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和田行男の「婆さんとともに」

時間の感じ

今年も、もうはや2月。

和田行男の「婆さんとともに」2012年2月6日
ふくわーうち

 僕にとって1月はあっという間に過ぎ去った感があるが、皆さんはどう?。
 気晴らしに数えてみると、今年も残り330日。それを「まだ」って思うか「もう」って思うかはそれぞれやけど、時間は淡々と流れていく。

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 時間を感じるのは何故なんやろか…学生の頃に考えたことがある。僕なりの結論は「人は死の意識との相関関係」で感じとるのではないかと。
 もしも人に「死」という概念が存在しなかったら「あっという間に時間がたった」なんて感じないのではないか。
 子どもの頃は死を考えることもなかったし、時間を感じることもなかった。ただひたすらに「今」を生き、あるかないかもわからないままにあると思い込んだ「明日」に向かって生きてきた。
 僕が時間を感じるようになったのは、早期には「夜がきたら寝る」にはじまり、「宿題の提出」とか「決まった電車に乗る」とか「試合に出る」とか「卒業する」といったように「区切り」が生活の中に意識化されてきてからではないかと思う(今ではその記憶はないが)。
 つまり「いついつまでに」といったように時間に制約を受けることを意識すると時間の感じ方は明瞭になるということか。
 それが学生の頃に「死」という避けて通れない「制約」を何かで感じ・考えたから「死との相関関係で時間を感じる」と思ったのだろう。
 さて、前段階が長くなったが、介護報酬で「看とり」に対して光を当ててきていることについて、こういう風に考えている和田の思考から考えてみたい。

 看とりに光を当ててきた背景を突きつめて行くと「看とりまでおいてもらいたい」と「看とりは手間暇かかるのだから、それに対する手間賃をよこせ!」という声とが重なってのことだろうが、そもそもから考えると、事業者が「看とり加算」を求めること事態おかしな話であり、それに応じる施策もどうかと思う。
 誰もが産まれたときから「死」に向かっており、産まれた直後から誰かの手を借りなければ生きていけない。
 それは成長して自立した後でも何かに対して誰かに受ける「支援」というもので、支援はいくつになっても「必要なことを・必要な時に・必要な分」であることに変わりはなく、子どもの頃と大人になってから違うのは「支援の量と質」だけである。
 看とりとかターミナルという時期はどういう時期かと考えると、誰もが産まれた瞬間から持ち合わせる「いつか死ぬ」ということに変化が起こったわけではなく、「そろそろ死ぬ」「余命あと○○」というように「死が時間軸で見えてきた」ということで、それまでの時期にはそれまでの時期に必要な支援があるように、その時期にはその時期に必要な支援があるということになる。
 介護保険法は「有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるように」と目的で謳い、それを世間では「自立支援」なんて言っているが、看とりに加算をつけるというのは「看とりはそれとは別物」で「それよりも手間暇かかる」と言っているのと同じことになり「有する能力に応じ」を否定しかねない。
 要介護1であれ要介護5であれ、死が見えていようが見えていようまいが、そこにかかる支援に「手間暇レベル」をつけるのはナンセンスで、ある大まかな節として「要介護状態にある」「自宅での生活を続けるのが困難である」ということであれば、あとは度数ごとに支援の必要な量と質を決められるはずもなく、その人に対して必要に応じて支援をしていくだけのことだ。
 特養、通所、グループホーム、特定施設など「箱もの事業」(箱をつくって人をもってくる事業)の人員配置基準を大枠3:1(利用者3人に対して職員1人というように)というように決めてはいるが、要介護度数によってケアプランの数が決まっているわけではなく、職員のかかわりの質量が決まっているわけでもない。一人ひとりの状態やおかれている状況によって支援の質と量は決まっているはずである。
 つまり、事業所として決められた人員配置=手間暇かけられる支援量を「要介護度数や支払い金額に応じて配分する」のではなく、「有する能力に応じて配分している」のだ。
 どうも「看とり」とか「ターミナル」という言葉がもつ魔力や触れてはいけないタブーに目くらましを食らいがちだが、「看とり期よりも、移動能力自力で活動性の高い婆さんのほうがよほど手間暇かかった」「看とりよりも、婆さん同士が一緒に調理をすることを支援するほうが手間暇かかった」というのが実感として聞く話であるが、でもそれとて「こちらのほうがこちらよりも」の土俵で話をしていることであり、それらを集めて煮詰めていくと、やっぱり「必要に応じて」に辿り着く。
 あわせて、看とりのための人員をプラスで求めているわけではないのだから、看とりに手間暇がかかるということになれば、その手間暇分は他の人への支援量から割いて当てているということになり、手間暇賃だけ求めるのも加算するのもおかしな話である。手間暇がそれまでよりかかるからその分をよこせ・支払うというのなら、増やした支援量(人員配置のオーバー分)に対して加算を生じさせるべきだ。
 ひどい事業者が存在する中で、実績に対する加算体制を制度化したい気持ちはわからなくもないが、生活支援+療法で特別な療法に対して加算を加えるのは理解できるが、看とりは時間軸上の課題であり、当たり前のように生活支援(介護報酬で言えば基本報酬)の中で考えるべきことで、看とり期に必要な医療があるとしたら、それは医療に対する対価とするべきではないか。
 ヒトの最大寿命は115年から120年と言われているが、そうだとしたら114歳数か月の人は病気がなくてぴんぴんしていても「学問的には看とり状態ではないか」「ぴんぴんころりの看とり」ということから議論をしてもらいたいものだ。
 僕は、ヒトは産まれたときから死ぬまで常に看とり期にあると考えており、看とり期を報酬上で特別な課題とは考えていない。
 考えているのは手間暇賃ではなく、時間軸上に「死」が明らかになった人との過ごし方について職員に必要な事柄があるということだが、それさえも特別なことではなく、高齢者や疾病のある方々と24時間365日体制でお付き合いさせてもらっている職業人としては当たり前のことととらえている。


コメント


 ブログを読ませて頂き気付かされました。看取り・・・ターミナル・・・終末期・・・いろんな呼び方がありますが、どれもしっくりとこない。そう思いながも現場職員には、色々と問題提起してきました。いつからをターミナルと言うの?それは誰がきめるの?看取りは、看取りと決めた日から、看取りになるの?終末期になると、その人の何が変わるの?
 まぁ、嫌な管理者でしょうね。人は必ず死ぬのですから、その当たり前の事を当たり前として受け入れる勇気が必要なのかな。それには職員の心の準備が必要なので、大義名分(ターミナル)をつけるのでしょうか。となると、加算算定は事業所の物では無く、現場職員に還元すべきかと考えます。
 ここで、忘れていけないのは算定分はご家族からもお金を頂きます。ならば、サービスとして捉えると、ご家族としては、今まで以上のお金を払うのだから最後は、しっからりと看取って下さいとよ職員さんとなると考えます。
 ターミナルだからと言って、介護職が何か特別な事をする訳ではなく、今までと何ら変わらずその人を支援する事だけの話と考えると加算算定は、しっくりときませんね。
 逆に算定分の実績報告をする様にすればどうでしょう?処遇金の様に、算定分はこのように使いましたみたいに。そうすれば、明朗会計でご家族、職員、保険者が納得。何より、天寿をまっとうした人が喜んで貰えるかもしれません。


投稿者: 博一 | 2012年02月07日 12:43

男性でも女性でも、どんな性格、どんな病態、人生のどの地点にいる人にでも。ひとりひとり違う全ての入居者さんに対して等しく、私達が提供しているものは

「有する能力に応じ必要に応じた支援」。この仕事の、素晴らしく唯一の「商品」だと考えています。だから、単に状態によって商品の値段が変えられる訳はなく、加算されるには相応の理由があるはずで、ちゃんと知っておく必要があると思いました。


投稿者: 夜勤ヘルパー | 2012年02月07日 16:43

手間隙かけてより良いものを…はこの仕事も同じだと思う。ただ「この人には手(間暇)がかかる(かける)」ときくと、ひどく違和感を感じます。

考えると、一定の支援量の枠の中に区分けしている制度も、「手間がかかるひと」「手間がもっとかかるひと」という捉え方にもみえてしまう。

法(有する能力に応じ)で言っていることと、制度でやっていることのピントがあっていない気もするし、その不具合が現場で働くひとりひとりの意識に微妙に影響しているとも思えます。職業人としての意識が上げられるような、仕掛けある仕組みを期待。


投稿者: 桃まんじゅう | 2012年02月08日 08:18

明日死んじゃうかも知れないのは自分だって同じこと。確率でいうと、病気を抱えた年寄りはいつどうなってもおかしくはない。と思って職にあたっている。可能な限りキープ、状態かわれば臨機応変に対応するだけ。看とり加算がある正当な理由を知らないのは専門職としてまずいとおもう。(私のことね)
だって、さっきまでピンピンしてたのにコロっと逝ってしまったばば様に、ばば様に応じた最期の最期まで、ピンピンできるようにとおこなってきた支援は、同じように応じて、看とり期におこなう支援より評価されていないってこと?ちがいます?
ふつふつと怒りが。。。


投稿者: ばーばら | 2012年02月08日 11:18

痰の吸引のように、特別な研修を受けた職員が必要になることに対しての加算。ではなかったんですか?(勉強不足ですみません)
「散歩付き添い一回いくら」みたいなオプションがついてるという施設には、目が飛び出たけど、似ていないこともないですよね


投稿者: すみこ | 2012年02月08日 11:37

 かつて和田さんと飲みの席でご一緒させていただいたものです。和田さんのスキンヘッドの写真を拝見して以来このブログの読む専門になっています。
 看取りについては研修の機会で和田さんに「グループホームでのターミナルケアについてどう思いますか?」と質問したことがあります。そのときの答えと今回のブログの内容にブレはない気がしましたが、やはり実情はきつい。
 和田さんが現場にいて看取りの実際を経験した上でのコメントならば、より現実的なお話だと感じますが、率直な感想は…伝えるのが難しいです。
 看取りについても介護職に求められるばかりで報酬を出すからやれ!と言われているような気がします。人生の最後の扱いがそれで良いのか?いつまでも介護は奉仕ではいけないと思うのは、わたしだけでしょうか?
 4月の法改正については怒りを通り越しています。初コメントなのに暴言を吐き失礼しました。またいつか和田さんと乾杯できる日を楽しみにしています。


投稿者: T | 2012年02月10日 00:22

何に対して支払われる加算なのか、わからないままできないよなぁ…と、なんとなく頭から遠ざけていた「看とり」。

支援を受けている人全体、又は支援を提供する側全体を対象としている初期加算や医療連携加算と違い、看とり加算は、ある一点の状態にある人とこの状態にある人へ支援を提供する側を対象にしていますよね。

法で謳っている「有する能力に応じて…」に普遍的な平等性と他の職にはない魅力と誇りを感じています。
そこに関わるお話しだなあと今回は読んでいて感じています。


投稿者: 夜勤ヘルパー | 2012年02月10日 10:28

法改正、残酷な日々、いかにも法は優しく見えますが、過酷な労働。法を作る方々は介護の現場を知っているの?と、言いたくなります。やれ、加算、減算と、何の為か、だれの為かわからなくなって来ました。
一ユニット、夜勤者(21〜6)一人、日勤者(6〜21まで8時間勤務3対1〕何人で回せばいいのか、教えて下さい。
法改正あと、勤務表作りを任せられ減算になり、パートを雇いましたが、退職。なんかわからなくなりました。雇えば、雇用賃金で、見合わないし、2ユニットとも最低の人員では現場は悲鳴をあげるし、質の向上、自立支援に、一生懸命取り組んでいるのに、介護員は頑張って居るのに介護職員処遇改善策費なんてうわつらで実質は、報酬さがってしまってる。介護の仕事は大変だけどだいすきだから何とかキツくなる勤務表でも続けたいと思っています。すみません、おねがいします


投稿者: 勤務表に涙 | 2012年10月02日 01:16

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プロフィール
和田 行男
(わだ ゆきお)
高知県生まれ。1987年、国鉄の電車修理工から福祉の世界へ大転身。特別養護老人ホームなどを経験したのち99年、東京都で初めてとなる「グループホームこもれび」の施設長に。現在は大起エンゼルヘルプでグループホーム・デイサービス・小規模多機能ホームなどを統括。2003年に書き下ろした『大逆転の痴呆ケア』(中央法規)が大ブレイクした。

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