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佐野卓志の「こころの病を生きるぼく」

結婚帝国―女の岐れ道(part4)

 前回同様、『結婚帝国―女の岐れ道』(上野千鶴子、信田さよ子著、講談社)を読んで思ったことをまとめる。

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 本書の「「カウンセラー無用論」を俎上にのせる」という章に、「ピアがあればカウンセラーは不要?」という節がある。
 ピアとは、ピア(仲間)カウンセリングのことで、ムゲン内でもやられているし、ムゲンの掲示板でもやっている、病者による病者に対するカウンセリングだ。ほかにも、ギャンブル依存やアルコール依存をはじめ、摂食障害やACの自助グループでやられていること、あとフェミニストカウンセリングなどもピア・カウンセリングだろう。
 その重要性が語られていて、上野さんは「わたしもピアがあればわたしたち(専門家)はいらないんじゃないかと、ずっと思ってきました」と述べている。対して信田さんは「いずれそういう時代がくるかもしれない。ただ多くのピア•カウンセラーを見ていて思うのは、今のところ、自らの経験を相対化するというのは、とても難しいということです。ピア•カウンセリングの問題点は、そこですね」と言っている。ぼくもこの相対化が行われないと、自分の体験に基づく「確信」から、相談を受けたときに、「こうするべき」と人をコントロールしようとしてしまいがちだと、経験から思う。
 ぼくは以前、自分の体験から「統合失調症の発症のきっかけはストレスだ」と主張して、人にもそう言っていたことがある。しかし「家庭もよく、ストレスもなく自然に発症した」というピアの言葉から、自分の確信を修正せざるを得なくなった。「発症のきっかけは人によってさまざまである」と。こういう自分の体験の相対化は、ピア・カウンセリングをやっていて、ピアから学ぶことが必要なことだと実感している。しかし、自分なりの「回復モデル」に対する自信を持っているので、「ぼくの境地にまでおいで」と鼻持ちならない先輩面をすることもあるし、医者を批判して「主治医を変えるべきだ」とも言うこともある。しかしこれも「寄り添う」という姿勢から逸脱したものであったと反省する。

 例えば、ぼくの人生観からすれば、親と別居するのは自明のことだけれど、親と同居して落ち着いている人、長期に入院して病院内で落ち着いている人に、なかなか「一人暮らしをしてみれば?」とは言いにくいものだ。言うこともあるのだが、わざわざ進んで一人暮らしの孤独を味あわなくてもいいような気もする。でも結果として、孤独や寂しさを心底味あわないと、本当の人生ではないような気もするが、寂しさに絶えかねて依存症に走ってしまう人もいそうだし、睡眠が不安定になり病気が再発してしまう人だっているだろう。
 病院で長期に入院して落ち着いている人の退院支援について言わせてもらえば、ピアの退院支援員を求めているようだが、ぼくは積極的にかかわる気になれない。他人の人生に責任などとれないからだ。明らかに、退院したらヘルパーや訪問看護を使っても、今より「厳しい」生活が待っているだろうから。国の政策だからというなら、長期入院者全員を退院させるべきだ。支援者が勝手に退院できそうな人を選別すべきではない。退院してどうしても地域でなじめなくて戻ってくる人を、病院が暖かく迎えてあげるべきだろう。退院と入院を繰り返す人も多いかもしれない。

 アルコール12ステップの始めにも書いてあるけれど、「自分は無力だ」ということはピア•カウンセリングの基礎のような気がする。人をコントロールしようとしない。つい、仲間だという気安さから気をつけないと、人との「境界線」を軽々と踏み越えがちになり、傷つけ合ったりすることもあるのだろう。
 ただ、ピア•カウンセリングは歴史も浅く、理論はおろか、技法さえ確立してはいない。自分自身を振り返って、「自分のぎりぎり経験によって培われた人生観まで、本当に相対化できるものだろうか?」「自分の人生を他人事のように冷静に眺められるのだろうか?」「自分が骨身を削って体得した経験を本当に相対化できるのだろうか?」と疑問を感じる。基本的にはピア・カウンセリングの原則は「批判し合わない」とか「聞きっぱなし」とかだろうとは思うが、ぼくはついつい思いついた自分の言葉を返してしまう。「自分はピアであろうとも、他人のことを何も知らない」ということも十分意識したうえで、つい口をついて出てくる言葉なら相手に届くのかもしれない。

 行政のピア•カウンセリングの講座に出てみると、カウンセラーですらないファシリテーター(案内役らしい)という健常者が、「まずは気分調べ、次は何」と指示をしている。場を盛り上げるのに必要なのかもしれないけれど、「これはおかしいのではないのか」と素朴に思う。

(part5に続く)


コメント


 ピア・カウンセリングはとても興味がありますがとても難しいものなのだろうなと感じています。
それでなくても、PSWの病院実習のとき指導者に、私が当事者の身内だという意味から、実際現場に出たときに、他の当事者からとてもうらやましがられる存在になるから、場合によっては伏せておいたほうが良い場合もあるといわれました。多くの当事者は家庭を失っている人が多いからとの事ですが…。
そうかもしれませんが、とても複雑な気持ちになりました。当事者、またその身内だからこそ出来る何かがあると思うし、その出来る何かを伸ばせていけたらなと思う自分は、その立ち位置にとても困ります。


投稿者: たんぽぽ | 2010年05月27日 22:13

 当事者こそ、常に現実を受け入れざるを得なくて、受け入れているのだから、隠す必要はないとぼくは思います。オープンにしたこにより、出来ることの幅は広がるのではないかと思います。


投稿者: 佐野 | 2010年05月28日 20:53

「当事者こそ、常に現実を受け入れざるを得なくて・・・」まさにその通りだと思います。「隠す必要はない・・」「オープンにしたこにより、出来ることの幅は広がるのではないか・・・」、とても勇気付けられるコメントありがとうございます。昔、当事者である主人が荒れていた頃、毎夜のように家具を壊していたとき、「きたきたきたー!」と幻聴のささやきの合図?によってか物を壊して、でもそのときの言い訳は、物を壊さないと自分の身体が壊れるといっていました。つらかったのは本人だと思います。
 でも、一生懸命、体裁をつくろうとした私は、ただ、周りにばれないように行動していました。これがかえってこじらせたのかなと思うし、そういうことは今にしてみればたくさんあります。仕事も失い、借金もして、なにもかもだめになって、そして家庭も離婚の危機にも遭遇して、行き着くとこまでいってから、相談していくきっかけも出来、でもその肝心の相談機関にうまくつながるのにも数年かかりましたが、何とかかんとか平和な?日常を今は手に入れることができました。
 でも薬を飲んでいる本人の気持ちは、以前と比べようがないほど穏やかになり、感情の半分を取られたみたいで医者には幻聴はあるものの、いらいらしなくなったといってますが、その薬の効き目に複雑な家族(私)の気持ちがあり、でも、だからこそ、当事者にとってどんな支援が必要かをしりたいし、薬だけ飲んでよいというのではなく、もっと精神科リハビリというものを理解し、SSTとかいろいろ実践できるようになって、なんというか、主人がもっと自分の感じていることを表現でき、もっと自分の人生を楽しめるようになって欲しいから、いまの私はまた、がんばる気持ちがおきるのだと思います。
 そしてその経験や知識とか、他の当事者やその関係者にも役に立つことがあれば、提供していきたいと考えています。でも、生活を支えるほうが主になってしまって・・・、でも佐野さんを見習って、自己実現に向けがんばります。


投稿者: たんぽぽ | 2010年05月29日 21:41

 ぼくは自分では自己実現してはいないと感じています。ムゲンのオープンも発病前の孤独地獄から抜け出すためでした。病とともに生きてきて、やっと晩年寛解しました。統合失調症は治る病気だと大きな声で言いたいです。
 しかし、これでやっと普通の人のスタートラインでした。一生の仕事だとか今から新たに探すには、年を取りすぎたな、と感じています。出来ることと言えば、ムゲンでピアとして相談に乗れるかな、ということです。
 ぼくが晩年寛解していると言っても、自分のこころのとらえ直しと癒しなしには、クスリだけでは達成できなかったと感じています。
 自分の感じていることを態度で表現するのではなく、できれば、言葉にできたほうがいいと思いますね。


投稿者: 佐野 | 2010年05月31日 15:28

 「自分のこころのとらえ直しと癒し」・・・主人も私も自分と向き合うのが下手なもの同士、これからゆっくりお互い自分自身とも向き合って共に歩んでいきたいものです。
 「自分の感じていることを態度で表現するのではなく、できれば、言葉にできたほうがいいと思いますね」本当その通りです。私自身も、主人に関わらず、子育てをしていく中で、子どもに自分の想いがうまく伝わらなくていらいらしてつい怒鳴ってしまうことがあります。いけないいけないと思いながら、子どものことを理解しなくてはと思いながらも、その思いに寄り添うことが下手な私には、とても難しい課題です。
 はずかしい話ですが、私は小さい頃からかんしゃくもちだったようで、感情でその場を押さえ込もうとする傾向があるので、言葉で表現出来るようになれば、いいなとつくづく反省もしながら感じるところです。
 いつも、勉強になる話、ありがとうございます。


投稿者: たんぽぽ | 2010年06月01日 20:52

 怒られたか、好かれたかは、内容より言い方の方が印象に残ると思います。いらいらしないように常に余裕を持つのは難しいことですが、やはり余裕を目指して、あまり高い目標なら、下げればいいです。
 ぼくも小学生の頃、よくお友達を噛んでいて「噛みつきブラッシー」と呼ばれたこともあります。ADHDのうえに虐待されたのが原因と思います。ぼくの言語の獲得は人生の後半になってからですね。


投稿者: 佐野 | 2010年06月02日 19:29

ありがとうございます。がんばってみます。


投稿者: たんぽぽ | 2010年06月03日 20:15

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。

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プロフィール
佐野 卓志
(さの たかし)
1954年生まれ。20歳(北里大学2回生)のとき、統合失調症を発症、中退。入院中、福岡工業大学入学・卒業。89年、小規模作業所ムゲンを設立。2004年、PSWとなる。現在、NPO法人ぴあ、ルーテル作業センタームゲン理事長。著書に『こころの病を生きる―統合失調症患者と精神科医師の往復書簡』(共著、中央法規)『統合失調症とわたしとクスリ』(共著、ぶどう社)。
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