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佐野卓志の「こころの病を生きるぼく」

精神病とモザイク(part1)

 ドキュメンタリー映画『精神』を観た。第59回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式招待作品で、ほかにも方々の映画祭のドキュメンタリー賞を受賞している作品だ。
 一般の映画館にかかる作品ではなく、ぼくもインディーズ系の映画館で観た。それでもドキュメンタリーとしては観客が多く、異例のヒット作のようだ。
 ぼくが観た映画の感想は、「ムゲンの日常とそう変わりはない。同じようなものだ」というものだが、犯罪報道でしか精神病者を知らない一般の人にとっては、映画にみられる精神病者の日常には衝撃があったかもしれない。「精神病者って意外に普通じゃないか!」という衝撃だ。
 しかしぼくにとっても衝撃だったのは、顔を隠す「モザイク」を初めから終わりまで出演者全員に対して一切使っていないということだった。おかげで非常に風通しのいい、病者の日常を描いた映画に仕上がっている。そしてあくまで、必要最低限以外は説明も入らない映画である。効果的な音楽も一切使われていない。だから観た人は、病者自身の語りに没入でき、名前をもった個人の病者と対面することになる。

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 「観察映画」とテロップに出ていたのが多少引っかかったが、決してガラスで隔てられたカメラで精神病者を観察する映画ではなく、というか最初は監督もそういう意図で撮り始めたようだが、当事者がカメラをもつ監督にどんどん話しかけてきて、インタビューの場面がいっぱいできてしまったということだ。
 次に紹介する本の中で監督は、「参与観察」という言葉を使っているけれど、まるでクライエントの言葉を引き出すカウンセラーの立ち位置を思わせる。撮影後、気の遠くなるような編集作業を経て、一本の作品として仕上げなければならない監督としては当然の立ち位置かもしれないけれど、監督はどこまでも対象との壁をなくそうとは思っていない。プロ意識というものかもしれない。壁をなくすと、「ミイラ取りがミイラになってしまう」と表現している。監督の奥さんも撮影に参加しているのだが、本によると「撮影が進むと「正常」ということが分からなくなって、ここの主治医にかかるようになった」んだそうだ。

 さて、監督の想田和弘氏は撮影の裏話や哲学的な話題までを含めて、一冊の本として出している。『精神病とモザイク―タブーの世界にカメラを向ける』(中央法規出版)である。以前このブログでも取り上げた、斎藤環氏の『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』と同じ、同社のCuraシリーズの一冊である。
 本の中で想田氏は、自身のドキュメンタリー作法について、次のように述べている。

 モザイクは対象に対する偏見や恐怖、タブー感をかえって助長する。モザイクをかけた途端に、その作品は(おどろおどろしい)お化け屋敷映画に堕する宿命にあるのである。それに、モザイクが守るのは、被写体ではなく、往々にして作り手の側である。それをかけてしまえば、できた作品を観た被写体からクレームがつくことも、名誉毀損で訴えられることも、社会から「被写体の人権をどう考えているのか」と批判されることもない。要するに、被写体に対しても、観客に対しても、責任を取る必要がなくなる。そこから表現に対する緊張感が消え、堕落が始まるのではないか。

 テレビのドキュメンタリー番組では、プロデューサーが作った通りのシナリオにしたがって必要な場面を撮っていく。インタビューがシナリオ通りでなければ、何回も録り直しだ。ぼくもテレビのインタビュー番組に出たことがあるが、10回くらい同じセリフの録り直しがあった。プロデューサーのシナリオ通りのインタビューが撮れないと、やらせインタビューだってする。あるマンガ家が、シナリオ通りにしゃべらないといけないことに怒って、自分のブログでインタビューのやらせをぶちまけていたことがあった。いかにテレビのドキュメンタリー番組にプロデューサーの「小説」が多いかということか。

 さて、撮影するにあたっては、その場でアングルに入るすべての人から撮影許可を取らなくてはならない。映画撮影2日目でピンチを迎えた。

 その日僕らは、パステル作業所で、ゲームに興じる患者さんたちを撮影していた。すると、部屋にいた五○代くらいの男性がいきなり立ち上がり、カメラを構えている僕に向かって、こう怒鳴ったのである。
 「あんた、なにやっとるんだ!? こんなことして、いいと思ってんのか!? いきなりカメラを向けられて、どれだけ心に傷がつくと思うんだ!? とにかく、もうやめろ!」
 僕は男性に対しても、当事者である彼の息子さんにも、カメラは一切向けてはいなかった。なぜなら、彼らは僕の申し出に対して、初めにはっきりと「ノー」と言っていたからである。男性は次に院長の息子さんであり、窓口となってくれていた真也さんに大声で詰め寄っていた。
 撮影を諦めて機材を片付け始めたときに、真也さんは少しもたじろぐことなく、冷静にこう言われた。
 「まあ、ある程度のリスクは承知の上で、みんなで受け入れを決めたことだしねえ。撮られとうない人は撮られんでええわけじゃし、映画に出るかどうかは、それぞれご本人が決められることじゃからねえ。私はそれでええんじゃないかと思っています」
 男性は引き下がらざるを得なかった。そして真也さんが僕に言った言葉は、またもやぼくの予想を裏切った。
 「まあ気にせんで、どんどん撮影を進めてください。覚悟の上でこっちは引き受けとるんです」
 これで撮影中止は免れたが、真也さんはタダモノではない。昔真也さんは某新左翼系の団体で,活動家をしていた過去があるそうである。やはりタダのシロウトではなかった。

 実はぼくもわりと最近、似たような経験をした。ぼくが愛媛新聞に精神病者として、でかでかとムゲンの写真とともに載ったときのことである。父が「ほかの病者とまったく区別がつかない。おまえはPSWであり、理事長なんだから、それらしく写れ」と説教してきた。あまり反論しないで、ずっと聞いていた。「息子のかっこいい姿を見たい」というのも、ある意味親心だろうとは思うが、父の差別心を見てしまった思いだ。
 今度は母がやってきて言った。「あんまり新聞で精神病者と言わないように。親戚の手前もあるし」などと言うので、一言「それが差別です」と言い返した。精神病者だから息を潜めて、ひっそりと暮らすべきだという「差別」が、身内から起こったことに正直うんざりした。他人からの差別として何かを言われたとしても、言葉は激しくても根が浅い。それに比べ、発病以来ずっと付き合ってきたはずの身内の差別は、何と根が深いのか!
(part2に続く)


コメント


 僕も,精神科をテーマに作品作りをする映像作家です。
 僕は以前,絶対にマスクはかけない,と主張してきました。でも、最近は,そんなことどうでも良いんだ。要は,無事撮影が出来ればいいや,と思っています。
 だから、いまの僕の作品の半分くらいはぼかしがつきます。まあ、テレビ屋さんのやらせは,論外ですが。
 でもね,彼らも商売で、大変なんですよ。そうしなければ作品作りが出来ない彼らに,私は大いに同情の余地を持っています。


投稿者: 中島太一 | 2009年11月16日 10:14

たぶん「精神」は膨大な両のフィルムを撮影した中から、ちょびっとを編集したんと思いますが,普通の映像作品ではそんな贅沢な撮り方はできないのでしょうね。


投稿者: 佐野 | 2009年11月19日 00:32

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。

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プロフィール
佐野 卓志
(さの たかし)
1954年生まれ。20歳(北里大学2回生)のとき、統合失調症を発症、中退。入院中、福岡工業大学入学・卒業。89年、小規模作業所ムゲンを設立。2004年、PSWとなる。現在、NPO法人ぴあ、ルーテル作業センタームゲン理事長。著書に『こころの病を生きる―統合失調症患者と精神科医師の往復書簡』(共著、中央法規)『統合失調症とわたしとクスリ』(共著、ぶどう社)。
ムゲン http://www7.ocn.ne.jp/~lutheran/
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