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宗澤忠雄の「福祉の世界に夢うつつ」

いい加減な依頼のメール

 先日の「連休中」に、ある県の大きな福祉支援事業者団体から講演依頼のメールが飛び込みました。その文面は、なんとも理解不能のご依頼です。
 曰く、「来年2月に1回のご講演を依頼させていただく予定でしたが、さまざまに考慮した結果、年末年始に3か所で計3回のご講演をいただきたく存じます。つきましては、12月中旬から1月中旬の間で先生のご都合のいい日を3日お知らせください」と。
 何だ~、この依頼は!?

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 依頼する講演テーマの記載はない上に、主催者は誰なのか、何を目的とした講演なのか、聴衆はどのような人たちなのか、交通費・謝金はどうするのか等の案内もなく、ただ「体の空いている3日間を知らせてほしい」という文面です。

 バカ言っちゃいけません。私は、芸者さんのように「体が空いているときにお座敷がかかればすっ飛んで行く」タイプの仕事をしているわけではありません。ましてや、年末年始の多忙な時節に遠くまで足を運べるわけがない。

 このメールは、「藪から棒」に失礼千万だけを括りつけたような代物ですから、即刻お断りしようと思いました。が、メールはあくまでもお気軽なコミュニケーション・ツールなので、相手がうっかりしていただけかもしれないと気を取り直し、講演テーマや主催者等について私から返信メールでお訊ねすることにしました。

 それでも、講演テーマについては一向に連絡がこないため、私が依頼を受ける必要はないと判断し、返信メールでお断りしました。
 すると、「連休明け」に、どうもその講演会の実務担当者と思われる人物からメールが飛び込んできました。曰く、「連休中なのでメールを開いていませんでした。会の趣旨は県から委託された施設職員の研修会で…」とあるものの、ここでも「講演テーマ」については何の説明もありません。私はほとほとあきれ果て、改めてお断りの返信をしておきました。

 不愉快なメールのやりとりは以上がすべてです。

 相手が「連休中に」年末年始の暇な3日間を知らせてくださいとのメールを勝手に送りつけておいて、「私は連休中なので返信メールを開いていませんでした」という言い訳の非常識さは百歩譲るとしましょう。また、年末年始にある3回の講演は、私と同業の友人が依頼を受けて断ったため、私のところへ「玉突き」でまわってきただけであることも実は知っており、メールの依頼文にあるように「さまざまに考慮した結果」では決してない点も大目にみてあげましょう。

 しかし、講演テーマについての説明がない点は社会的にみて断じて許し難い。自分たちは主催者として何も考えないまま、講演者にすべてを「丸投げ」しているからです。

 この研修会は、全県下の施設職員の研修を県からの委託費によって実施するのですから、それを受託した事業者団体には、地域の施設職員の現状を踏まえた研修テーマを明らかにして研修会の内容をつくりあげる社会的責任があるはずです。
 まともに内容を考えて煮詰めることもなく、「大学の先生の看板」をぶら下げた「誰か」(実は誰でもいいのです)の「有難いお話」でもって県からの委託費を予算消化し、この事業者団体の県内における存在意義を維持しようとするだけの話でしょう。

 かなり以前、私は講演の依頼があれば、何とかスケジュールの都合がつく限り、できるだけお引き受けしていた時代があります。当時は、純粋に「自分で役立つのであれば」と考えていました。

 この業界には実にいい加減な慣習があり、講演会で拘束される時間や謝金・交通費の類を依頼時に、ほとんどの場合、知らせてきません。依頼者が行政機関でもそうです。
 当日の講演が終わってやれやれと思っていると、「分科会の助言者もしてください」、「この講演を掘り起こして活字にしますので、校正の方を宜しくお願いします」と突然言ってくることや、「うちの団体は何分貧乏な団体ですので」とロハの講演となることも珍しくありません。

 それでも、これもこの業界の現実だと受けとめて依頼を受け続けていると、ひょんなことから本当の実態を知ることになりました。

 一つは、講演という仕事を職業人に依頼しているにもかかわらず、はじめから謝金等を支払う気がないという事実です。たとえば、貧乏を自認して吹聴する団体が、会費や講演会参加費の徴収を面倒でしていないだけだという場合(いかに自主的な運動団体でも経営は必要不可欠です)や、該当団体の予算書をみると十分に謝金がでるはずなのに、ただ支払う気がないだけだとみてとれる場合です。

 二つ目です。できる限り依頼を受けていた当時、ある弁護士さんから「宗澤さんは、“困ったときの宗澤頼み”って言われていることご存知ですか?」と言われました。つまり、「タダでも講演を引き受けてくれる人」と巷で言われていたらしいのです。

 同業他者のお考えは知りませんが、講演や文筆にあたっては、私は常に「心血を注ぐ」構えで臨みます。そこで、自分に課しているのは「すでに書いたことをそのまま話さないこと」と「以前に話したことをそのまま話さないこと」です。大学の授業に対しても同様です。

 少なくとも研究に取り組んでいるのであれば、すでに書いた自説の修正や発展は1ヶ月も経てば必ずあるものです。だから、依頼を受けた時点でもっとも最新の自説を話したり、書くことにしています。それが職業人の引き受けなければならない最低限度の社会的責任であると私は考えています。

 したがって、原稿料や講演料を支払えないところからの依頼は、真にやむを得ない事情が相手にある場合に「例外的に応じる」のが原則です。ところが、依頼者の方はどうもそのように考えてはいないらしい。何の努力の跡もないのに「うちは貧乏なところですから」となし崩しで原稿料や講演料を支払わないというのは、支払う気がないことと同義です。

 このようないい加減さに心底あきれはてたので、自分の研究領域にジャスト・フィットする依頼テーマで、あらかじめ条件等の提示がある場合に限り、引き受けることを原則とするようになりました。誤解なきように言い添えますが、依頼者に真にやむを得ない事情がある場合、講演や原稿のテーマさえ私がお引き受けするべきものと判断すれば、今でもロハでお引き受けしています。

 さて、冒頭のメールが不愉快であることの一因は、メールというコミュニケーション・ツールそのものが陥穽になっていると思えてなりません。

 これが電話であれば、言葉を直接やりとりすることによって、両者間にある疑問や齟齬を即時になくすことが可能です。手紙であれば、依頼文に必要な形式と内容を備えているかの点検をして相手に送付し、送られた方は、郵便受けに配達された封筒を開いてじっくりと吟味するというように、コミュニケーションに必要な構えが両者に据わっているはずです。ここでは、発信者側であらかじめ、自らのコミュニケーションの正当性(話し方や文面の形式と内容についての)の吟味が行われるのですが、メールとなるとこのような吟味が省かれてぶっ飛んでしまうのです。

 そこで、メールというツールは、「とりあえず用件だけ伝えておこう」と、ともすると安易さきまわりないコミュニケーションをはじめてしまいます。受信する側は「仕事の依頼」を受け取る構えのまったくないところでメールを開くのですから、私の事情をまったく考慮せずに「やっかいな仕事の依頼」が一方的に舞い込むと、私にはいかにも侵襲的に感じられて、怒り心頭となってしまうのです。

 他の業界でも、このようないい加減な「メールによる仕事の依頼」の実態があるのでしょうかね?


コメント


 なんだか残念で仕方ありません。担当者が失礼な対応をしなければ、直接的ではないかもしれませんが、宗澤先生のお話を聞くことができたかもしれない一現場職員です。
 なぜテーマを提示しなかったのか、担当者に怒鳴り込みたい気分です。先生がいらっしゃるのであれば、今、問題になっている総合福祉法の骨格案についてやあるいは成人施設での虐待をめぐつて、また条例づくりをめぐってなど様々なテーマ設定を考える事ができ私たちにとって有意義な時間をもつことが可能だったはずです。本当に残念です。


投稿者: との | 2011年10月31日 22:18

 メールはとても便利です。しかし、下手な使い方をすると良くないのだなとこの記事を読んで思いました。気軽に送れることはメールの良いとこであり悪いとこです。何気ない会話のやりとり等をするにはメールは良いと思います。自分もメールは楽しくて好きです。ですが、今回のように誰かに物事をお願いする時にメールを用いることは好ましくないのだなと思いました。人に何かを頼むにはそれ相応の頼み方があります。これから自分は色々注意しながらメールを使っていきたいです。


投稿者: わん | 2012年01月22日 03:59

 私はよく、先生や目上の人に対して何かを依頼するときにメールを用います。この記事を読んで、お願いしたい内容がはっきりと書いていなかったり、お願いする相手に対する配慮が感じられないメールを送ってしまうと、メールを受け取る側はとても不愉快に感じるのだ、ということが分かりました。依頼メールを送る時は、まずできあがったメールをよく読み返し、受け取る相手が不快に感じる内容になっていないか、などをしっかり確認しようと思いました。


投稿者: ike | 2012年01月24日 14:23

今回依頼をしてきた方に関してもそうかもしれないが、近年において、社会的マナーができていない人が増えているのではないかと感じた。宗澤先生のおっしゃる通り、何かしらの依頼をする場合には、「主催者(団体)」「日時、場所」「お願いしたい内容」「交通費などの補償に関して」「謝礼金に関して」「主催(団体代表)者連絡先」などは最低限記しておかなければならない。私は、とある団体に所属していて、自分よりもずっと年配の方が所属する加盟団体へ連絡や依頼をさせていただくことがあるが、そうした時には文面や社会的なマナーには十分気を付けるようにしている。私のミス一つで、多くの方や団体に迷惑をかけてしまう恐れがあるからである。宗澤先生の怒りはもっともなもので、メールを使う際には、相手に失礼のないような内容で送らなければならない。


投稿者: MOU | 2012年01月25日 06:43

私は今まで生徒会会長などをしていたので、人前で話す機会を沢山いただいていました。与えられた限りある時間の中で、何をみんなに伝えるべきか…毎週紙に書き起こしては悩み…と試行錯誤しながら話してきました。今回のブログを拝見して、学生時代にいかに沢山経験し失敗したかで、礼儀ある大人になれるのか否かが決まるのではないだろうかと感じました。
また、メールは消去しない限り残るものですし、文脈によっては良くも悪くも取れてしまいます。だからこそ、一人ひとり責任をもって、現代の便利なツールを使いこなしていくことが大切だと思います。


投稿者: エルフィ | 2012年05月04日 20:48

最近のパソコンや携帯電話の発展、普及に伴い、メールだけでなくSNSなどの交流インターネット上の機能の発展が、
このようなメールの問題を生じさせたと思います。
特にSNSなどの機能により、パソコンや携帯電話それ自体が「手軽なコミュニケーションツール」
という認識をもたれていると思うのです。(実際自分もそう思っています)
そのことに伴って、正しいメールの作法が、知られていない現状があります。
社会の一員として生きている以上、最低限の作法は理解していたいと思います。
またこのことは、教育として教えるものではなく、個人個人が理解するべき
生きていく上でかなり基本的なことだと思います。


投稿者: よこちん | 2012年07月03日 11:21

メールというツールは電話や手紙と違い、友人間で日常的に用いられていることが多いせいで、公と私の区別があいまいになっている気がします。

友人間でのやり取りというのは、相手の人柄を知っているので、どういう考えで訊いているのか言わなくてもある程度察することができます。その延長で、同じ職場の人間だから言わなくても事情がわかるだろうとか、相手はその仕事に慣れているから大体どういう流れになるか理解しているだろうと考えてしまい、肝心な事を省いてしまうといったことが起こるのだと思います。

記事内のメールの文章は、自分の文章を見てどのように感じるかを相手の立場に立って考える事が欠如しているように思えました。仕事の依頼のみに関わらず、他人にメールを送る際、自分の意図していることや内容などが相手に伝わるようにしなければならないと思います。


投稿者: 源 | 2012年07月05日 16:15

手紙は「伝える」という行為の中で最も手間がかかる手段だと思われます。便せんや封筒、切手を用意しなければならないということももちろんですが、文体や文字の丁寧さなどにも気を使います。そのプロセスの中で、書く内容も失礼のない気持ちの良いものにしなければ、と自然と頭を使うようになるのです。
この記事の内容がまさに典型的ですが、メールのようにこれらの手間が一切省かれたツールに慣れてしまうと、気安さから相手への気遣いがどんどん抜けおちていくように思えます。効率化された社会に順応してしまうと、人間らしい温かみが薄らいでいくようですね。


投稿者: chi-0414 | 2012年07月18日 09:52

私は外注のアルバイトとしてゲームのシナリオを書く仕事をしているが、どの会社から送られてくる仕事の依頼も杜撰な内容のメールがほとんどだった。本記事で示されている事例と同じように、謝礼やプロジェクトの主旨についての説明は一切なく、ただこなすべき文章量とその期間を提示する傾向が顕著であった。
 また、内容についての疑問点をメールで送り返したとしても全ての齟齬が解決されることは極めて希で、口頭でのやりとりであれば伝えることができるはずのニュアンスを伝えきれない場面が多くあった。
 相手のメール・マナーに疑問を覚える一方で、私自身のメールにおけるリテラシー能力にも問題があると考えた。手紙の書き方を初等教育などの現場である程度受けてきた一方で、結局私も正確なメールの作法については大学の講義という形で提示されるまで触れることはなかった。現在ではビジネスの現場においてもメールは多様されているが、メールのマナーや使用法については未だ浸透しておらず、学ぶ場も少ないというのが実情ではないだろうか。メールのリテラシーを学習する機会を設けられなかった部分は、ビジネス書などで各自が埋め合わせるべきだと言える。
 結論としては、仕事の依頼や業務連絡などについては直接会うことができずとも電話の利用を第一としたい。連絡がつきにくい場合であっても、口頭での意思疎通ができる時間がいつなのかを依頼者に問うか、自ら提示するのが基本的な姿勢だろう。また必要な情報については最低限伝えるというメール・マナーを各人身につけることが肝要だろう。


投稿者: クロワッサン | 2012年07月19日 11:53

メールは手軽に書けてしまうので、自分の使っている言葉や書いた内容にあまり気を配らなくなってしまうのだと思います。
私は、メールを書くときはいつも手紙のつもりで書いています。手紙を書いていると思うと、言葉づかいや書く内容の順序をよく考えてから書こうと思えます。また、書いた後にすぐ送信せずに、何度も見直して間違いがないか確かめます。
手紙は自分で文字を書き、封筒に入れ、切手をはり、投かんする、という手間が必要な分、書いた内容にも注意しようとするのかもしれません。メールはクリックしただけで送信できてしまいますから…

直接会って話すのとは違い、文字でしか表現できないということを、メールの便利さが忘れさせてしまっているのではないでしょうか?


投稿者: a.g. | 2012年07月22日 19:20

メールは、送受信が容易にでき、また気軽にできるもの。というのがメールを利用するにあたっての利点だと思っていた。しかし、そうであるがゆえの欠点があったのだと改めて気づくことができた。
正しい手紙の書き方というのは中学校で学んだ覚えがある。だが、正しいメールの書き方というのは学んでいない。そこからもわかるように、メールは重要な要件を伝えることにおいて不向きであると考えた。やはり、メールはそれまでの手段ということなのである。それにしても、現在メールが頻繁に使われているということはほかの手段に負けない長所があるということだ。実際に私もメールはすぐに届くし、自由な時間に見ることができるという点で便利だと思う。さらに最近は、メールよりも気軽に連絡を取れる‘ライン’などの携帯アプリケーションがある。これも、便利ではあるが重要な要件を伝えるには不向きである。わたしの先輩が話していたことだが、重要な内容をラインで送ってきた後輩に対して、「普通、重要なことはラインで送らないでしょ。せめてメールだよ。いや、直接言うべきだよな。」とのことでした。わたしはその言葉を聞いて、ラインとメールで、たとえ同じ内容を送ったとしても受け取る側はかなり違ってくるのだと思った。同じ文面、同じ活字なのにである。とても興味深いと感じた。
 どの手段を使うにしても、受け取った側が不快な思いをしないように文章や内容には細心の注意をはらい、相手の気持ちを考えて送ることが大切だと思った。


投稿者: rila | 2013年01月19日 14:03

今回の記事のメールの依頼の軽率さや浅はかさを感じるとともに、講演の団体などでもこのようなメールでの投げやりな依頼があることに驚きました。
いまメールやLINEなどのツールが主となっていますが、それらはあくまで日常の些細な連絡程度で使われるべきものであって、仕事やアポイントメントなどの重要な連絡とプライベートの切り替えは大事だと思います。用件の重みに沿った使用(手紙や電話あるいは直接の会話など)と、社会的マナーは忘れてはいけないと思います。


投稿者: たぐたぐ | 2013年07月19日 02:46

メールというのはとても便利なコミュニケーションツールのひとつです。携帯電話の普及率の上昇とともにメールも手放せないものになっているように感じます。メールの利点は、いつでも、手軽に、確実に、相手に要件を伝えることができる点だと思います。しかし、これらの利点が優先されることで、その文面には礼儀や受信者の都合が欠如してしまいます。宗澤先生の記事にも書かれている通り、電話や手紙ならば発信者の誠意を伝えることが可能です。また、メールは基本的には一方的なコミュニケーションツールであるため、発信される日にちや時間帯はすべて発信者の都合によって決められてしまいます。それが単なる一方的な連絡ならまだしも、返信を必要としていたり、ましてや仕事の依頼などの重要な内容なのであれば、受信者の都合を考慮してメールを発信するというのは、当然の配慮だと思います。メールの普及によって遠隔地との通信が高速化されるのはとても便利なことではあるが、その利便性と相手への誠意を天秤にかけて今一度メールの使い方について考える必要があると思います。


投稿者: カズ | 2013年07月23日 13:26

このメールはとても依頼に応じるにふさわしくないものだと思います。メールは非同期性の通信手段なので、仕事の依頼としてはあまり適切でないと感じます。加えて、あくまでこれはプロへの依頼であり、そうするのであればそれなりの報酬は受け取るべきだと私は思います。その代わり依頼された人は全力のパフォーマンスでこたえるという双方向の関係が必要です。その関係を崩してしまうと両者にとって不利益になってしまうでしょう。そこに礼儀が最低限あるべきものなのは明らかだと思いました。


投稿者: ガノン | 2013年07月24日 03:32

 この記事を読んで5W1Hの重要性を再認識しました。多くの人びとが携帯電話を所持するようになった昨今、5W1Hが軽んじられているのではないかと私は考えます。例えば、友達同士待ち合わせの約束をするとします、昔であればいつどこでなどをきちんと決めておかなければ人の多いところなどでは待ち合わせをすることは困難だったでしょう。しかし携帯電話を使えば、大体の時間と場所を決めておけばその場で連絡を取りあって落ち合うことができます。このため5W1Hの重要性が低くなっていってしまっているのではないでしょうか。
 友達同士のやりとりであれば、この記事で書かれたようなメールのやりとりもそこまで問題はないのかもしれません。しかし、仕事のやりとりとなっては話が別で、5W1Hを明記することは必須です。メールというツールを使う際には、今、重要性が軽んじられつつある5W1Hが明記されているかを念頭に置くことが重要であると思いました。


投稿者: 名無し | 2013年07月24日 12:36

近年、インターネットや携帯などを用いたSNSが広がりを見せている。そして私たちはその利便性も知っている。しかし、まるで会話をするようにそれらを頻繁に使用しているうちに、私たちは無意識にその文章に形式性や文語性を欠いているのではないかと考える。たとえそれを抜きにしたとしても相手に対して「何を」「いつ」「どこで」「誰が」「どのように」の5W1Hをはっきりさせないのは相手側の思慮に欠けると考えられ、今後社会においてさまざま文章を書いていかなければならないにしろ私たちにはこれらの「当り前」が求められているのではないかと考える。


投稿者: まりもP | 2014年01月18日 03:37

 対面しての会話では言葉だけではなく、表情や声色などの非言語的手がかりも用いて行われており、それにより、相手にこちらの意図や誠意を伝えているが、この非言語的手がかりがメールやLineなどのコミュニケーションツールではまるまる欠落している。そのため、こちらの誠意を伝えるためには、それなりに文章をねる必要があると思う。
 それがLineでの既読無視という言葉が日常化しているように、早さが求められ、更にこれらのツールが一方向性のものであるために、文章をより短く端的にしてしまい、相手への配慮や誠意が欠如していると思う。
 友人同士での気軽なやり取りをするのなら問題ないだろうが、仕事での依頼をしたり、それ相応の対応が求められる場合には、これらのコミュニケーションツールの使い方を今一度見つめなおす必要があると思う。


投稿者: イコ | 2014年01月22日 11:36

障害者支援、高齢者保護など福祉にかかわる行いに関してはボランティアが深くかかわるであろう。いや、福祉=ボランティアと考えるものも少なくはないと思う。それはただ人間がおこなって当たり前である社会的弱者に対する配慮を他人に押し付ける悪質な行為である。県の福祉支援事業者団体とあるもの実務担当者がその当たりまえなことに自覚がないとなると大変な問題である。ましては依頼する立場であるのに、基本的な説明もなく物事をいうことは大変失礼極まりないことである。講演のテーマすら説明しない代表と思われるものは福祉に関してまともな認識がないとおもわれる。むしろ常識てきなものではないのであろうか。また、貧乏をであることだけを理由にするのではなく、他の事情や、少なくとも熱意を伝えるべきである。その担当者は自分の仕事の自覚と責任感が必要である。


投稿者: はなまるうどん | 2014年01月26日 17:09

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プロフィール
宗澤忠雄
(むねさわ ただお)
大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

【宗澤忠雄さんご執筆の書籍が刊行されました】
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