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佐野卓志の「こころの病を生きるぼく」

田舎暮らし(part2)

 以前無農薬野菜のバイトをしていた先の農家が、余っている畑を無償で貸してくれて、四季の野菜を植えた。ジャガイモ、トマト、きゅうり、なすび、大根、葉もの、何でも植えた。休耕地は肥えていて、何でもよく実った。初めての収穫は、うれしくてしょうがなかった。
 2〜3年経つと肥料が必要になり、牛の糞とか豆腐カスを分けてもらって畑に入れていたが、発酵させてから入れないといけないことを知らなかったので、やってみると腐ってしまって止めてしまった。それからは、肥料作りは大変なので、農協で有機肥料を買ってきて畑に入れるようになった。夏の畑は2〜3日で草がボーボーになるので、草との闘いだった。一からの農業だった。

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トマトとジャガイモ
 トマトは枝芽を出してどんどん広がるけれど、これを一つひとつちぎり、成長する先を1本だけにしないとうまく実がならない。ちぎった枝芽は土に刺しておくと生きるので、枝芽を捨てるのは可哀想で、土に刺していたが実がなるほどには成長しなかった。トマトは肥料も水も極力少なくして、いじめて育てると甘くなるということも教わった。
 part1で書いたおばあちゃんからも「畑を放っておくと荒れるから、私の畑でも何か作ってくれ」と言われ、ジャガイモを植えた。ジャガイモを作ると土の成分が悪くなり連作に耐えないので、とりあえず秋ジャガの種芋を春、一面に植えた。その年は雨が降らなくて、ほとんどの葉が黄色くなってしまったので、小川から一日がかりでバケツで水を運んで撒いた。
 重労働の後、数日で深緑の葉に戻った。ジャガイモは、紫がかった白い花が咲いて、枯れてしまってから収穫する。土に目印がないから、見当違いのところを掘ったり、鍬で真っぷたつにしたりする。また掘り返すときに必ず収穫漏れが出るので、次のシーズンに思わぬところから芽を出したジャガイモが育ったりして、その生命力に感心したりした。

タマネギとごぼう、山芋
 タマネギはたくましいのか、苗を「これでもか」というくらい密集して植える。成長すると葉が一斉に枯れるから、収穫の目印だ。手でどんどん引っこ抜けるから収穫は楽だ。収穫せずに放っておくと、薹が立って白い花が咲く。こうなると食べられない。
 ごぼうは1m近くの深さを耕さないといけないといわれ、諦めた。大根も深く耕さないと土から首を大きく出して、緑になって育ってしまう。大根も菜の花が咲くことをご存知だろうか。白い菜の花だ。花が咲くのに茎が真っすぐ伸びることを「薹(とう)が立つ」という。
 薹が立った大根は酢が入って固くて食べられないから、暖かくなり始めたら早めに収穫だ。一気に花を咲かせてタネを残すための前準備として、養分を太い大根に溜め込んでおくのかもしれない。
 白菜もキャベツもチンゲン菜もタア菜も、春の葉ものは何でも薹が立って、黄色い菜の花が咲く。カブの花も黄色い菜の花だ。収穫しないで放っておくと、とてもきれいだ。もっと収穫しないでおくと、枯れて菜種になる。菜種は弾けて飛んで、1年経って芽を出すこともある。とっても自然だ。
 野生の山芋は、2〜3時間かけて深く掘って取った。極細のツルにトランプのクラブのような形の葉っぱが目印だ。何年も掘り出されずに育ったものは大物だ。牛の睾丸のような形のものと、根っこが真っすぐ長く太った形のものとの2種類がある。牛の睾丸のほうが、擦ったときに粘り気があるようだ。山芋の値段が割高なのは、穴掘りの仕事代かもしれない。


 とにかく、農業は土作りができれば、半分以上の仕事が終わっている。肥料を入れ過ぎると作物は育たないし、肥料の多い土と肥えた土は違う。微生物とミミズの存在の有無の違いかもしれない。灰を入れたこともあるし、場所による土の色などの違いも教わった。
 お米は難しそうで作らなかったが、水利権とかもあって、近所付き合いがややこしそうだった。この辺一帯は、松山市向けの無農薬野菜や米の生産基地だったが、農薬を使った野菜や米を作っている農家から「虫が湧いて困る」とか「臭い」とか文句も言われ、仲が悪かった。
 主流派は農協に卸している農薬派で、亜流が有機生協などに卸している無農薬派だ。農薬派は会社でいえばサラリーマンで、無農薬派は理想を追うベンチャー。手間と労力も無農薬派のほうが圧倒的にかかる。しかし農薬派だって、夜に懐中電灯の明かりで草取りをしたりしている。無農薬派のお米を作っている田んぼを見たとき、網で囲って鴨を泳がせて虫取りや草取りしていたが、また鴨も役目が終わったら食べるというのが、合理的というか、ちょっと可愛そうだった。

 日本の農業は、重労働をいとわないアジアの人たちの受け入れで再生できるかもしれないと思う。日本の若者には荷が重いだろう。本当はiPodとかヘッドフォンで音楽などをガンガン聞きながら、トラクターを運転する姿が見てみたいのだが。
 大家さんは、おばちゃんというにはちょっと歳を取り過ぎていたのと足が不自由なので、広い田んぼを、農家をやっている町会議員さんに任せっきりだった。町会議員さんがいらぬ畔を直したとかいろいろ工事して、金の請求ばかりしてくるとしばしば愚痴を言っていた。

田舎の近所付き合い
 ムゲンには、雨の日も雪の日も、車で40分くらいかけて毎日通った。雪の積もった日は、雪の溶けている国道に出るまでが滑って一苦労だった。息子も幼稚園に入れた。幼稚園の女性教員からは「息子さんはお友達を叩いて仲間に入らず困っています。家で叩いてはいませんか?」と言われ、ぼくはいたく反省して、それからは息子に一切手をあげなくなった。
 田舎の近所付き合いは濃厚だった。誰かが亡くなると近所中に電話でお葬式の知らせがあり、ぼくは黒い背広を着て葬式の受付を、波津子は振る舞われる料理を手伝わされた。手伝いに駆り出されるのは小区の中だけで、電話では遠くの見知らぬ人の死亡も知らされるので、最初は混乱した。
 回覧板を回したり、神社やお寺の掃除や祭りののぼり立てなどの世話をする小区長の役割も回ってきた。小区長の主な仕事は、行政や議会や警察など、上からのお達しを各家に徹底させる役目だ。年寄りの自営業が多いので、行政も税金徴収や健康診断などの徹底に対してはきめ細かく、小区長の仕事は多い。
 新参者のぼくは、2年目に小区長をやった。地区の習慣を知らずに、会合で話している内容などが理解できなかったりして、小区のみなさんに迷惑がかかると思ってすごいストレスだった。しかし、会合には小区の有力者が必ず出席していたので、別にぼくが聞き漏らしても全然大丈夫だった。

 息子の幼稚園も小学校も、一学年10名程度で人数が少なく、1年ごとにPTA役員が回ってきた。遠足や運動会、子ども会の行事、夏休みのプールの監視当番、登校の付き添いなども手伝った。夜、各家庭を子どもたちが回って、縄で土間を叩きながら「いーのこ、いのこ、おいのこさんの言うことにゃ♪」と唄って各家の繁盛を祈る「いのこ」も子ども会の仕事だ。各家はお礼に、子どもたちへお小遣いをあげる習慣だった。
 松山市で開催された、愛媛県のPTA総会に出たこともあった。日の丸・君が代の世界だったが、地区代表として行っているのだからと、着席して抗議の意思を示すようなことは我慢した。消防団もあって、公民館にポンプ車も持っていて、たまに水を流して訓練らしきものをしていた。

地域
 ここには確かに「地域」というものが存在していた。誰かにしゃべったことはみんなが知っており、プライバシーはなかった。しかし、昔から何代も住んでいる人同士の仲間には、最後まで深くは入れなかった。近所の人が続けて自殺したときも、理由はわからなかった。
 PTAの会合では数人の男性から無視されたりしたが、ぼくが統合失調症だとカミングアウトしたためかどうかも、最後までわからなかった。でも、田舎は偏見の固まりかというとそれは偏見で、多くの人が普通に付き合ってくれた。髪の毛も今と同じように長く伸ばしていたが、近所からは特に指摘されることもなかった。でも近くの温泉に行くと、子どもを中心にじろじろ見られることも結構あった。

風呂とトイレ
 田舎は、夏は過ごしやすかったが、冬はとても寒かった。プラスチックの水道管はすぐに凍って割れ、水道屋さんをよく呼んだ。元栓を締めてから寝ても、割れるときには割れてしまった。
 風呂に入るときも、すきま風が吹きまくりなので、冬も露天風呂状態。湯船に長く浸かって、からだはすばやく洗った。下水道はなく、汲み取り式便所だった。水洗でもないのに無理矢理洗浄式便座を付けていたので溜まるのが早く、汲み取り代は毎回1万円以上かかった。台風のときには台所の土壁が崩れ、出入りができるほど大きな穴ができてしまったので、急いでホームセンターで大きなベニヤ板を買ってきて修理した。
 最近「アンジェラの灰」という第二次大戦当時が舞台のアイルランド映画を見て、家にトイレがないのにびっくりした。原作はピュリッツァー賞を受賞した作品だそうだが、バケツに小便をして、外に捨てに行くのだ。雨のシーンが多く、雨の多い国なんだろうと思った。しかし日本では、当たり前に田舎にまで便所があったことは、実はすごいことなんだと思った。

 あるとき、ミントのタネを買ってきて家の周りに撒いたことがあった。予想外に丈夫な植物で、雑草を押しのけて、腰より高く生い茂った。特に便所の周りに固まって茂っていたので、汲み取り式便所の便が漏れ出して肥料になったに違いない。それでぼくは、ミントのことを「便所草」と呼んでいた。でも自分の命名に影響されて、ケーキを食べるときにミントがのっていると、除けてから食べるようになった。
 ここでは上水道は整っていたが、下水道は通っていなかった。台所の流し台から家の裏の溝に管が伸びていて、汚水はそこから近くの小川に、さらに谷を流れる大きな川に流れ込んでいた。詰まったときには、ホースを管に突っ込んで大量の水で流した。自然破壊である。

みかんとキウイ
 近所のみかんの収穫も手伝っていたが、みかんは量が多く、摘むのに数日かかった。高いところの実は木に上り、平べったい専用のハサミで一つずつ摘んで、首からぶら下げたかごに入れていくのだが、波津子がハサミで手を切って、近くの病院で縫ってもらったこともある。
 でも、愛媛の特産であるみかんを作っている農家はだんだん売れなくなり、少しずつみかんの木を切って減反していった。「農業は生き物相手だから、育つのが楽しい」と言っていたおじいさんも、跡継ぎがいないので寂しそうに見えた。近所からはよく、野菜がどっさりと届けられた。
 キウイ畑の手伝いもやっていた。初夏の枝切りを伸び放題にすると、出荷できないような小さな実しかならないから切るのだが、おじいちゃんは名人芸のようで、切った跡の枝振りの景色が美しい。やってはみたが、とても真似できなかった。
 収穫のときにも手伝うが、キウイは手でもいでいく。ちょうど目の高さあたりに実がなっているので、中腰のため腰にくる。波津子は大、小、出荷不可、に重さを計量して分類する技を覚えて、ひたすら計量していた。広くない畑なので午前中に収穫は終わり、キウイを入れたキャリーを荷物用のロープウェイに積んで川を越すのだが、その凄いスピードにいつも感心して見ていた。川向こうで機械を操作する腕も確かで、 ぴたりと降ろす位置に止めた。
 収穫が終わると出荷不可のものをくれたので、ムゲンに持っていってみんなで食べた。リンゴなどと一緒にビニールに入れて2週間くらい熟らせるとおいしい。キウイ栽培は愛媛みかんの消費が落ちているため、鳴り物入りで取り入れたものだが、最近はスーパーでもニュージーランド産のゴールデンキウイがたくさん売られていて、甘みも強い。愛媛のキウイも生き延びられなかったのかな、とおじいちゃんを想像して少し寂しい。
(Part3に続く)


コメント


 佐野さん、かなり本格的に畑やってるのですね。ぼくは真似事しかしたことないですが、大変ながら、楽しいですよね。


投稿者: ゲゲゲのとしちゃん | 2008年06月14日 21:02

 ぼくはすぐに徹底的にやって、わりとぽいと放り出すという性格です。一時はかなり広い畑で作っていましたね。としちゃんは、何の野菜を作っているのですか?


投稿者: 佐野 | 2008年06月15日 19:47

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プロフィール
佐野 卓志
(さの たかし)
1954年生まれ。20歳(北里大学2回生)のとき、統合失調症を発症、中退。入院中、福岡工業大学入学・卒業。89年、小規模作業所ムゲンを設立。2004年、PSWとなる。現在、NPO法人ぴあ、ルーテル作業センタームゲン理事長。著書に『こころの病を生きる―統合失調症患者と精神科医師の往復書簡』(共著、中央法規)『統合失調症とわたしとクスリ』(共著、ぶどう社)。
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