ページの先頭です。

ホーム >> 福祉専門職サポーターズ >> プロフェッショナルブログ
佐野卓志の「こころの病を生きるぼく」

自殺について(part2)

 友人や身近な人たちが悲しむということに気づくこと。自殺して周りに悲しみを強いることは、自分のワガママではないのか? 「自分の生死を自分で決めてなぜ悪い」というのもそうかもしれないし、尊厳死などまさしく「自分で生死を決める」ことだと思うが、周りに強いる悲しみは自分の予想を超えて大きい。既遂、未遂にかかわらず、一つの自殺によって、心理的影響を受ける人は、周囲に5人いるといわれている。有名人ならもっとだろう。時には周りの人のトラウマにもなりうるということは、自殺を考えている本人は普通わからない。part1で書いた「自分は何も知らない」ということだ。
 「自分の頭の中が小宇宙だとすれば、他人の頭の中にもまたまったく未知の小宇宙」だ。他人の小宇宙をつぶさに知ることはいくらコミュニケーションを深めても無理な話だが、他人から「愛」という深入りをされていることも知りようがない。身近な人の物語は、自殺志願者を含めた周囲の人をすべて組み入れている。でも自分がどれほどの深入りをされ身近な人の物語の構成員になっているかということを、「何も知らない」。

続きを読む

 またぼくも過去そうだったが、「愛される資格などない」「自信などない」という思い込み、自尊心のなさが、身近な人から愛されている現実を受け入れ難くもしている。そういう自殺志願者には、「死んだら寂しいです、悲しいです」と、一言こちら側の本音を漏らせばいいのかもしれない。親が自殺で亡くなった「自殺者の遺族の会」の本などで、いかに近親者の自殺が遺された者にとって正面から向き合いがたく、長く尾を引いているか、最近になって語られ始めている。病者で母で、子どもを残して自殺する人もいる。子どもを遺して母が死ねば、究極のネグレクトだろう。だからといって道連れに心中すればいいということでは、決してない。

 しかし「死」でいっぱいになっている自殺志願者は、他人に愛を語られたり、頼られていたりすることはうっとおしいかもしれない。釈迦も「自己ほど可愛いものは存在しない」と言っているし。
 死を決意してしまうと、頭の中が死でいっぱいになり、「夢中」になってしまい、人のことなど考えない。思いついた手近な手段で無計画に遺書も残さずに、実行してしまう場合が結構多い。「今夜の見たい番組が見れなくなる」とか考えたりして。もちろんさまざまな人に遺書を郵送したりして計画的に死ぬ人もいるが、極めて少ない。衝動的な犯罪が増えていることにも関係あると思う。
 都会では少なくなったかもしれないが、自殺された家族は田舎ではさまざまな差別を受ける。子どもは転校を余儀なくされたり、縁談や就職にも影響する。障害者差別と同じだ。遺児たちも、自分が自殺を止められなかったと自分を責めて、人にはなかなか言えない。自殺遺児の会などに出て、初めて人前で身内の自殺をしゃべることができ、初めて自殺に向き合えたりする。

 自殺したがっている人に、「死ぬ方法として別に何も要らない。トイレに行かなければ死ねるよ」と教えてあげることもいいかもしれない。それに対して「トイレに行ってから死ぬ方法を考える」と言うかもしれない。また、鼻と口を塞いで呼吸を止めても、死ぬことはできない。頭で死にたがっている時も、「からだは脳の命令により」生き続ける営みを続けている。このからだの生理と死にたがっているという気持ちの矛盾に気づくことは、一つのきっかけになるかもしれない。
 あるおそらく初めて自殺未遂をした女性が、「大量服薬して楽に死ねる」と思っていたのに、時間が経つと「苦しくてしかたない」ので、自分で救急車を呼んだと言っていた。肉体は生きるための仕事をもくもくと続けているのに、それに急ブレーキをかけて止まることがいかに苦痛を伴うか、ということだろう。怖いし苦しいに決まっている。「死にたいんじゃない、楽になりたいんだ」とみんな言う。でも楽になるための、死以外の選択肢が見つからない。

 生きる意味を見失うことは、ある意味今の日本では自然なことだ。もともと、人や動物の生死に「生きること自体を目標にする」以外に意味はないからだ。しかしそれを意味あるものに変え、人生を欲望にゆだねるだけではなく、意味あるものにするために、後付けでみんな「人生の物語」を作っていく。
 「生きがい」という死を直接見つめないでいい、一種の「逃避」が機能しなくなって、挫折で「物語」が途切れてしまうと、再び紡ぐことは困難を極める。本人がこの「物語」に再びうまく乗ることができればいいのだが。最近では「機能不全家族に育ったから今の自分がある」という多くの人と共有できる物語が多く語られた。
 まずは「そのままでいい」と無条件に承認されることだ。さらに周りからの評価、それも自分が一目置いている人からのがあれば、補強される。安心できる環境こそが物語を紡いでいく基礎だ。安心できる環境とはまずは家族だし学校だろうが、そんなものはとうに崩壊している。社会に出ても派遣労働などでは、仕事場が居場所にはならなくなっている。自分で、宗教、右翼団体、労働組合、行きつけの喫茶店、なんでもいいから自分で居場所を見つけられないと、生きていくことにくたびれるだけだ。
 生きづらさをずっと精神医学の領域で分析されてきた、ニートやメンヘラー、ひきこもりの人たちが、非正規労働の組合などに入っていって、声をあげはじめている。ひきこもりを「自宅警備員」、ニートを「青年失業家」と自称したりして、企業や政府の強者に使い捨てられたり見捨てられていないで、インディーズメーデーのデモで「私たちはすばらしい!」などと騒いだりすると、ずいぶん元気になっていくということが起こっている。今まで自分を責めて自殺していったような人たちにとって、非正規労働組合やインディーズメーデーが居場所として、社会的回路を開くものとして機能している。しかしもちろんそれすらもストレスになる人たちももちろんいる。

 国が貧しいときには我慢に我慢を重ね、成功して貧乏から抜け出すことは、自然と「生きる意味」に成り得た。こういう苦労をいとわない一種強迫的生き方は、モノが豊かになってしまった日本では、社会に適応できない。グローバリズムの広がりで、社会がまた貧困に直面しているが、主に若い人たちの間に、生きることに意味はないということに気づいてしまう人々が広がってきた。その結果の年間3万人の自殺大国だ。そのうち4〜5分の1が生活苦だ。このところの若者は、貧困からの出口のなさに自殺し、中高年は、仕事をしてもきりがないことから、あるいは多重債務などの借金苦から自殺をしてしまう。
 サラ金や闇金の取り立ては、犯罪行為として取り締まれないのだろうか。借金苦の人は周りに不義理を重ね、追いつめられて一言「死にたい」と漏らせる、信頼できる人もいない場合も多いだろう。多くの人がうつ病を抱えているし、とても疲労している。
 周りから愛されない無力感、自分への怒り、絶望が底にあるから、自殺願望はなかなか消えてはくれない。そして実行しようとする決意が固いほど、身近な人にすら言えるものではない。心配をかける勇気が出ない。サインを出しても気づいてくれない。結果実行して身近な人をPTSDにしてしまう。
 死刑を存置する根拠として、「死んで罪をあがなう」という美風が日本にはある、と言う人もいる。しかし「借金の保証人に迷惑をかけた」という罪悪感から自殺する人もいる。うつ病でも罪悪感は強い。さまざまな罪悪感が、日本の自殺の根底にあるのではないだろうか。「死刑」と「自殺」、同じ「死んで罪をあがなう」というコインの表裏だ。「死んで罪をあがなう」という考えを根本的に放逐しなければ、自殺は減らないだろう。

(part3に続く)

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。

コメントを投稿する




ページトップへ
プロフィール
佐野 卓志
(さの たかし)
1954年生まれ。20歳(北里大学2回生)のとき、統合失調症を発症、中退。入院中、福岡工業大学入学・卒業。89年、小規模作業所ムゲンを設立。2004年、PSWとなる。現在、NPO法人ぴあ、ルーテル作業センタームゲン理事長。著書に『こころの病を生きる―統合失調症患者と精神科医師の往復書簡』(共著、中央法規)『統合失調症とわたしとクスリ』(共著、ぶどう社)。
ムゲン http://www7.ocn.ne.jp/~lutheran/
sanobook.jpg
メニュー
バックナンバー
その他のブログ

文字の拡大
災害情報
おすすめコンテンツ
福祉資格受験サポーターズ 3福祉士・ケアマネジャー 受験対策講座・今日の一問一答 実施中
福祉専門職サポーターズ 和田行男の「婆さんとともに」
家庭介護サポーターズ 野田明宏の「俺流オトコの介護」
アクティブシニアサポーターズ 立川談慶の「談論慶発」
アクティブシニアサポーターズ 金哲彦の「50代からのジョギング入門」
誰でもできるらくらく相続シミュレーション
e-books