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宗澤忠雄の「福祉の世界に夢うつつ」

秋葉原の事件から2 孤立と地域

 前回ご紹介したNHKの番組は、キーワードの一つに「孤立」を置いていました。
 秋葉原事件の犯人が、携帯電話の掲示板に最後まで書き込んでいた記事は、耐えがたい「閉塞感」と「孤立感」の中で、誰かに自分を受けとめてもらいたい気持ちから発した「叫び」のように思えます。
 「明日から来なくていいよ」の一言だけで社会的な立場を失う「日雇い派遣」の不安を抱え、人との支えあいの世界から遠ざけられていたとすれば、一度足を踏み入れたら二度と這い出ることのできない「底なし沼」でもがくような絶望感に、誰しも襲われます。

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 バブル時代の流行語に、「ネクラ」と「ネアカ」、「マル貧」と「マル金」という対をなす単語がありました。これらの言葉には、明暗差の大きいコントラストのある世界を描き、中間にある多彩なグラデーション(階調性)を捨象する特徴があります。今やこれらは死語となったようですが、わが国の現実はむしろ、人々を性格と社会階層で二分し、両者に接点もなく双方向性もない、固定化した差別にまで強化してきたのではないかと思います。「勝ち組」と「負け組」という現在の言葉がその象徴です。

 私たちの多くは、「負け組」だけにはなりたくない気持ちから、日々努力しようとします。ここで、犯人が追いやられていた「暗く追い詰められた世界」との対照において、自分は「明るさのある世界」「友人や彼氏・彼女のいる世界」にいれてよかったなどというような「安心」を抱くような傾きが生まれはしないのでしょうか。彼のような「あっちの世界」ではなく、自分は「こっちの世界」にいることができて、まだよかったと。

 宮崎勉の事件以来、この15年間ほど続いた「無差別殺人」の事件のすべてにおいて、犯人の社会的な「孤立」が際立っている点に、私は共通項を感じます。秋葉原の事件報道の中で、犯人の「家庭」と「職場」における問題が出てきますが、「地域生活」がどうであったのかはほとんど明らかにされていません。手に障害のあった宮崎勉や池袋「通り魔殺人事件」の犯人の場合も、ほとんど同様でした。
 地域生活の実態そのものが希薄化し、透明なものにまで行き着いているから、報道すべき「事実」そのものが出てこないのでしょう。報道に携わるジャーナリストも、報道を受けとめる私たち自身も、「家庭」と「学校」「職場」というくびきから解放される「コミュニティ」を問う視点を欠いているのかもしれません。
 「家庭」(親と子)と「職場」(上司と平社員)という「タテ」の関係性の中で孤立を深めていったとしても、「ナナメ・ヨコ」の関係における支え合いの期待される地域コミュニティが、なぜ、まったくセーフティネットの役割を果たさなかったのでしょうか。他者との支えあいや励ましあいはおろか、他者との基本的な接点まで喪失しているほどに、日本の地域社会は病んでいるのではないのでしょうか。

 私たちは「地域福祉」「コミュニティ・ケア」「地域生活保障」などという言葉を使いますが、自戒の念をこめて言いますが、いささか安易に使いすぎてこなかったでしょうか。「あっちの世界」における「苦悩と孤立」を等閑に付す一方で、「こっちの世界」の住人であることに安堵を覚えるという構造の地域社会は、たとえば、孤立しがちな障害のある人の課題解決を「永遠の彼岸」に追いやる社会であると考えます。つまり、これらの事件が続発する地域社会は、「自分は障害者じゃなくてよかった」「元気な高齢者でよかった」「まだ後期高齢者でなくてよかった」というような「安心」を不断に生み出している社会です。

 「無差別殺人」の罪は重く、犯人を擁護するつもりはまったくありません。しかし、これらの事件から何を私たちが受けとるのかという課題を消去してはならないと考えます。地域生活における「自立と共生」を可能とするコミュニティのあり方を、もう一度、根底から考え直すべき課題提起をしている「事件」として、私は受けとめたいと思います。


コメント


 私が20代の頃(1975年~)は、多少できが悪くても、それなりに会社に就職し、結婚し、子供も産むこともでき、庶民だって頑張って頭金をためれば、小さな家だって手に入れられる時代でした。
 今はどうでしょう。。。家庭も核家族になり、家族全員が食事の席につく日も少なくなり、小さな幸せも実感する機会が昔よりずいぶん少なくなっているように思われます。そんな現代の生活の中では、夢が昔よりもちにくくなっているのではないでしょうか。
 私も犯人を擁護する気はありませんが、、犯人だけが悪かった、とは、いえないような気がしています。


投稿者: タンポポ | 2008年07月05日 22:28

 今回の事件について、自分の、事件に対する切り口の少なさを感じました。
 報道を見て、誰が悪い、何が悪い、という追求こそしませんでしたが、私が犯人について見ていたのは、確かに彼の生い立ちや環境についてのみでした。そして、特異な人生を歩んできた人じゃない、現代では誰もが陥る可能性のある生活だ、と、あたかも共感するかのような観点で見ていました。
 しかしそれは、先生のおっしゃるよう、「こちら側」から「あちら側」を眺める気持ちが前提であり、本当にこの事件を自分と重ね合わせて考えるのならば、もっと別の切り口が出てくるはずだと思います。
 生い立ちや環境といった、ある意味一過的ものではなく、孤立という、常に誰もが持ち得るものこそが、この事件の持つ真の闇なのではないかと思います。
 孤独とは誰もが持つものです。孤独を一度も感じたことのない人などいないと思います。問題は、孤立を緩和するために、自分を受け止めてくれる人やものの存在をどのように見出すかということです。
 「見出すか」というよりむしろ、自分を受け止めてくれる人に、どのように「見出してもらうか」という方が正しいかもしれません。自分が孤独であることを他人に話し、助けを求められる人は、その時点でもう孤独ではないに等しいと思います。本当の孤独とは、孤独を訴える相手がいないことです。
 だとすると、本当に孤独な人を救うのは、孤独に陥っている本人が、頼る相手として思い浮かべることのなかった、他人です。
 そう考えると私たちは、相互に信頼関係を確かめ合っているような相手の有無にかかわらず、常に誰かを救う役割を担っていることになります。多くの人の生きる社会では、様々な問題が尽きることはなく、常に誰かが何かの困難に直面しています。
 しかし、そこに存在するのはいつもヒトです。問題を生み出すのも、直面するのも、立ち直るのも、挫折するのも。すべてヒトならば、助け合えるのもヒトだと思うのです。
 いかに問題を関係するかということも大切ですが、私は、いかに問題に対処するかということを、より多くのヒトが考えなければならないと思います。
 今回の事件についてもそうですが、それ以外の日常でも、孤立している本人だけが孤立しているのではなく、孤立に気づいてやれない他人もまた、「孤立している人のいる社会」から孤立しているといえるのではないでしょうか。


投稿者: milk | 2008年11月19日 11:31

 「孤立」というものがキーワードに置かれているという言葉に、ある種のものを感じました。「人は心の支えになる人がいれば、決して自殺をしない」という言葉を聞いたことがあります。
 自殺と今回の事件はまったく違いますが、人と違う道を歩いてしまう人には、心の支えになってくれる人がいなかったのではないでしょうか。
 私自身、高校のときクラスで孤立してしまった経験があり、本当につらい思いをしました。毎日自分が人からどう見られているかが気になり、こんな状況になったのは自分が悪いのだと責める日々でした。そんな時、母だけは「お前は何にも悪くない」と言い続けてくれたのです。
 あの時母がいなければ、自分はどうなっていたのでしょう。家に引きこもりになっていたかもしれないし、自分を、もしかしたら他人を傷つけていたかもしれません。あのときほど、人は人の支えがなければ生きていけないということを痛感したことはありません。
 犯人に心の支えになってくれる人がいれば、あんな事件は起こらなかっただろうと私は思います。


投稿者: ゆう | 2008年11月22日 12:54

 初めてコメントさせて頂きます。
 孤独や閉塞感が通り魔事件へと発展させてしまったというのは、一理あると思います。そしてこの孤独や閉塞感を加速させているのは「貧乏」からでしょう。
 私自信、一時期貧乏でお金が無く、バイトと学校へ行く以外にやることがなかったことがあります。基本的にどこでなにをするにもお金が必要となるため、誘いを断ることが多くなってしまいます。
 こうなると、自然に友人との繋がりが希薄となり、孤独になります。「友人は楽しく遊んでいるのに、なんで自分はこんなとこいるんだろうか。バイト探さないと。履歴書に張る写真撮るお金がないし、面接行く交通費もない。何やってんだろホントに」少々大袈裟ではありますが概ねこのように卑屈になっていき、閉塞感に苛まれる日々が続きます。
 そうしてふと思うんです。「何でもいいからムチャクチャしたい」と。こういう時に人は犯罪を起こすのだろうと思います。ただの学生である私がこのように感じたのですから、派遣社員の感じる絶望は比ではないでしょう。
 故に孤独は「貧乏」からだと、私は思います。


投稿者: ボブ | 2008年11月24日 08:43

 今回の事件はテレビでも取り上げられていて、考えさせられる事件だったと思います。「孤独」という言葉が取り上げられていましたが、その孤独は「貧困」から起こったと思います。
 派遣社員の知り合いが居ますが、その人はあまり知り合いがいません。近所付き合いもほとんどないと言っていました。生活が苦しいから、ほとんど外に出ない為に人と繋がりを持てないようなことを聞きました。人との繋がりのない生活では「孤独」を強く感じるようになり、追い詰められるような感覚を持つのかもしれません。そして今回の事件のようなことを起こしてしまう人が生まれてしまったのではないかと思います。
 先生がおっしゃるとおり、日本の地域社会がセーフティネットとして機能していないことも要因のひとつであると感じます。
 私は、誰かと繋がりを持つ=人と関わることは生活が安定していることで、出来ることではないかと思います。まず、「貧困」という問題を解決していかなければ、外に出て地域生活を送ることすら難しいのではないかと思います。


投稿者: フジ | 2008年11月25日 22:26

人間は他人と自分を比べることで今の自分の立ち位置を再確認し、そして時には誰かを見下して「自分はあれよりマシなんだ」と己を納得させながら生きていくものなのかもしれません。

記事にあった「あっちの世界」と「こっちの世界」という考え方、「こっち側」に自分を置きながら「あっち側」の「孤立や苦悩」を眺め「安心」を得る私たち、という部分を読んで、そんなことを考えました。

ネットというツールが生まれたことで、遠くにいる、顔も知らない多くの人とコミュニケーションがとれるようになり、昔よりも人と人との繋がりは広まっているように思われます。
しかし、実際にはリアルの地域コミュニティの希薄化が起き、秋葉原事件の犯人のように現実だけでなくネット世界ですら「孤立」する人々が出てきているのが現状です。

うまく言葉にできないのですが、誰もがなんとかして自分が「こっち側」に残ろう、「あっち側」に行きたくないと必死になっていて、他人を気にかける余裕を失ってしまっているような…なんだかそういった印象を受けました。
これもまた、社会の二極化が生み出したもののひとつなのでしょうか。


投稿者: 言葉 | 2008年11月28日 01:00

 以前、犯人が掲示板に書き込んだ書き込みをほぼ全て読みました。そのスレには数分と空けず書き込みがなされていましたが、犯人以外の書き込みはほぼありませんでした。以前は管理人からの注意などもあったようですがそれもなくなり、「管理人さえ何も言わなくなった。誰も相手をしてくれない」といった言葉もありました。
 彼の書き込みから読み取れるのは、先生のおっしゃるとおりの「孤独さ」でした。犯人は自分の外見に強いコンプレックスを持っていたようです。そのせいで友達も彼女もできるわけがない、と感じていました。彼でなくとも自分にコンプレックスを持っている人は多いと思います。外見について持っている人も少なくはないでしょう。しかしその場合でも普通は、自分の人生が上手くいかないことは全て外見のせいであるといった風には思わないはずです。そのような思考になるのは精神が疲弊しているからでしょうが、そのような精神状態になってしまった原因といえばやはり、「人とのつながりを持てなかったこと」だと思います。書き込みを読んでいると、彼に信頼できる友達が一人でもいれば今回の事件は起こらなかったのではないか、と思わずにはいられません。
 「家庭」や「仕事」における状況が彼の精神に影響がなかったとは思いませんが、「自分は人間同士のつながりからあぶれている」というようなことを感じていた彼の周りに、先生の言われる「地域コミュニティ」が存在し彼を抱きとめることが出来ていたならば、彼はこんなにも追い詰められることはなかったのでは、と思います。


投稿者: うみ | 2008年12月01日 00:29

 人間は、常に自分がどういう人間なのか探り探り生きています。しかし、自分の内的世界の中にこもって悶々と考えても答えは出てきません。外側の世界に触れて、他者と自分を見比べて自分とはこういう人間なんだと自分像をつかんでいきます。また肯定されたいという欲求も持ち合わせています。そのため、外の世界に自分と似た人を探し、自分が多数派であることを確認したがります。その反動で、自己肯定感を阻害するおそれのある自分とは異なる人間を恐れ、危機感を抱きます。また、日本人は特に群れて安心する種族であることから、みんなで仲間はずれを作ろうとする動向が顕著です。この記事による「こっちの世界」「あっちの世界」の違いとは、自分が肯定され、認めてもらえる居心地のいい世界か否かだと考えました。「あっちの世界」は、「こっちの世界」の人々が安心するために作られた世界であり、明確な境界などありません。女性と男性、健常者と障がい者、正社員と派遣社員、「この歌が好きか嫌いか」、線引きは本当に様々です。極端な話、もし今宇宙人が現れたら私たちは境界線を「地球人か宇宙人か」で引くでしょう。「あっちの世界」とされている人々はこっちの世界の人々に振り回されています。こっちの世界の人々の自己肯定感を充足させるためだけに孤独と向きあわななければいけない羽目にあっています。存在・行動・意見はすべて異端だと処理されます。この秋葉原事件は無差別殺傷事件であり、決して許されるものではありません。しかし、この犯人の事件の動機につながった劣等感と孤独感は社会の産物であると考えられます。誰かが「私はあなたを認めているよ」「あなたはあなたのままで大丈夫」「一人じゃない」と一言伝えてあげたら、それで救われる人はたくさんいるでしょう。そう言ってほしい人はたくさんいるはずです。その誰かが、《地域》であれば、と思います。家庭や職場を持たない人はいるかもしれないけれど、地域を持たない人はいないからです。
 この記事に出会わなければ、この事件を忘れないでおこうと心に刻むことはありませんでした。ありがとうございました。


投稿者: おむ | 2008年12月01日 04:24

 犯人は自分の外見に強いコンプレックスを持っていたらしいのですが、そう感じている人はとても多いと思います。現に私もその一人です。
 とても多くの人も同じようにそう思っている、と思っても、でも自分は特に駄目だとか、でもみんなは自分と違って大丈夫なんだ、それなのに自分は…と、自分を責めてしまうことがあります。
ある本でも読んだのですが、自分をなかなか肯定できにくい時代なんだろうと思います。

 実は私もコンプレックスがあり、友達に不安をこぼしてしまったときがあります。そのときフォローしてくれたり、その友達もまた同じように思っていたりして、こんな人でもそう思うのか…ととても意外に思いました。

 そんな経験があって、極端に不安にならずにいられるのですが、この犯人のように抱えている不安をこぼしてしまえるような人がいなければ、今でも毎日をとても不安なまま生きていると思います。
 言い過ぎかもしれませんが、この厳しい社会の中で心の支えもなく生きることは地獄に等しいです。

 何で生きてるんだろう。何で働いているんだろう。
 何で自分はこんなに苦しまなきゃいけないんだろう。
 そんな思いで毎日生きていたら、ある日突然何もかも投げ出してしまいたくなってもおかしくはないと思うのです。
 しかも、不安をこぼして自分ではない他人と気持ちを分かち合うこともできないのだから、自分だけじゃなくて、みんなも同じように苦しんでいて、でも懸命に生きていることや、だから自分だけだと孤独に感じることもないし、同じように苦しんでいる誰かたち、という輪の中にちゃんと入っていることも、あまりにも自分を追い詰めすぎて分かることができなかったのではないかと思います。

 だから犯人は悪くない、とは絶対に言いません。投げ出してしまいたいと思うことはあっても、だからといって行動に移してしまうのはまた違います。でも、責任があるのは犯人だけではないと思っています。

 白杖と「777」の日記を見て思ったことがありました。
 オジサンが怪訝そうな顔で見たのはきっと、目の見えない人はパチンコをしない、つまりパチンコに目の見えない人は滅多にいないと思っていたからだと思います。
 しかし777が出て、目が見えない人と直接に関わった後のオジサンは、そんなこともあるんだと感じ、考えが変わったかもしれません。
 もしかして、その白杖の人も、ここも自分の居場所にできるんだと思い、パチンコに目の見えない人がいることが増えるかもしれません。
 そして、みんなの考えが変わるかもしれません。
 ただ777が出たというきっかけがあることで、こんなにも可能性が溢れ出します。
 だから人と関わるということはやはりとても大切なことで、それがない状態や、それができにくい状態というものは、とても苦しいと思います。
 誰かとつながっていることは、人間として必要なことであって、何らかの原因があってそれができにくい人にも誰かとつながっていられるようにすることはやはり必要だと思いました。


投稿者: izm | 2008年12月02日 20:49

 インターネットの普及、そして今や一人に一台以上といわれるほど飛躍的に伸びている携帯電話の普及、これらのIT機器がもたらしたことは、けしてよいことばかりではないと思っています。
確かに、IT機器の普及で生活は便利になり、世界中の沢山の人と、瞬時に・多数にコミュニケーションを図れるようになりました。
 しかしそれは同時に、今自分の身近にいる人とのコミュニケーションの希薄化を図るものでもあったと考えます。
 学校では直接話をせず、メールで会話をする子どもたち。自分の周りの友達が信頼できず、ネットの世界でのつながりだけを信じて依存する子どもたち。そして、そのまま成長し、今の時代に置いてけぼりになりつつある人が数多く生み出されている日本社会。
 こうして、貧困から来る辛さを直接誰にも相談できず、ネットの世界である種の「ハブリ」にあった人が、このような事件を起こしている可能性がどんどん高まってきているように思います。
 インターネットや携帯電話は、使い方によっては恐ろしいものになるということを知らずに使っている子どもたちで溢れかえっている今、もう一度その危険性に目を向け、手遅れになる前に伝えていくべきだと思います。
 このような事件がもう二度と起こらないためにも。
 そして、直接目で、耳で、身体で触れ合えるコミュニケーションを取って行ける社会にもう一度立て直す事が求められているのではないかと思います。


投稿者: ちむ | 2009年10月20日 21:03

確かに「あちら」よりましだから私は大丈夫と考えることはよくあります。
自分がこれは良くないなと思っていても「あちら」よりましだ、「まわり」と同じだと考えるとなんでも良いことであると納得してしまいます。
「あちら」とか「まわり」と比べることで物事の価値は決まるのでしょうか。
もっと絶対的な価値が存在するのではないでしょうか。
しかし、現代はすべてにおいて比べることで価値を決めてしまっている気がします。
そうすると絶対的な価値を見出そうとしても見出せないというジレンマがあるのでしょう。


投稿者: SK | 2010年07月21日 18:50

孤独によって精神的に苦しみ、負の連鎖によって犯罪に手を染めてしまう事件は多い。このことから、孤独とは相当人を追い込むものであるのであろう。孤独を回避する手段ははっきりとはないが人とうまくコミュニケーションをとれることが、回避するにあたってもっとも重要な意義を担っていると思った。


投稿者: リンゴ男 | 2010年07月23日 10:57

 自分の隣にすんでいる人が誰だかわからない、どんな人かも知らない。そんなようなことが今の日本には当たり前のようにいたるところで起こっています。しかし、その一方では、顔も見えない画面の向こうの相手に人生相談をしたりしている・・。
 冷静に考えると少しおかしな状態が今の日本です。今、ほとんどの中高生は自分のブログなどを持っていて、そこに自分の気持ちを書き込んでいます。「つらい」「泣きたい」など、誰が見ているかもわからないのに、その見えない誰かに助けてほしくて書いてしまうのでしょう。
 秋葉原殺傷事件の加害者も、中高生も同じ孤独感を心に抱えて生きています。身近な人に言えない「助けて」を呟き続けているうちに心はどんどん弱くなってしまいます。地域、家族、友達、学校、それぞれのコミュニティをもっと深いものにしていくことが今の日本にはとても大切だなと思いました。


投稿者: NEO | 2011年01月16日 15:12

 自分の隣にすんでいる人が誰だかわからない、どんな人かも知らない。そんなようなこ
 とが今の日本には当たり前のようにいたるところで起こっています。しかし、その一方では、顔も見えない画面の向こうの相手に人生相談をしたりしている・・。冷静に考えると少しおかしな状態が今の日本です。今、ほとんどの中高生は自分のブログなどを持っていて、そこに自分の気持ちを書き込んでいます。
 「つらい」「泣きたい」など、誰が見ているかもわからないのに、その見えない誰かに助けてほしくて書いてしまうのでしょう。秋葉原殺傷事件の加害者も、中高生も同じ孤独感を心に抱えて生きています。身近な人に言えない「助けて」を呟き続けているうちに心はどんどん弱くなってしまいます。
 地域、家族、友達、学校、それぞれのコミュニティをもっと深いものにしていくことが今の日本にはとても大切だなと思いました。


投稿者: NEO | 2011年01月16日 15:12

 私は、温かい家族だけでなく、心から認め合うことのできる友人・仕事仲間がいたならば、このような事件は起きなかったと思います。
 私も普段から「○○さんは勉強ができていいな」などと他人を羨ましがったりします。でも、その人自身になりたいだとか、その人がいなくなればいいのに、などとは思ったことはありません。それはきっと私がその人よりも優れている部分が必ずあることを知っているからです。家族や友人が、その自信を与えてくれるからです。事件の記事では、犯人にはそんな支えとなる人がいなかったように思われます。
 周りの人はそんな彼の孤独を理解することができなかったし、彼も理解してもらおうとしなかった。少しでも双方の歩み寄りがあったなら、この最悪の事態は免れたのでしょう。

 この他にも、現代社会では引きこもりなども問題となっており、周囲の人や社会との関わり方がわからない若者が多くなっています。このように地域社会から離れてしまっているのは核家族化したからだとか言われていますが、次々と変化していく姿こそがこの国の特徴なのではないでしょうか。だったら私たちも考え方を変えなくてはならないのです。
 他人同士が自然に認め合えるのではなく、これからは、努力して分かり合おうとしなければ、この問題を解決すること、同じような事件を防ぐことはできないのだと思います。


投稿者: とげまる | 2011年01月16日 22:57

 秋葉原事件の犯人に死刑が求刑されましたが、犯人を葬り去れば全て解決するような、そんな単純なものではないと思いました。現代の日本がかかえる問題が、この事件には表れていると思います。
 彼のような「あっちの世界」ではなく、自分は「こっちの世界」にいることができてよかったという考えは、学校というコミュニティの中でも見受けられると思います。一対多数によって行われる「いじめ」の中では、多数に含まれる一人ひとりは、いじめられている一人を見て、「自分じゃなくて、まだよかった」と思い、多数に身をひそめるのではないでしょうか。「こっち側にいられてよかった」と。
 「あっち側」の苦しみは、自分から積極的にその人と関わってみたり、気持ちを考えようとしないと、身をもっては実感し得ないものです。コミュニケーションをうまくとれなかったり、その機会を得ないために、自分の周囲の一人ひとりと深く接することができず、他人の痛みや悲しみを、実感を持って知ることができないことは、現代の社会の問題点だと思います。自分以外の人の苦悩や孤立を分かることができない社会は、共生社会とはいえないと思います。
 メディアで報道されている事件の、人々の受け止め方においても、「こんなことをするなんて信じられない」といった、自分には理解できない次元の人間といった見方をする人がいますが、決してそうではないということを知りえる機会を持つことが必要だと思います。

 講義の中で、宗澤先生は子供の頃、夕方になると近所の人たちが路地に出てきて皆で夕涼みをしたとおっしゃっていましたが、そういった周囲の人たちとの何でもないコミュニケーションで救われる人はたくさんいると思います。
 宗澤先生の夕涼みの話は、現代の若者の私としても、とても羨ましいと思いました。周囲の人と、気軽に接することができる、そんな機会から、人が学ぶことは多く、そこで精神的に救われることも多いと思います。
 個人を閉ざしていくのではなく、個人が開かれていくようなコミュニティを身近に持てる社会が必要だと思います。
 自分がこれから関わる地域の活動を、もっと楽しみに、積極的に行いたいと思いました。
 将来自分の家を持った時の“町内会”や子どもができた時の“子ども会”などの機会も大切にしていこうと思いました。自分から地域のコミュニティを生かせるものにしていきたいと思います。


投稿者: まろんぐらっせ | 2011年02月02日 03:19

 現在の日本(少なくとも私の住んでいる地域)の地域社会の中での人のふれあいは希薄になっていると思います。外を歩いていても、挨拶することすらないときもあります。原因としては、育った場所から進学や就職のために故郷を離れ、見知らぬ人・土地で新たに生活をはじめるというような人の増加があると思います。
 孤立する人が出ないような地域社会を築くことは難しいと思います。しかし、地域社会の中でのふれあいを活性化させるために個人が行えることは小さなこと(すれ違うときにはあいさつをすることなど)をこつこつと積み重ねていくことだと思います。


投稿者: alpk | 2011年07月13日 09:59

昭和の時代を生きたことのない私たちにとっては、平成の今の時代が当たり前です。小説やドラマの中に存在するあの時代は今の時代より地域の温かさ、繋がりがあるように感じられました。
「お隣さん」「ご近所さん」、こういった人たちとの関わりも薄くなってしまった気がします。ただ朝あいさつを交わすだけ、それでも人とのつながりは生まれます。
他の人との繋がりがなくなった時、人は自分を表現する方法を見失います。それが悲惨な事件を起こす、といった表現方法につながってしまうのかもしれません。人とのつながり、地域のコミュニティ、それらがいつのころから失われ始めたのかと考えさせられました。


投稿者: 栗 | 2012年05月07日 12:53

私の住んでいた地域は田舎だったため、まだ地域の関係が濃厚にありました。隣人や地域の人はもちろん、学校の近隣に住む方々とのかかわりもとても深かったと、今になって思います。しかし、都会になればなるほど近所との関係は希薄化しているのが事実です。
現在、都会では「ナナメ・ヨコ」の関係における支え合いがまったくないといっても過言ではなくなりつつあると思います。そのような社会では、「閉塞感」や「孤立感」を覚える人が多いと思います。
やはりもっと、ナナメ・ヨコの関係を築いていくべきです。


投稿者: こぶにい | 2012年06月06日 15:01

私もこの事件の犯人に、なんでも相談でき、頼りにできる友人、家族がいたのならこの事件は起きなかったのかもしれないと感じた。
もちろんそれだけがすべてではないとは思うのだが、もしもこの事件の犯人にナナメ・ヨコの関係がしっかりしていたなら、自分の悩みを友人に相談できていたなら、ストレスを自分の中にため込まなければ、この事件にはつながらなかったのではないのかと思う。
私も今の世の中には孤立する場面は多く存在すると思うし、誰もが孤立うる可能性はある。実際過去を振り返ってみると、周りに孤立を感じていた人がいたし、今も気づいていないだけで孤立を感じている人は存在していると思う。
私も過去のことを思いかえすと正直私も「こっちの世界」にいてよかった思っていた。今思えばなぜ私は孤立を感じている人の助けや、支えになってあげられなかったのかと思う。
この事件が起こったのをニュースで見たときに、なぜこんなことをするのかと思っていた。私もこの事件は絶対許されないと思うし、この犯人を擁護するわけでは決してないが、この犯人もささえてくれるゆうじんがいたのなら、違う選択があっただろうと思う。
だから、こういった事件がこれから起きないように、私たち一人ひとりが意識し、孤立を生み出さないように、孤立を感じている人には自ら歩み寄り、少しでも支えになれたらいいと思う。


投稿者: uryee | 2012年11月27日 19:58

 この記事でも仰っているように、多くの人は自分と他人を比べ「勝ち組」「負け組」や「あっちの世界」「こっちの世界」を意識します。私も自分が他人より劣っていると考えて物事を途中で諦めたり、劣等感を抱いたりしたことがありますが、そこで家族や友達や周りの人に話を聞いてもらい、時には意見を貰って乗り切って来ました。秋葉原事件の犯人は周囲から孤立した生活を送っていたために、ネットで自分の居場所をつくっていたのではないかと思います。交友関係が全くなかったということはないと思いますが、ネットでは孤立する心配はありません。それは、匿名で現実よりもずっと簡単に自分の意思表示ができるからです。そのネットに依存し、地域社会との関係が薄くなり、最終的には事件を引き起こしてしまったのだと思います。周囲に助けを求めることをしなければ、誰も気づかないままです。周囲の人たちが「あっちの世界」「こっちの世界」として他人を切り離すのではなく、苦しんでいる人に手を差し伸べることも必要です。そうは言っても、中々行動には移せないと思うので、皆が率先して行動できるような社会に変えていかなければならないと思いました。


投稿者: 立華 | 2012年11月29日 20:12

大学進学のために地元を離れ生活をしていますが、「孤独」「地域社会の希薄」というのを強く感じるようになってきました。高校までは、親に守られた領域の中で生活が出来ていました。しかし一人で生活するということは「孤独」の始まりともいえます。地域社会との交流を含めた生活が一気に遮断され、学校と家の往復をしている人の方が多いように感じます。大学生はバイトをします。しかしバイト仲間はお金の話が絡んでくるので、私の中では仲間とは言い切れない部分が多いです。そして、迫りくる就職活動。私は現在、就職活動中です。そのなかで、仲間だったはずの友達は「ライバル」となります。蹴落とし合い、企業から気に入られたい、そんな雰囲気が広がっています。そして、就職のためにまた土地を変えての生活が始まり、お金を稼ぐことに必死になってますます地域との関わりを閉ざしていく、そんな未来が待っていて怖いです。何もしなくても生きられるからこそ、何もしない先には「孤独」が待っている今の日本。「孤独」というのは「あっちの世界」のだれかのことではないく、誰もがもうそのレールを歩いているんだと思います。私は人と一緒に生きていたいです。「地域」が持つ力について真剣にみんなが考え、地域づくりをしていかなければならないと感じます。私は地域生活においてコミュニティーが果たす可能性を真剣に考え、自分が出来ることを実行したいと思います。(593文字)


投稿者: らら | 2012年12月09日 13:16

ブログ拝見しました。
人間が生きていく中で一番つらいのは「孤立」だと私は考えます。人間は一人では生きていけない生物だからです。精神的に一番こたえるのは自分が孤独だと感じることだと思うしそれによって、誤った行為もしてしまうかもしれません。逆に言えば心の支えとなる人が一人でもいれば今回のような事件も起こらなかったと思います。私の実家は田舎で地域とも密接に関わっているのでこういうことについて考えると「つながり」とは大切なんだなと実感します。


投稿者: ジュニオール | 2013年01月09日 23:34

いつの間にか、この世は本文通り、「勝ち組」と「負け組」に分けられてしまい、勝ち組に入らないといけないという強迫観念が強く働いているように見えます。このような強迫観念は勝ち組に入ることにすべての価値を置き、ほかの人は支えあう存在ではなく、競争しあう存在だと認識が変わり、今のコミュニティ断絶になっしまったのではいかと思います。殺人の罪はもちろん重く、許されることではないですが、人を二分化し、そこにすべての価値を置いてしまう社会の風潮にもその罪を問い、根本的な見直しが必要なのではないかと思います。


投稿者: ヒヨ | 2013年01月22日 23:36

「あっちの世界」「こっちの世界」という言葉にはっとしました。
 このような悲惨な事件に至らぬまでも、例えば学校で起こされる「いじめ」にはこのことが深く関わっていると思います。
 「庇えば「あっちの世界」に入ることになってしまう」という意識からいじめの加害者へ回る児童は少なくないはずです。
 多くの社会問題の根底にこの「あちら」「こちら」という意識が根付いているように感じられる現代社会。
 この意識を撤廃することは難しそうです。


投稿者: dm0803 | 2013年01月23日 22:08

いつの間にか、この世は本文通り、「勝ち組」と「負け組」に分けられてしまい、勝ち組に入らないといけないという強迫観念が強く働いているように見えます。このような強迫観念は勝ち組に入ることにすべての価値を置き、ほかの人は支えあう存在ではなく、競争しあう存在だと認識が変わり、今のコミュニティ断絶になっしまったのではいかと思います。殺人の罪はもちろん重く、許されることではないですが、人を二分化し、そこにすべての価値を置いてしまう社会の風潮にもその罪を問い、根本的な見直しが必要なのではないかと思います


投稿者: ヒヨ | 2013年01月24日 00:40

「勝ち組」「負け組」。周囲の人と比較し、その中で自らを定義する。私は、日本人に最も当てはまる性質であると思う。なぜならば、「恥の文化」という言葉にも表れているように我々は「他者」を意識する。そして、自分が集団からはみ出ないように意思決定を行う。「いじめ」とは、まさにこの傾向が如実に表れている現象であり、この性質を根本的に変えていくことは困難であると考える。


投稿者: まつだ | 2013年01月24日 13:45


この記事を読んで、「勝ち組・負け組」という言葉が非常に印象に残りました。
今や、一度つまずいたり失敗したりすると、輪の中や道からはじき出される世の中です。そして一度はじき出されると、そこから這い上がるのはなかなか難しいものです。
下を見ることで自分の優位性を確認し、安心する。その根幹にあるのは、「自分さえ良ければいい」という気持ちだと思います。
また、少し話は変わりますが、「勝ち組」と「負け組」という言葉は、何も社会に出た大人達の間で使われるものではないと思います。
これは、子供たちのいじめ問題にも共通する点があると考えられます。
子供版に置き換えるとしたら、「いじめる側、いじめられない側=勝ち組」「いじめられない側=負け組」といったところでしょうか。
勿論、いじめる側=勝ち組という表現は比喩として用いたもので、彼らを肯定する要因とはなりません。
しかし、自分だっていじめられたくない。そうなると、力(いじめ)で相手を支配する人間を肯定しなければ、自分も安全域(勝ち組)からはじき出されてしまいます。
自分の立ち位置が安定しているのなら、余計なことに巻き込まれたくない、関わりたくないとう気持ちが生まれ、そこから周囲に対する無関心に繋がり、巡り巡って孤独を感じてしまう人を生み出しているのではないでしょうか。
子供の時から、私たちは強い格差意識と共に生活してきたのだと思います。


投稿者: 青いネクタイ | 2013年01月25日 13:55

高校生の時先生に不意に秋葉原の事件はなぜ起きたのか意見を聞かれ、「犯人は孤独だったのではないか。」と答えた。しかし、それ以上は出てこなかった。孤独がどういうものか当時知らなかった。浪人時代一人暮らしをし、予備校にもいかなかったときに初めて孤独を感じた。その時は自分が加害者になる場合もあったかもしれない。大学に入り所属場所があることに安心した。ブログに書かれていることと同じだった。事件は安心した自分たちによって起こされていると考える必要があると思った。


投稿者: はりま | 2013年01月26日 13:54

 初めての書き込みとなります。
 私は、ブログの本文の中で「自立と共生」という言葉が出てきましたことについて、現代日本の「上の人々」の「下の人々」の捉え方が、この悲惨な事件を引き起こした大きな原因となっていると感じます。
 つまり、社会の中で我々が「健常だ」と考えている人の「思い込みの利権」を維持するための矛先として、弱者がいるという構造をなしているということです。
 考えてみれば、この「強者思想」により引き起こされる問題は、沢山あります。例えば、「健常者と障害者」の関係や、「生徒と教師」の関係などの「タテ関係」がそれに値します。
 今の社会というのは、バブル期にあった「絶対の安全」という物を保障しきれないという状態にありながらも、社会の中の多くの人々はそれを求めています。逆に言えば、その「安心感」こそが、弱者への見下しにつながっていると思います。このような「上の人々」の考え方の矛盾に気が付かない限り、この問題の抜本的な解決にはならないような気がします。
 しかし、日本の福祉システムは(人口の問題もありますが)欧米諸国と比べて進んでいない、前時代的システムのままなのです。このような「矛盾」が、日本の社会の中に蔓延しているように感じます。「一度の失敗」で人生がダメになるという考え方がその例なのではないでしょうか。だから、ある人を「弱者」と見ることにより「みせかけの安心感」を得ようとするのではないでしょうか。これは、「いじめ問題」にも同じように言うことができます。
 「明日は我が身」という言葉がありますが、その不安定な社会に対する不安などのネガティブな側面を許容して、その上でみんなが(社会一丸となり)他者の関係を見直す必要があるのでは、と感じました。
 長文誠に失礼しました。


投稿者: ひよし | 2013年07月02日 10:06

この記事で秋葉原の事件を知り、最近起こった山口の連続殺害事件と似ているなと感じました。山口の事件では父親が亡くなり、地域の方ともトラブルによってかかわりが少なくなり、自分だけ阻害されているように感じていたとニュースで伝えられていました。どちらの事件も近くに相談できる友達や知り合いなどコミュニケーションのとれる人がいれば、防げた事件だと思いました。阻害といった面で考えると、宗澤さんの講義の中であった障がい者の虐待の話にもつながると思います。社会が生きづらい世の中を作り、また制度も整っていないので社会の中から孤立していき虐待が起きてしまうのではないかと思いました。孤立というものは本当に怖いなと思いました。最近、孤独死や孤食、1人世帯の増加など孤独に関連するワードを耳にすることが多いような気がします。ですから、これからもっとこのような事件や虐待は増えていくような気がします。なので、この記事にも書いてあるように地域コミュニティのあり方を考えなければならないと思いました。
また、この記事を読んでそうだなと思うことがいくつかありました。私も人は誰しも自分より劣っていると人を見ると優越感にひたったり、安心したりすると思います。これが孤立を生み出す第一歩につながると思います。そして、からかってみたり、時にはいじめにつながったりするのだと思いました。他にも他者との基本的な接点まで喪失しているという話に共感しました。ご近所づきあいなど身近な人とのかかわりも少なくなっていると思う。また、知らない人にはついていかないなどといった言葉に示されているように、物騒な世の中になったがために他者との接点が少なくなっている気もしました。


投稿者: むーみん | 2013年07月27日 16:29

はじめてこのブログ記事へのコメントをさせていただきます。五年経った今でもこの事件は大きな爪痕が残っていますね。ネットでの書き込みで、殺人予告が直接大きな事件になったのは、この事件が先駆けとなってしまっているような覚えがあります。ネットでの書き込みというものは、やはり自分自身の顔が相手に特定されないため、どうしても自分を大きく見せてしまいそうになりがちです。そういった意味でも彼の気持ちを増幅させてしまったのではないかと感じます。また、母親からも酷い仕打ちを受けていたというのはとても悲しい事実でした。どんなに孤独でも、どんなに辛いことがあっても、帰る場所がある。安らぎの場所があるっていうのは、大切なことです。しかし、彼にはそれがなく、孤独だった。どうにか救えなかったのだろうか、と思うと本当に心が痛みます。自分の記憶ではこのころから、ネットでの事件が増えていった覚えがあります。やはり、同じ気持ちを抱えている若者を多かったのでしょう。五年経った今でも生活の中心になっている。ネットワークは、本当に便利な性能と裏腹に、大きなリスクや罠がしかけられています。まさに、今回の秋葉原の事件は、現代社会の大きな問題となっている、「孤独」と、「ネットワーク」が重なった象徴的な事件でした。現在でも、孤独死やネットによる殺害予告などが相次いでいます。助け合う気持ちを大切にし、今後こういった事件が減っていってほしいものです。


投稿者: おーりー | 2013年07月30日 12:19

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。

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プロフィール
宗澤忠雄
(むねさわ ただお)
大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

【宗澤忠雄さんご執筆の書籍が刊行されました】
タイトル:『障害者虐待 その理解と防止のために』
編著者:宗澤忠雄
定価:¥3,150(税込)
発行:中央法規
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