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宗澤忠雄の「福祉の世界に夢うつつ」

支援者に懲戒権はありません

 この間、障害者虐待防止法の施行をめぐり、「厳しい指導の必要な利用者もいるのに、これからは虐待通報されてしまうことが心配だ」という声が、一部の障害領域の支援関係者からちらほら聞かれました。私は当初、このような感想の主旨を全く理解できなかったのですが、虐待防止法の施行直後の時節とあらば、決して聞き捨てておくべきではないと改めて思い直すことにしました。

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 「適切な支援」と「虐待」には、私にとって(多くの人にとってもそうだと思いますが)明白な境界線があります。学校の先生の中に「毅然とした指導」と「体罰」の区別のつかない方がいるとすれば、それは教師として失格だというだけです。もちろん、個々の場面によって、独りよがりな感情に支配され境界線が不鮮明になることはあるとしても、教師の専門性としてこれらが明確に区別され理解されていることは、教職に携わるものの基礎的な資質であり前提条件です。

 そこで、首をひねりたくなるような疑問が浮上します。このような感想を抱く福祉領域の支援者は「厳しい指導」と「虐待」の区別が分かっていないのかと。適切な支援には「見立て」(支援仮説とそれにもとづく個別支援計画)が必ずあるのに対し、虐待行為にはそのようなものはありません。もし、これら両者間の境界領域で問題になるものがあるとすれば、「不適切なケア」と呼ばれるグレーゾーンのことでしょう。

 不適切なケアを克服するには、支援のプロセスと結果の事実から不断に「見立て」を修正する以外に手立てはありません。したがって、不適切なケアの慢性化する事態があるとすれば、個別支援計画の見直しが形骸化しており、不適切なケアを放置する障害者支援事業所の組織的な問題があるということになります(この点は、『障害者虐待―その理解と防止のために』(中央法規出版)に詳述しています)。

 しかし、どうも「厳しい指導ができなくなる」という発言者のイメージは私の理路とすれ違っているような気がします。「厳しい指導」という用語に対してから、そもそもの著しい違和感を覚えてしまいます。ひょっとしたら、このような感想を抱く支援者は、親権者や教師の行使できる懲戒行為を自ら(とその支援組織)の「支援イメージ」の中に含みこんできたのではないでしょうか? 私は「そんなあまりにも基本的な誤解はないだろう!」と叫んで、一蹴したい気持ちに駆られるのですが、どうもここを論点にする以外、この発言を受けとめることはできないような気がします(ただし、私は「受容」≠「許容」です)。

 ここはまず、明言させていただきます。福祉領域の支援者には懲戒権は一切ありません。例外的に認められるとすれば、雇用関係の存在する就労継続支援Aの事業所において、労働者が企業運営の円滑な遂行にかかわる職場秩序を乱した場合に課すことのできる秩序罰としての懲戒だけでしょう。

 懲戒とは、「特定の身分関係・監督関係における規律維持のために、一定の義務違反に対して人的な制裁を科す制度」のことです(金子宏他編『法律学小辞典』(第4版補訂版、有斐閣、2008年)と日立デジタル平凡社編『世界大百科事典』を参考にしました)。制度的に定められたものとしては、公務員の懲戒、労働者に対する懲戒、公証人等の懲戒、行政・保護処分による懲戒、そして親権者と教師による懲戒があります。これらのいずれにも、雇用関係のある就労継続支援Aを除き、福祉領域の支援に該当するものはありません。

 親権者の身上監護権に組み込まれた懲戒権は、子ども虐待を正当化するものとして長年批判されてきました。昨年の民法改正では、あくまでも子どもの成長・発達の権利に資する限りにおいて認められる規定に厳格化されはしましたが、その改正に関わる審議会でさえ、多数意見は「懲戒権の廃止」でした。

 教師の懲戒行為については、文部科学省の通知が考え方を明らかにしています(「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について」18文科初第1019号平成19年2月(別紙)「学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰に関する考え方」)

 この通知の「別紙」によると、
 「1.体罰はいかなる場合においても行ってはならない。教員の懲戒行為が体罰に当たるかは、児童生徒の年齢、健康、心身の発達状況、当該行為の行われた場所及び時間的環境、懲戒の態様等の諸条件を総合的に考え、個々の事案ごとに判断する。

 2.身体に対する侵害を内容とする懲戒(殴る、ける等)、肉体的苦痛を与えるような懲戒(正座・直立等特定の姿勢を長時間にわたって保持させる等)は、体罰に該当する。」
 とあり、その他、学校教育における教師の懲戒行為と体罰に関する考え方を詳しく説明しています。

 ここで確認すべきことは、次のような点です。
 一つは、教師の懲戒と体罰についての考え方を明らかにしなければならないところに、この境界がときとして不鮮明となる事態があるということです。
 二つ目は、だからといって、多くの先生方が「指導」・「懲戒」・「体罰」の境界線を理解していないのではないということです。一部の教師が時代錯誤の体罰をしてしまう「事件」もありますが、ほとんどの先生方にとって「厳しい指導」と「体罰」とは明確に区別されています。児童生徒に対する「指導仮説」が明確であれば「体罰」に至ることはない点は明確に理解されています。もし、教師の側が「頭に血が上りそう」で懲戒行為が体罰に発展しかねない状況である場合には、ほとんどの学校で問題児童に対する教師単独での指導を禁止し、複数教員で相互チェックしながら指導にあたる形を取り入れています。

 それではなぜ、懲戒権をもたない福祉の支援者が「厳しい指導」をイメージしているのでしょうか。この要因は、二つあるでしょう。

 その一つは、知的障害のある人にかかわる支援領域を中心に、「支援者―利用者」関係が、親子関係や「教師―児童生徒」関係のように誤ってイメージされている問題です。知的障害のある人たちが成人式を迎えれば、対等・平等な人権主体間の関係性とルールが福祉領域の支援関係にも貫かれなければなりません。ここには、身分関係や監督関係の枠組の中で秩序罰を課す懲戒行為は認められていないのです。

 他害行為に走る利用者がいる場合は、他の利用者のサービス利用の権利を守るために一時的に空間的に分離するか、他害行為を克服するための支援を組み立てる義務が支援者にあるだけで、支援者に他害行為をする人への懲戒を行うことは違法です。また、このような懲戒行為は、支援として有効に働くことはありません。一時的に効果があるように見えても、長期的には副作用が必ずあって弊害が多く、例えば、数年後に問題行動の拡大がとまらないような事態を迎えることもしばしばです。この段階になると、ますます力で抑え込む「支援」が常態化し、えんえんとこのような支援が正当化されていきます。

 もう一つは、知的障害のある成年を「子ども扱い」して一人前に捉えないことに由来して、支援者のもつ力の優位性をベースに障害のある人に対する支援を考えてしまう問題です。家庭でも支援サービスの中でも子ども期の延長線上に置かれやすい社会文化的な背景は、障害者虐待防止法による文化的刷新が求められるところの一つです。力の優位性にもとづく支援は、それ自体が人権侵害行為というべきでしょう。

 このような私の指摘を受けてなお、「でも現場では厳しい指導の必要な場面はあるのだ」と強弁する支援者がおられるとすれば、その方は単純に不勉強で「支援スキルが未熟」なだけだと念押ししておきます。利用者の行動の変容が支援として必要不可欠と考えるならば、契約と同意にもとづく個別支援計画によって、正々堂々と「行動療法」を実施すればよろしい。懲戒的なイメージを支援に含ませる必要性は一切ありません。

 なお、「いやがらせ」や「言葉による激しい叱責」等の繰り返し等の心理的虐待についても、それが何らかの精神症状や精神的外傷の発生に結びついた場合には、これまでの判例で「傷害罪」が適用されている事実を指摘しておきたいと思います。


コメント


私には脳性麻痺の姉がいます。宗沢先生の講演で障害のある子を兄弟に持つ人たちの母親からの位置づけの話を聞いて、母が姉にかかりっきりで悩みなどを私に話すのは普段仕事が大変な父親の代わりとなっていたのだと知りました。愛情はもらってきたつもりだったのですが、よくよく考えてみると小さい頃は母が姉にかかりっきりで、姉がいなければ…。と思うこともよくあった気がします。今ではきちんと姉の障害を受け止め、理解できるような年齢になり、将来、母が面倒をみられなくなった時に支援するのは私の役目だと思うようになりました。しかし、家族内虐待の実態調査結果で、障害のある人の年齢が上がるにつれて、行為者が母から兄弟や父親へと変化していて、これを見て私は自分が本当に姉を支援できるだけの力があるのかととても不安になりました。実際、言うことを聞かない時は少しくらい叩いても大丈夫と思っていたのが本音です。しかし、この考えは懲戒行為を支援イメージの中に含みこんだ恐ろしい考えだったことが分かりました。姉を対等に扱わず、子ども扱いしている自分がいたことを恥ずかしく感じます。力で抑え込む「支援」ではなく、対等に姉の気持ちを考えた「支援」を目指していきたいと思いました。先生の講演を聞けてとてもよかったです。ありがとうございました。


投稿者: uemura | 2012年11月28日 00:18

先日、11月6日の北九州市立大学で特別講義を受けた者です。特別講義では、貴重なお話をしていただきありがとうございました。
虐待発生の土壌について専門的なお話を交えながら聞けて、大変貴重な経験になりました。
自分自身、わかりやすい部分や、少し難しい部分もありましたが、、、
宗澤先生の話で「一所懸命の愛情」が子供に「劣等感」をもたらす、という部分は特に自分の経験上から理解しやすかったです。
講義の内容とはもしかしたら少し路線がずれているかもしれませんが、私が実際に親に、
「私たちがこんなに期待しているのだから、頑張ってくれるよね??」
と、高校時代まで耳が痛くなるほど言われていました。
さらに、自分がいい評価を得た時には、“それで当たり前”のように言われ、もしよくない結果を得たときには、その時は“悪い子ね”のようなことを言われていました。
今でこそ私がそういうことを言うのをやめてほしいと訴えたためなくなり、それが愛情の裏返しだったのか、と考えることができますが、当時はとても劣等感にとらわれていました。
これからは、自分の経験と今回の特別講義の内容を上手く活用してより立派な大人になっていきたいです。


投稿者: show0623 | 2012年11月28日 22:54

障害のある人とそのご家族の様々な困難を包括的に支援できる社会的手立てが十分でないから、uemuraさんのような苦悩を抱え込まされているのだと考えます。ご家族の責任は一切ありません。障害のある人が人権主体であると同時に、ご家族の皆さんもディーセント・ライフを享受するにふさわしい人権主体ですから。同じような悩みを抱える人はさぞや多いと思います。虐待防止を乗り越えて、みんなのディーセント・ライフを築くことができるように、ともに力と知恵を出し合いましょう。


投稿者: 宗澤忠雄 | 2012年11月29日 01:21

 障害を持つ方々が利用される施設では、未だに利用者さんが職員を先生と呼び、利用している人とサービスを提供している職員の間には上下関係が存在し、親子の関係にも同様の様子が日常化され悲しい現実があるようです。虐待には、身体的、心理的、経済的虐待などさまざまな虐待がありますが、特に心理的虐待と経済的虐待は、本人が苦痛を訴えることが出来ないこと、理解できないことで発覚しないことが多く、障害者虐待防止法が制定された現在でも無になることはないのではないでしょうか?
 また、心理的虐待は障害者に限ったことではなく、立場の弱い人に対して日常的に行われているから、排除しようと力でねじ伏せようとするから、その反動として世の中では不思議な事件が増えているのではないでしょうか?
 来年には、障害者差別禁止法も制定されるようですが、法律だけではなく、ハード面を整える事と同時に、ドア一枚閉めれば隣は何をする人?ではなく、誰もがありのままの自分で、生きている充実感を味わうことが出来る豊かな社会になっていくことを願ってやみません。自分も含めて、一人ひとりが、もう少し人を思いやる優しい気持ちを持てたらと思います。


投稿者: mosu | 2012年12月05日 12:42

 生涯の有無にかかわらず、誰かを支えるというのは、とても難しいことだと思います。人は機械ではないので、体調の優れないときもあれば、精神的にイライラして落ち着かないときもあります。それは、どんなに優れた人であっても、また、どんなにその人を支えていく決意をした人であっても、同じだと思います。自分だけの問題であれば、今日は面倒だから、と後回しにすることも、途中で諦めてしまうこともできますが、相手がいる場合には、簡単にそうするわけにはにはいきません。特に、それが障害者に対してであれば、ちょっと待っててね、ということすら許されない場合というのもあると思います。
 虐待について、初めから、虐待してやろうと思って虐待する人はいないと思います。自分の子どもに障害がある、兄弟姉妹が障害者である、施設の職員として日々障害者に接する、など、立場は多様ですが、それぞれに不安や不満があるのではないでしょうか。どんなに頭ではいけないと理解していても、自分の思い通りにならないとき、報われないと思ったとき、口調が厳しくなることや思わず手をあげてしまうこと、意地悪くなることがあると思います。周囲の人々はそれが虐待であるかないかを判断し、ただ批判するのではなく、それぞれの置かれた立場を理解し、虐待へとつながる原因を払拭することに努める必要があると思います。


投稿者: kuma | 2012年12月06日 19:58

先日は北九州市立大学での貴重な講義をありがとうございました。宗澤先生の講義の中で特に印象に残ったことは、知的障害者は成人しても知能がそれに達していないために「子ども期の親子関係の延長であること」です。知的障害者は他の障害者に比べ、自己判断や自己理解が難しいため、支援者が関与する場面がどうしても多くなると思います。そのため、「支援者-利用者」のような誤ったイメージにされるように感じます。知的障害者であっても成人すれば対等な関係になるべきです。知的に障害があるからという理由で支援者が優位な立場にあるわけではありません。実際に、支援者や知的障害者に関わる中で、障害者福祉の厳しい現状や支援者が過剰にストレスを感じるのではないかと感じることもあります。しかし、「指導」と「虐待」の違いは明白です。知的障害者であっても、個々の理解しやすい方法で説明をすれば、ある程度は理解できるのではないでしょうか。そこに、精神的・身体的に暴力を加えることは決してあってはならないことであり、それらは支援者のエゴだと思います。
障害者虐待防止法が施行されましたが、支援者だけでなく、多くの人々の障害者に対する正しい理解が進み、障害者福祉の現状がより良いものに変わっていってほしいです。


投稿者: わんこ | 2012年12月09日 16:14

福祉領域の支援者や教師,親権者においても,懲戒権の濫用というものは許されてはならない.未だに親権者の中には,いきすぎた懲戒として虐待を行ってしまう者がいるが,本来ならば親権者における懲戒権はあくまでしつけの範囲内で行使できる権利であることを忘れてはならず,このように虐待を正当化する材料として使われてしまうようであれば,懲戒権というものを廃止せざるを得なくなってしまうだろう.


投稿者: kzkc | 2012年12月30日 11:16

知的障害のある人たちも成人になれば大人だから支援者と対等でなければならない。そしてそれができずに知的障害のある成人を「子ども扱い」して支援者のもつ力の優位性をベースに障害のある人に対する支援を行ってしまう問題があるという現状を知り、はっとしました。知的障害のある人に対する扱いに対しては、言われてみればその通りです。しかし、仮に私が福祉領域の支援者だったとしたら、知的障害のある人たちを支援する際、相手は自分と同じ成人だという認識がすっぽり抜け落ちて、知的障害のある成人を「子ども扱い」してしまっていたかもしれません。
このブログの冒頭の「一部の障害領域の支援関係者」が、「支援者―利用者」関係を、親子関係や「教師―児童生徒」関係のように誤ってイメージしてしまっている問題は、私と同じように、知的障害のある成年と支援者は対等であるという認識の不足が原因であると思いました。はじめから勉強不足な人もいれば、福祉領域の支援を続けているうちに忘れてしまった人もいるかもしれません。もしそうであるならば、その勉強不足の支援者がきちんと福祉領域の支援の在り方を学び直すことで、「不適切なケア」及び「虐待」を防ぐことにつながると思います。


投稿者: たけのこ | 2013年01月10日 00:29

私が実践した障害者に向け支援活動は学校の介護体験のみでした。ただ一週間で福祉の専門領域を全面的に理解できないが、福祉施設の職員たちの優しい姿がどうしても「虐待」という言葉に関わらない。しかも、虐待通報される可能性がある指導はどこまで厳しいだろうと想像できない。もともと障害者が社会の中で弱い人たちであり、虐待られるなんかかわいそうじゃないか。また、先生が言った通り支援者としてその境界線をはっきり持っている本気に助かりたい気持ちで働きすべきだと思います。


投稿者: orange0507 | 2013年01月17日 23:39

この記事を読んではっとさせられた。自分が持つ障害者支援のイメージがまさに「親子関係」や「子ども扱い」を含むものだった。これらのイメージはどちらも支援者の優位性をベースにしている。このイメージが普遍的なものだとは思わないが、私と同じようなイメージを抱いている人は案外多くいるのではないか。指導と虐待の違いを明白にするためには、こうした誤ったイメージを払拭し、支援者と障害者は対等であるという事を多くの人が学んでいかなければならないだろう。


投稿者: jxjx | 2013年01月19日 15:28

私たちは、障害者は弱いものであり、劣っている面があるという考えを持ちがちである。たしかに、人の助けが必要である人もいるが、同じ人間であり、人権を持っている。そのように考えることは大きな偏見なのである。虐待防止法はこのような当たり前であるはずのことを忘れている人がいるために施行しなければいけなくなったのではないかと思う。
支援や教育の現場では、間違ったことに対する指導は必ず必要である。それを虐待にしないためにはこの記事にもあったように虐待と指導との境界を明確にするひつようがある。それは、当事者の感じ方、受け取り方を中心に置いて考えるいうことを念頭に置かなくてはいけない。相手のことを思う気持ちがあれば防げるはずの間違った行動がなくなり、ノーマライゼーションが実現されればと思う。


投稿者: ふじさん | 2013年01月20日 17:10

ひとりの人間として敬意を持って接するということが大事であると感じた。2年時の介護等体験で特別支援学校でも、デイサービスセンターでも言われたことだが、一番大切であると感じている。デイサービスセンターでは、職員の方を先生とは呼んでいなかったが、実際の行動や関わり方は、まるで先生と生徒のようだった。そのようにイメージされるということは誤っているという知識が無ければ、そうイメージしかねないと思う。大切なのは、支援者自身が、対等な人間として接することを意識することである。そして、懲戒を用いなくとも支援できる力量を得ることであると考える。


投稿者: 天然芝 | 2013年01月22日 11:55

言うことをきかなかったり、暴れたりしてしまうことも、当然自分の意思表示をしているのだと思いますが、思わずイラッとしてしまい手をあげてしまうことはあることでしょう。もし、自分がその親の立場だったなら、ストレスが溜まったり、躾けをしているのだ虐待ではないと自分自身が思い込み、手をあげてしまうかもしれません。親への負担や悩みを解決し、オープンにするためにも、第三者の介入はすごく大事なことだと思いました。


投稿者: natsumikan | 2013年01月22日 23:25

今大阪市立桜宮高校バスケットボール部員の自殺で体罰が問題になっていますが、そもそも人間に懲戒というものがなぜ必要なのかという理由を私なりに分析してみました。単純明快に懲戒を考えてみて、ルールを守れないなら、ある程度の痛みをもって(痛みというのは何も身体的なものだけではない)反省させ、再発防止をもくろむという風に捉えてみました。福祉介護は一方的な施しだと理解すれば、確かに福祉において懲戒などは存在しえないとわかります。教育に話を変えると、全くルールを守れない子どもに対して、懲戒は必要なのかもしれません、しかしそれは支配ではなく教育という明確な目的に従ったものでなくてはいけないし、ルールを守らせるために自分がルールを守れていなかったら、教育ではないと思います。そもそも痛みを他人に与えるというのは生半可な覚悟ではできないということです。教育においてでさえ、教師と生徒は無慈悲な支配関係は成り立ってはいけないのに、上下関係は福祉では成立しないもので、懲戒は有り得ないです。他人との関係を明確にし、自分の立場を見極める心が何においても大切なことではないかと思いました。


投稿者: 裏キャプテン | 2013年01月24日 12:24

私は、小学校からずっと野球をしてきたこともあり、虐待についての講義を受けるまでは、体罰といった多少厳しい指導も時には必要ではないのかとさえ考えていました。しかし、適切な支援・指導と虐待との違いは「見立て」があるかどうかということを学び、虐待や体罰は支援・指導とはかけ離れたものだと理解することができました。また、こういった考えは、力の優位性をもとに支援を行うという間違った支援の形を容認しかねない考えであると知り、改めなければならないと思いました。


投稿者: アゲノ | 2013年01月25日 01:42

この記事を読み、教師による生徒への体罰、特に身体に対する侵害を内容とする懲戒は許されるべきではないと思いました。もちろん、子供たちに良いことと悪いことの区別をつけさせるために、ある程度のしつけは必要でしょう。しかし、度を越したしつけ、すなわち体罰などは、やはり許されてはならないと思います。現在では、大阪市の高校で、体罰が原因となって生徒が自殺するという事件も起きています。このようなことを防ぐためにも、しつけと体罰は明確に区別されなければならいのだと、強く思いました、


投稿者: 重力シンパシー | 2013年01月25日 11:59

「厳しい指導」と「虐待」の間には明確な区別があることは明らかですが、その区別は当事者たちの相互理解と信頼関係のもとで成り立っています。その当事者同士の相互理解に誤解が生じてしまったとき、つまり「指導」を受ける側の人間がそれを「虐待」だと認識することで虐待は起こりえるわけで、そのとき第三者の仕事は一方的にこれは虐待だ、これはそうではないと断じていたずらに制限を設けることではなく、双方の考えを積極的に受け入れ、当事者同士の誤解を解くことだと思います。第三者がどの程度介入すべきかということは非常に難しい問題ですが、文科省が示した見解はその区別を明確にするためとはいえ、あまりに画一的な内容に思われます。叩くのは悪い、長時間の正座はダメなどの制限では根本的な解決にはなっておらず、たとえば生徒や障碍者に苦痛を与えようと思えばいかなる制限を設けたとしても完全にこれを防ぐことはできません。それよりも、介護に携わる人が慢性的に不足していることが問題であり、そこからくる介護者のストレスが彼らを暴力行為や虐待行為に駆り立ててしまっているものだと思います。


投稿者: 子龍 | 2013年01月25日 12:13

「厳しい指導」と「体罰」との区別は必要だ。もしその区別がつかないなら、甘い指導となって適切な生徒指導の役に立たなかったり、ただの暴力暴言となってしまったりする。しかしこの区別の境界線も人によって違うのだろう。それがいわゆるモンスターペアレンツを作り出したりする。万人から認められる法はないのだろうか。もしあれば大小含めてこの世のすべてに秩序が与えられて、争いもなくなるだろうに。


投稿者: muk | 2013年01月25日 12:42

今の日本の学校において指導と体罰の区別が曖昧になっており、社会的な問題が発生している。どこまでが指導で、どこからが体罰が分からない先生が増えているのが問題だろう。
さらにこのようなこともある。高校野球の指導者に対し「体罰は必要か」というアンケートをしたところ、約9割は「絶対にすべきではない」と解答したが、残りの1割は「体罰は必要」と答えたのだ。(2013年6月21日 読売新聞)
一部の学校の先生が体罰を容認していること、これには自分も呆れてしまった。とんでもないことを言っていると本人達は分かっているのだろうか?
このような考えを持っている人が、福祉の方でもいるかもしれない。なぜ体罰はいけないのか、指導者や支援者にはそのことをしっかりと理解してもらいたい。


投稿者: だしなの | 2013年06月23日 19:22

福祉の支援者は、懲戒権を持たないにもかかわらず、どうして懲戒権があるかのような錯誤に陥るか不思議でした。宗澤先生が特別講演および本件ブログにて、支援者が子ども扱いをするからだと指摘され、なるほどと思いました。子ども扱いは被支援者のためにならず、むしろ虐待を誘発する点で悪影響を及ぼします。にもかかわらず、どうしてこの状態は根絶しないのかが気になりました。私は、子ども扱いをした方が支援をする上で好都合だからだと思います。すなわち、被支援者が支援者の言うことを聞かない場合、力ずくで抑え込めば手間のかからない対応を実現できるからです。そこで、外部の関係者が支援者に対して子ども扱いをしないように提言しても、接し方が不適切だと指摘しがたいのが現実だと思います。また、子ども扱いをしていることを認めない、子ども扱いをして何が悪いのかといった意識を持つ支援者であれば、指導しても同様の言動を繰り返し、虐待の可能性を高めるだけではないでしょうか。
 そのため、宗澤先生が講演で提言された、大人として障がい者を社会へ受け入れる体制づくりは、子ども扱いを延長させない手段として効果的だと思います。社会全体の仕組みとして親の立ち入ることのできない世界を半ば強制的にでも創出してしまえば、子ども扱いに抵抗のない支援者から引き離す契機となりえます。
 しかし、親族から離れて地域社会へ出ることが虐待防止の観点から必要不可欠であるとしても、地域社会の受け入れ体制自体に改善の余地を残しているのが現状ではないでしょうか。地域による受け入れ態勢は、虐待の未然防止に大きく貢献することでしょう。だからこそ、まずは社会への受け入れがいかに重要かといった認識を社会全体で共有していけたらと思います。そして、有権者として選挙での投票行為を通じて、受け入れ態勢へ向けたさらなる整備を促進できたらと思います。


投稿者: うさずきん | 2013年07月17日 19:45

先日宗澤先生の講義を受講して、障害者のいる家庭での虐待について、深く考えさせられました。テレビのニュースで虐待や体罰の事件が取り上げられたとき、保護者や教師の「しつけのつもりでやった」「生徒のためにやった」というような言葉をよく耳にします。日本の民法では「子どもの利益のため」という言葉で懲戒権が規定されていますが、とても曖昧で違和感を抱いてしまいます。このような認識があるからこそなおさらしつけと虐待・体罰の間のグレーゾーンが広がるのではないでしょうか。
私が先生のお話の中で特に印象に残っているのは障害者虐待における障害のある人と養護者・支援者の共依存関係についてのお話です。長期的な関係のもつれによって母親が息子に犬の首輪をはめてリードで犬小屋につなぐというショッキングな事件ですが、なによりも両者がともに離れたくないと思っているのが衝撃的でした。
障害のある人のいる家庭では家族のきずなや協力がなにより大事なものに思えますし、もちろん大事なのですが、家庭があまりに閉鎖的になってしまうことがとても危険なのだとわかりました。子どもに障害があることで関係が煮詰まりやすいため、第三者の支援による適度な距離を置くこと、子どもがある程度成長したときの親子分離を促進することも障害のある人の家庭ならではの重要な支援だと思いました。


投稿者: 空飛ぶペンギン | 2013年07月18日 22:54

知的障がい者は、自分で感じたことや、今の状態を説明するのが難しいので聞いても無駄であると考えられていると聞いてショックを受けました。しかし、知的障がい者とコミュニケーションをとるために、知的障がい者のための身振り言語であるマカトンサインや、ピクトグラムを使うという方法があると知りました。また、ピクトグラムの数を増やすと、虐待の確認だけでなく、病院やスーパーに行ったときにも活用することができると仰っていたのが印象に残りました。知的障がい者だけでなく、子どもや外国人、そしてDVを受けた人などにもピクトグラムは活用できると思いました。ピクトグラムをさまざまな場所で活用するということが実現し、みんなが、生活しやすい社会になればいいと思いました。
障がいがあると、コミュニケーションがとれない、支援者がいないと何もできない、というように、できないと決めつけられ、できないことだけに目を向けられている。しかし、伝え方を工夫したり、道具を使ったりと、コミュニケーションをとる努力をすると、できることがあると分かり、障がいのある人が子ども扱いされたり、人権を侵害されたりすることもなくなると思いました。その工夫を考える余裕が、障がいのある人を支える家族や施設の職員には、ないのだろうと感じました。障がいのある人を家族だけで閉塞的に支援するのではなく、さまざまなサービスや制度を使い専門家と一緒に支援することで、家族もコミュニケーションをとる工夫を考える余裕ができると思います。また、一人一人に合った手厚い支援をする余裕がない施設のあり方も改善していかなければならないと感じました。


投稿者: レモンスカッシュ | 2013年07月19日 00:14

 大変記事の内容に共感ができたのでコメントさせていただきます。現在の教育方針になってからもう十年経とうというのに記事の「体罰」と「厳しい指導」の区別がつかない人が多いことに正直驚きを覚えます。 私の考えですが、このような考えができない人はプロとしての意識が足りないのだと思います。バブル時代の頃、高度経済成長期も重なり公務員になろうとする人材が少なかったですが、それでもなろうとする人たちはプロの意識が高い人だったでしょう。プロとして子どもの問題に当たっていたからこそ支持が多かったのでしょう。しかし今は、そのプロ意識を持つ人が少なくなったうえに、自分たちのころと一緒の教育をしようとして体罰を行う、という結果になっていると私は思います。
 私自身の考えではありますが、時代背景などある程度の根拠の上での考えです。先生はこの理由どうお考えでしょうか。


投稿者: やっさん | 2013年07月23日 13:45

先日は北九州市立大学での貴重な講義、ありがとうございました。
 わたしは知的障害の方を「子ども扱い」してしまうという部分には、おおいに共感しました。わたしはアルバイトで、言葉が出ない程度の発達障害を抱えた方々が暮らすグループホームで支援を行っています。同じグループホームで支援を行っている人の間では、利用者さんが「笑顔がでていた」であるとか、「突然車のドアが開いたことにびっくりしていた」など、そういったエピソードを話したりして『かわいい』ということを共有します。そのエピソードで笑うこともよくあります。実際に『かわいい』と感じるし、イレギュラーなことをされるとおかしくて笑ってしまいます。このような感情は、支援している人皆にあるものだと思っています。もちろん、障害者になんの関わりも持っていない人からすると「バカにしている」などと思われると思います。現に、サークルの仲間に利用者さんの話をして、「バカにしてるだろ」と言われたことがあります。自分には全くその気はなく、本当に『かわいい』と思っています。
 この感情が「子ども扱い」からきているものだということは、支援を始めて間もなく思っていたことでありますが、これが虐待を招く原因であることは、あまり意識していませんでした。しかし共感できる部分は多くあります。言葉も理解できず、具体物で「してはいけないこと」をわかってもらおうにもわかってもらえないので、感情的になりそうな部分を切り捨てても結局は手を軽くたたくなどしてだめであることを指示してしまいます。
利用者さんが自分の思う通りに動いてくれなかったり、わがままな要求が出はじめたりすると、利用者さんを「大人」として対応することが精神的につらい部分になります。私は支援者が障害のある方を「子ども扱い」することは、その精神的なつらさから自分を守る、防衛機制的な発想でもあるのかも知れないと考えています。
 これからこのことは私自身の課題にしようと思います。


投稿者: NCHASAN | 2013年07月30日 06:25

私も現場では厳しい指導が必要であると考えている人と同様に、「支援者-利用者」の関係を親子関係や「教師-児童・生徒」の関係のようにイメージしていた所がありましたが、誤っていることに気づかされました。この認識は障害者を支援する支援者の持つ優位性、支援者が障害者に対して覚える苛立ち故であると思います。私が持っていたようなイメージを持っている方は少なからずいると思うので、対等な立場であることを再認識するためにも、学校の授業等で障害者支援の正しい理解を広めることが必要だと思います。


投稿者: バリ | 2014年01月22日 11:36

このブログの記事を読んで一番心に残ったことは“「支援者―利用者」関係が、親子関係や「教師―児童生徒」関係のように誤ってイメージされている”という部分です。以前、ある文献で支援者や介護者は障害者を軽く扱うことがあり、その扱いを受けた障害者もその上下関係の「下」に自然となってしまうことがあると読んだことがあります。人間は誰しも平等であり、まして障害者の集団の中では僕たち個人が障害者のようになりうると先生の講義で聞いて、その通りであると深く感心しました。支援者において大事なのは指導と暴力のグレーゾーンを作らないための線引きであると思います。そこにあいまいなグレーゾーンが存在してしまっているから指導を虐待と勘違いしてしまう支援者が後を絶たないのだと思います。支援者は、結局自身が線引きをしなければ効果はないのだと思います。現在のすべての支援者が自身に問いかけ、自分を見つめなおすことを望みます。


投稿者: jigsaw | 2014年01月27日 23:38

支援者に懲戒権はない、というのはもっともなことだが、障害者や老人に対する支援者や使用者の虐待に関する報道は絶えない。それはやはり、支援してやる、支援される、というような上下関係が見て取れ、さらには支援という概念を超えて支配の関係が見えてくる。障害者、老人、児童の虐待は、本来思い合うことで結ばれる二者の関係が、一方からの支配によって成り立ってしまっていることに問題がある。もっと、温かさのある関わり合いができればよいのに、と思う。


投稿者: るん | 2014年01月29日 08:43

 私の祖父や母親は今の日本の体罰に非常に敏感な教育に不満を持っています。私は教育学部で「体罰は絶対に駄目」と何度も教えられているし、自分自身もそのような考えですが、家族に「体罰は必要だ。だから今の若者は根性がない。」などと言われてもうまく言い返せず、何が正しいのだろうかと、いつももどかしい思いを抱えていました。
 しかしながら、この記事の『学校の先生の中に「毅然とした指導」と「体罰」の区別のつかない方がいるとすれば、それは教師として失格だというだけです。』という一文を読んで、少しほっとしました。やはりそこは教師ならばしっかり区別し、体罰の有無ではなく技術的な面でよりよい教育を目指すべきだと思います。

 障害者の虐待についてですが、そもそも私はそのような問題があるということに驚きました。私が介護体験で一週間勤めた福祉施設では、利用者の方と施設の方の関係はとても良いものでした。「厳しい指導」と「虐待」の区別がつかずそのような問題を起こしてしまうケースがあるというのはとても悲しいことだと思います。このような問題をはっきりさせる手立てとして、福祉領域の支援者には懲戒権は一切ない、と明言されていて、この記事はとても理解しやすかったです。
 私の祖母は要介護5で、祖父を中心に家族が自宅で介護しています。祖母の状態はひどく、夜中に怒鳴り声を上げるし、他人を叩くし抓るし、介護者の負担は確かに大きいです。祖父は希に手を挙げてしまうこともあるようです(もちろん、思いっきり殴る、などということではありませんが)。
 支援者が正しい認識を持つということももちろん大切ですが、周りのサポートが非常に重要であり、このような問題を全ての人が共有することが必要であると思いました。


投稿者: ぱせりん | 2014年01月29日 12:25

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プロフィール
宗澤忠雄
(むねさわ ただお)
大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

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