必要になると思う。SNSは時に犯罪の手段の一つとしても利用されてしまうため、利用者はそれなりの意識と責任を持って利用しなければならないと感じた。現在の日本ではそういったソーシャルメディアの発達に法整備が追い付いていないため、課題として法整備が挙げられる。他の国々たとえば中国ではインターネットの利用契約を実名で行う等の政策がとられているので、日本はソーシャルネットワークの管理の点で言えば中国に遅れをとっていると言わざるをえないのではないだろうか。中国の政策をそのまま導入することはできないにせよ、いちはやく政策を考える必要があると思った。
私も、twitterなどは普段から利用している。近年、これらのソーシャルメディアの発達、普及により、生活が便利になり新たなコミュニケーションの形になったと思う。しかし、その手軽さ故に誤った情報の拡散などの問題も生じており、各機関のこの変化への対応はもちろんだが、利用する個人のリテラシーもなくてはならない。ソーシャルメディアを利用する際には、直接人と関わるときと同じようにまたはそれ以上に、心配りや発言への責任に気をつけなくてはならないと感じる。
我々はブログやtwitterなどのソーシャルメディアが持つ特性をしっかりと把握したうえでそれらを利用するべきだ。ソーシャルメディアには共通の趣向や考えを持った人々が繋がることができるというメリットがあるが、大きなリスクもある。自分が発信した意見・情報が不特定多数の人々に意図せず影響を与えてしまうこともある。発信者は常に責任を持たなければならないし、受信者は安易にその発信に惑わされてはならない。常にその発信が持つ不確実性に注意しながら、情報を見極めていく姿勢を持たなければならない。発受信者共にお互いを配慮しながら、有効にソーシャルメディアを活用していかなければならない。
ソーシャルメディアは最近のスマートフォンの普及に伴い、さらに重要度が増している。記事にもあったようにこの発展はたくさんのデメリットを作り出してしまった。例えば、SNSでの関係性はあくまでもネット上のものであり、本来の人と人との直接的なかかわりをつぶしていると思われる。いじめや虐待、孤独死など現代社会の問題も、このような人間関係の希薄さというものが関係しているのではないかと思う。しかしながら、私たちはこのネット社会、情報社会とこれからもうまく共存していかなければならない。デメリットの改善を政府に期待するだけでなく、一人一人が発言に責任を持ち、メディアに依存しすぎない社会にすることが大切だと思う。
私はソーシャル・メディアの普及により以前までは困難だった、自身が情報の発信者になるということが容易になったことで、自身の発信する情報に責任を持たなくてはいけないと考える者が減少していると考えます。自身が情報の発信者であるという事実をしっかりと認識すれば、いかなる場所でも素早く情報を発信かつ受信できるソーシャル・メディアは重宝すべきツールであることは間違いないでしょう。つまり、一人ひとりの意識を変える試み、例えば、学校教育の一環としてソーシャル・メディアの利便性や危険性に目を向ける機会を増やすこと等が必要不可欠だと私は考えます。
最近のSNSの普及は著しく、利用しているのが当たり前というほどになってきた。新たなコミュニケーションの場としても自分に必要な情報を得るツールとしても非常に便利だけれど、安易な発言から思わぬ事態へ発展してしまうこともある。芸能人のブログやtwitterの炎上というニュースをよく耳にする。ネット上での発言は文字として残ってしまうため、反感を買いやすく、一度反感を買ってしまうと発言への訂正がしづらい。発言がしやすい形態や、弱いものを中傷する発言に対して便乗したがる人間の正確が炎上を引き起こすのだと思う。ネット上での発言には、口でする発言よりも特に責任をもつべきだと考える。
今日、ソーシャルメディアが発達したことによって、人々は時間や場所にとらわれずに自分の主張をネット上に掲載することができるようになった。そのことによって、自分の主張や自分の得た情報についてリアルタイムで他者と議論を交わしたり価値観を共有することが可能になり、人々は他者とのつながりを実感しやすくなった。しかし、ネット上での交流は実際に人同士が対面して行われるものではないため、無責任な発言や情報が生まれやすく不毛な言葉の集積地といっても過言ではないだろう。会ったこともない人と「友達」に慣れてしまうソーシャルメディアは現代の希薄な人間関係をさらに薄っぺらいものにしているのかもしれない。
Twitterやmixi、facebookなどのソーシャルネットワークサービスは今では私たちの生活に欠かせないコミュニケーションの手段の一つとなっています。こういったソーシャルネットワークサービスを利用する上で私たちはその特性、特徴を理解しまければならないように私は感じます。誰でも気軽に発言することができるインターネット上で、自分の発言には責任を持たなければなりません。メディアが普及し、ソーシャルネットワークは私たちに浸透しました。それらとうまく付き合っていかなければならないと思いました。
近年のソーシャルメディアの発展は著しい.今では,ソーシャルメディアは人々と密接に関わり合い,必要不可欠なものとなっている.情報発信が進む反面,ネット上での誹謗・中傷、個人情報の流出などの問題が後を絶たない.人はソーシャルメディアの便利さというメリットにばかり目を向けがちだが,デメリットの部分についても個人個人で考えていく必要がある.また,blog,twitterなどのネットワークを利用するのは大いに構わないが,暴言や個人情報の漏洩,または違法行為には十分気をつけなければならないし,また,このソーシャルメディアの構築に関わっている企業には,より便利で安全に利用できるソーシャルメディアを考案していってほしいと思う.
twitterは周りのほとんどの人が利用している。が、私は利用を控えている。そのためtwitterで発信されたことが、話題になっても話についていけず、後悔することも多いが、それ以上に発信に伴う後悔の方が大きいと考える。安易な情報発信によって炎上したということもよく耳にするしtwitter上での喧嘩は見苦しい。しかしtwitterでは、@を使って他の人に返信したり、RTを使って他の人の発言を引用したりできるため、そうしたいと思えば、友だち同士や気(or 話)の合いそうな人と会話を楽しんだり情報交換したりすることができる。自分のページを非公開にして、これと思う人にだけ自分のつぶやきを公開することもできる。そういったメリットも大いにあるためtwitterの利用を前向きに検討したい。
ソーシャルネットワークの利用者は、スマートフォンの普及に伴い、急激に増加してきている。知りたい情報がすぐに手に入る世の中になってきており、そのスピードはより速くなってきている。我々は、それに対応していかなければならない。メディアリテラシーが必要である。それがなければ、情報が回る速度も速いため、混乱も大きくなる。
しかし、それはネットの場だけではない。テレビも同じだと考える。テレビは多くの人が同じものを見るため影響度も大きい。ある政治家を批判したり、自分たちに有利な情報を流したりすることができる。視聴率をとるためやそこにはお金も関わっているかもしれない。
発信者の責任は大きく違うとはいえ、正しい情報か判断しなければならないのは、ネットだけではなく、正しいと思いがちで比較的多くの人が同じ情報をみるテレビにもその必要があると考えます。
SNSにはメリット・デメリットが存在するので、一概にSNSの普及した社会を批判することはできないが、以下はデメリットに注目して批判的な意見を述べるとする。これはメールでも同じことが言えるが、相手の顔を見ながらの直接的なやりとりはできないということが問題。人の表情は、コミュニケーションを取る上で大事な要素になる。表情があれば汲み取れたかもしれない言葉の真意を、文面だけで誤った判断をしてしまってお互いの関係が崩れてしまうかもしれない。のさらにSNSは知らない人ともメッセージを交換できる機能を持ったものも多い。しかし中にはプロフィールなどを偽造して他人に近づこうとする者もいる。このような危険を孕むソーシャルネットワーキングとうまく付き合っていく以上は自己責任を持たなければならないし、また現実のコミュニティでの会話を大切にする必要がある。
私も近年、急速に増加した「face book」や「twitter」などのSNSのユーザーであるので、ここの記事で述べられているようなSNSの利点や欠点は共感できるものが非常に多い。特に誰でも気軽に情報を発信できることから特定の人物(それが有名人であっても友人、知人であっても)に対する誹謗・中傷が増えてしまう。このような行動は、一種のストレスのはけ口になっているのだろうが、誹謗・中傷された人は自らが築き上げてきた社会的立場を脅かされることとなってしまう。このような事態に陥らないためにも自分の発する情報には気を配り、責任をもつことが大事であると思った。
記事にあるように、ソーシャル・メディアの発展に伴い、誰でもどこでも情報を発信できます。しかし、誰でも容易に情報を発信できるので、それに慣れ切ってしまい、人と人とが面と向かって話す機会を減らしているように思われます。例えば、飲食店の評価をするサイトで店主に直接言えばいいのに、ネット上で不満を上げたりしている人もいます。ネット上での関係は現実と異なるけれど、情報発信の重要性を軽視しないように心掛ける必要があると思います。
ソーシャルメディアの中でも若い世代に特に関わりの深いものは、ツイッターやフェイスブックなどといったSNSである。これらの特徴は何と言っても自分の発言が全世界の不特定多数の人に発信されてしまうということだ。メリットとしては、身近な友人・知人はもちろんとして、つながりの薄い人や全く知らない人とも交流できるということである。しかし、このメリットは時としてデメリットともなりうる。一度自分がした発言は、それが誤った情報や個人情報であったとしても何人もの人に見られてしまうのだ。その情報が次第に拡散され、最終的に大きな問題となってしまったというケースも存在する。また、最近では犯罪を堂々と発言する者が多くいることも話題となっている。これらのことを踏まえるとSNSを利用している人々は、情報を受けているだけでなく、自らも情報を発信しているのだということを自覚しなければならない。
今日、ソーシャルメディアの発達により誰もがインターネット上で自分の主張を論じたり、情報を掲示することが可能になったため、人々は直接対峙をしていなくても他者とのつながりを感じられるようになった。このことは、一見良いことに見えるが、ソーシャルメディア上にある言説には、論理性や根拠が欠けた不毛なものが多々存在しているため、利用者は洗練された倫理観や頭に蓄積された知識を総動員して慎重に言説を読み取っていく必要があるであろう。
私は今までブログやツイッターなどのSNSを一切利用してきませんでしたが、最近になってフェイスブックを始めました。私がフェイスブックを利用することを通じて感じたことは、情報をすぐに共有できる便利さがある一方で、1歩間違えればすごく危険なものになるとも感じました。私がそのように感じたのは、このブログでも述べられているように情報を誰でもどこでも発信でき、安易に迅速にアップできるということは、間違った情報でさえも時には流れてしまう恐れがあると感じたからであります。SNSの利用者は自分の発言に強い責任を持つということが必要であると私は思いました。
自分もTwitterやmixiを含むSNSサイトを利用しています。ただ、情報を外に出した途端に異様なまでに加速して広がり、正確さも伴わないまま自分の目の届かないところまで広がっていってしまうので、投稿や情報の取り扱いには細心の注意を払っています。自分は高校野球をやっていましたが、やはりSNSの利用は禁止されていました。理由は簡単で、そういう意識がなくても他チームを中傷する発言だと捉えられてしまい、その投稿が原因となり、大会に出場停止などに追い込まれてしまう例が少なくなかったからです。また、匿名性が高く発言に責任を持たないで投稿するような輩も存在するので、そこは先生のブログに記載の通り、しっかりと責任を持つべきだと思います。誰が見ているかわからないネットではなおさらだと思います。気軽に発信源になれるけど、気軽に投稿してはいけないのがネット社会だと自分は考えます。
近年のソーシャルメディアは、スマートフォンの普及やその機能の発達により、著しく使われている。また、利用者の増加に伴い情報がSNS上に溢れ、現代社会においてなくてはならない存在である。一方で、メディアが扱う情報がSNS上に拡散されることでそれは双方ではなく一方的な情報の発信となり、情報源が明確ではなくなる。よって発信された情報が誤っていたり、どこかで変わってしまったとしてもそれが正しいかどうか見極めるのは非常に困難になる。多くの利用者がいることで、自分もそのSNS社会に加わらなければ情報を得ることがむずかしく感じるかもしれないが、そこで拡散される情報が常正しいとは限らないので、注意して使用するべきである。また、現代社会だからこそ、SNSの利用が全てとは考えてはいけないと感じる。
近年、急速に普及してきたソーシャルメディアですが、その特徴から情報発信能力が高く、瞬く間にユーザーの間に情報が行き渡り、広告能力が高いことや、ビジネス面においてもソーシャルメディアを通じて企業とユーザーのコミュニケーションが用意になり、ユーザーのニーズや意見を円滑に交換することなどができます。しかしその反面、有名人のブログやツイッターのアカウントが問題発言によってすぐ炎上してしまったり、真実でない情報が広まってしまったり、個人情報が流出してしまうといった面も併せ持っていると思います。多くの情報を集約して巨大化するソーシャルメディアを利用する私達に必要なのは、情報管理に十分気をつけて、自分が発信する際には、社会的責任を負っていることを自覚しなければならないと思います。
TwitterやFacebookなどのソーシャルネットワークサービスの利用の経験から感じたことは、まず伝達の早さである。Twitterにはリツイートという機能があり、これは、広めたいと思うつぶやきをワンタッチで自分のフォロワーに伝えることができるものだ。これにより、より多くの人により早く情報を伝えることができる。
次に、自分で簡単に情報を操れてしまうという恐ろしさである。先述したように流した情報は多数の人にリアルタイムで広まってしまう。
便利だが、多くの危険性を持つソーシャルネットワークサービスを利用する場合は、決して間違った方法で使用せずに、根拠のある情報をもって利用すべきだ。
ソーシャルメディアという誰でも簡単に見ることができ、書き込むことができるといこの媒体について考える時、思い出すことがあります。以前NHKで話題になった無縁社会というドキュメンタリーの番組。この言葉は一時期すごく反響をよびました。この番組が書籍化されたものを私はよみました。その中に、ネット縁という言葉を見つけたのです。人間関係が希薄になり、その波は人であふれる都会のど真ん中に住む若者にも及んでいます。日々の生活の中に会社や様々な役割りがあるにも関わらず、だんだんと孤立していく若者。彼らにとっての唯一の縁と言えるのが、ブログやsnsをはじめとするスーシャルメディアなのです。顔を合わしたことのない、知らない誰かに本音を零す若者の抱える孤立はとてもリアルなものでした。メディアを利用する際のリテラシーの問題ももちろん重大です。しかし、その反面、マナーをあえて無視し、誹謗中傷を行う若者も多いのも事実。ソーシャルメディアでしか本音が言えない若者がいることも事実です。
孤立化する社会の中で誰がネットに住む彼らに寄り添うことができるのでしょうか。匿名だからこそ近づけないことが、またもどかしくもあります。
このような社会にすむ一人の人間として自分自身もどう居場所を作り上げていくのか考えさせられた話でしたので、ここで一つ違う視点からコメントさせて頂きました。
近年、twitterやfacebookといったSNSはもはや利用していない人のほうが少ないくらいに世の中に浸透してきている。誰でも簡単に情報を発信、享受できるこのサービスは一見便利そうに見えるが、発信者が一般人という点から、個々人が書籍などの情報媒体に対する以上にメディアリテラシーをしっかり持っていなくてはならないし、それ以上に自分が発信者になりうるのだから不用意な発言には気をつけなくてはならない。SNSを利用する際は発信者、受信者双方に責任がなければならないのである。SNSはもちろんうまく使えば手軽で非常に有効なツールだと思うので、使う側はそういった危険を頭に置きつつ、自分の生活を豊かにするためにSNSを利用するべきであると考える。
インターネットでは、情報を発信する側が「情報を発信している」という自覚が薄いと思います。私はインターネットによる情報を受け取る側としてはあらゆる方向性からその信憑性を考えますが、一方でSNSなどを利用する際には、自らが情報を発信している側だという自覚はあまり持たずにいました。近年急速に発展してきたSNSはすでに私たちにとってなくてはならないものになりつつありますが、その利便性の裏にある危険性について、もう一度各々がよく考えるべきだと思います。
インターネットは、もはや殆どの人に普及しており、毎日触れる人も多いのではないかと思う。しかしそんな中で、正しく利用できている人は自分も含めて少ないことに気づかされる。例えば、残念ながらネット上に多く出回っている嘘の情報を見抜けず、それを正しい情報として更に拡散してしまうなどだ。もちろんこれはそのような虚偽の情報を載せる方が悪いのだが、読み手側のメディアリテラシーも問われる。ネットが多く普及し、様々な情報が飛び交うこのような環境になってしまった以上、その情報を受け取る側もしっかりと判断をしていかなければならないと思う。
ツイッターを例に出しますと、誰にも言えない・直接言えない不満や要望を呟きというかたちで公開することで、特定の個人に直接伝えていないから「いや、あれは君のことじゃないから」という言い逃れもできるし、誰かの目に触れるだろうという満足感も得られます。私はその卑怯な仕組みを利用する人を嫌悪しておりますが、そんな自分もまた同じことをやっていることがあり、矛盾に苦しんでいます。メディアリテラシーの問題ではないのか、単に自分が人間として未熟なだけなのでしょうか…。
確かに、ソーシャルネットワークの発達によって、自分の情報を発信したり、世界中の様々な情報を入手することが容易にできるようになりました。僕自身もFacebookなどを利用していますが、地元の友人の様子を知ることができたり非常に便利だと思います。しかしそれによって、人と人との会って話をするコミュニケーションが失われてしまわないか不安です。ネット上ではその人間の本心までは見えません。ソーシャルメディアを欠かせないものとして、生活に有効に活用し、コミュニケーションの本質も忘れずに利用していくことが大切だと思います。
ソーシャルメディアといえば、TwitterやFacebookを思い浮かべる人が多いと思います。近年そのような所謂「SNS」といわれるコミュニケーションツールが若者だけではなく、企業や団体で使用されることが多々見られますが、このSNSにはメリットもあればデメリットも多く存在すると思います。メリットとしては、一度に多くの情報を送受信できること、画像・動画などの媒体によって活字と比較し、短時間かつ質の良い情報が手に入ることなどがあげられます。しかし、個人情報の流失や誤情報の拡散、また匿名であるがゆえの誹謗中傷等、今まででは想定できない問題が起こっているのも事実です。そのようなデメリットを把握し注意を払うことが、生活するうえで重要なことになってくるのではないかと考えます。
ソーシャルネットワークの普及によって私たちは情報を発信したり受け取ったりすることが容易になり、コミュニケーションの取り方が豊かになった様に感じます。でもその容易さは危うさを孕んでいるものだとも思います。ブログで上げているように、大して熟慮することなく発信される意見、正確さを確かめることもなく発表される情報など、これらは簡単に情報発信することが可能であるからこそ生み出される問題だと思います。またネットが持つ匿名性から人は自分の発言に対して責任を負う必要を感じにくくなり好き勝手なこと、例えば他者への誹謗中傷などを行ってしまうこともあります。情報の受け手側のメディアリテラシーも重要ではあると思いますが、やはり一番重きを置かなくてはならないのは送り手のモラルだと思います。
誰もが簡単に情報を発信できる世の中だからこそ自分の発信する内容に対して責任をしっかり持つべきだと私は思います。
私たちはメディアなしでは生活することができないくらい、メディアに頼った生活を送っています。私自身、TwitterやFacebook、mixiなど様々な媒体を通して、情報を発信したり、受信したりしています。その際、様々な情報を鵜呑みにしてしまうことが多々あります。Twitterで芸能人の誰々が結婚などというツイートがあったものならば、なんの疑いもなく信じてしまうと思います。このように私たちは、メディアに頼り、信じすぎているという現状にあります。誤った情報は人を混乱させることがあります。それを防ぐためにも、私たちは情報を取捨選択していかなければならないと思います。
スマートフォンの普及率は2012年末には5割にまで上昇(スマホ世帯普及率5割に拡大 12年末時点/J-CASTニュースhttp://www.j-cast.com/2013/06/17177403.html)し、SNSと呼ばれるサービスは自分たちの生活に密接に関わるものとなった。それに比例してSNS 上では様々な問題が起きている。最近ではTwitter上に看護学生が患者の臓器の画像をのせ問題となった(看護学生が患者の臓器を撮影してTwitterに投稿 「倫理観を著しく欠く」と学校が謝罪http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1307/01/news113.html)。インターネットやメディアを正しく利用できるように学校ではインターネットやメディアに関する授業をより重点的に行なっていくべきだと感じた。
情報が豊富の現代社会では外出しなくでも、ネットを通じて世界情勢を知ることができます。しかし、安易な情報発信によって豊富を通り越した現在、情報の真実を判断することが難しくなりました。一つの出来事は伝え方によって逆効果を生み出し可能性があります。また、気軽に投稿した文書や写真が他の人の権利侵害になる恐れもあります。ソーシャル・メディアを利用する時、情報の受け手側として情報に流されずために、冷静で正確な判断力が求められる一方、情報源であることを念頭に置き慎重に発信することも大切と思います。
今日ではほとんどの人がスマートフォンやパソコンを持ち、多くの情報を気軽に閲覧、投稿できるようになってきている。実際に私もTwitterなどの情報媒体を利用しており、日常的にその恩恵を受けていると同時に、誤った情報や不適切な内容の危険性を身近に感じることも多々ある。そのため、情報リテラシーを身につけるとともに、自分が発信する情報に責任を持つ必要があると思う。
ソーシャルメディアは近年ものすごい速さで発展している。先日の参議院選挙でもついに"ネット選挙"が解禁された。手軽に情報を入手できる点では、ソーシャルメディアの利用は良いことだと思う。しかしこのブログでおっしゃる通り、匿名で安易に誹謗中傷ができることや、誤った情報の氾濫など課題は多く残る。この状況でのネット選挙解禁はいささか早すぎるのではないだろうか。また、広島ではSNSアプリによるモメ事で16歳の少女が殺されるという悲惨な事件が起きた。全世界にソーシャルメディアが普及している今、改めて社会全体でソーシャルメディアとの関わりを見直すべきだと思う。
ソーシャルメディアは記事にも書かれている通り、様々なメリット、デメリットがありますが、それ以前に今の現状を見てみると普及率にメディア・リテラシーの教育が追い付いていないように感じます。このようなサービスの移り変わりは激しく今後も様々なサービスが生まれは消えていくと思われます。こういったメディアの特徴を批判する前に適切なメディアリテラシー教育を行うことができなければ、ただ同じことを繰り返していくだけになってしまうのではと思います。
近年私たちの生活と密接にかかわっており、今では無くてはならないほどに身近なものになってしまったソーシャルメディアですが、記事にあるように、その問題性について日々考えさせられる点がとても多いなと、私も思います。誰でも容易に匿名で書き込むことが出来ることで、書き込む内容も、悪口などを書き込んでも、罪の意識が薄くなるという風に感じられます。また、恐ろしいことに、一度ネット上に上がったものが、オフラインに戻る可能性は、ほぼ0に等しいということを聞きました。ワンクリックで自分の考えを世界に発信できるようになった代わりに、様々な問題も浮かび上がっているソーシャルメディアと、うまく付き合っていくことが、今現在求められる能力なのではないかと私は思いました。
私は一度SNSで知り合った方と1度お会いしたことがありました。会った皆さんはとてもよい方で、同じ趣味を共有する仲間に巡り合えたことにとても感謝しています。ですが、ふともしこれをきっかけに深刻な事態にまきこまれてしまっていたらとも思いました。SNSは文字だけのコミュニケーションゆえに本心を隠そうとすればいくらでも隠すことができます。あまり疑い深くなるのはよくないですが、使用の際には十分気を付けて使うべきだと思いました。
ソーシャルネットワークでは誰もが簡単に自分の考えを発信することができる。しかし、その情報はよく練られたものではなく、そのときの感情に任せたものになってしまう可能性がある。その結果、誰かを傷つける、デマを拡散してしまうなどの悪い一面が見えてしまうのだと思う。私たちは何かを発信するときには今一度間を置いて、その情報は誰かを傷つけないのか、デマではないのかをしっかりと考える必要があると思う。
TwitterやFacebookなどのSNSは私も利用しています。私のまわりには日常の出来事やその時々で感じたことなどを呟く人ばかりで「書き手の個人性を前面に出す」利用方法をとっていると思います。先日、Facebookで、私がよくチェックしているプロの指揮者の先生が、「書き手の個人性を前面に出す」のに加え、読む人々に説法をするかのような記事を書いていらっしゃいました。プロの方で、有名だと思うので、たくさんの人がその記事を読んだでしょう。記事の内容は、ある人々には好印象、そしてまたある人々にはあまりよくない印象を与えるもので、私は後者でした。SNSでは有名な人ほど、発言に強い影響力がともなうと思います。先生も介護の世界で有名な方だと思うので、その道にいる人はもちろん、今勉強している人や、私のような学生、または偶然このブログにたどり着いた人など、たくさんの人に情報を伝え、少なからず影響を与えることができると考えます。自分の意見を多くの人に知ってもらうのはよいことでもありますが、同時に自分の発言、一字一句に責任を持たねばならなりません。SNSの扱いにはもっと慎重にならねばならないと、考えさせられました。
これは2013年の1月の記事ですが、2013年はソーシャル・メディアの中でもとりわけ、ソーシャル・ネットワーク・サービス、いわゆるSNSが発端となった事件が何度も発生し、問題視されました。このような事件を再び多発させないよう、SNSを利用する以上は、自分は広い世界への情報の送り手であり、仲間内だけでの悪ふざけであっても大通りのど真ん中でやっているのと同じことであるという認識を、する・させるということが、今後は強く求められていくと思います。
SNSは非常に身近で便利なものです。私もtwitterやLINEを利用しています。しかしその便利さゆえに様々な問題を伴うと感じます。特に感じるのは、ネット上の関係と現実の人間関係を混合しすぎだということです。私はSNS上のコミュニケーションと現実のコミュニケーションは違うものであり、その価値もまったく異なると考えています。現代では現実での友人とSNSでつながっていることが多いですが、現実での会話をSNSでの会話で代替することはできないと思います。私は、twitterは“情報収集ツール”であり、LINEは“情報連絡ツール”であると考え、決して“コミュニケーションツール”ではない、と考えて利用するように心がけています。
TwitterやFacebookなどのソーシャルメディアはすでに一般に広く普及している。どんな人でも手軽に情報の発信ができるようになったのはいいことであり、悪いことでもあるだろう。例えば、相手企業の評判を下げたり、自分の企業の製品を暗に宣伝したりと、利益追求に利用されることもある。また、情報の発信が手軽すぎて、機密情報をいとも簡単に流出してしまうことも起こりうる。これからの私たち求められるのは、情報発信の責任と取捨選択の能力を、今まで以上に持つことであろう。
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