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佐野卓志の「こころの病を生きるぼく」

田舎暮らし(part1)

 今回はちょっと一息入れるために、地球に優しい田舎暮らしの話です。

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 実は、ぼくが松山市に舞い戻ってきたのは3年ほど前のことで、それまでは田舎に12年間住んでいた。
 (人権)運動などによる人間疲れで、痛切に「自然の中で暮らしたい!」と思ったぼくと波津子は、息子を連れて田舎に引っ越した。山の緑の間に囲まれた川沿いの、いつも谷風の吹いているとても景色のよい所だった。
 松山からちょっと足を伸ばして家を見に行って、戦争の頃に建てられたと思われる、誰も住んでいない古い農家を見つけた。台所は土間で、使えなくなったかまどもあり、ススが壁から天井にびっしり付いていて、年代を感じさせる。ぼくが以前、有機農業のバイトをしていた農家のすぐそばだったので、見つけた家の家主に「借りたい」と連絡したら、家主はバイト先の農家に連絡してぼくの身元を確認した上で、月2万円の家賃で貸してくれた。田舎の人はよそ者の侵入には慎重だ。
 とりあえず、サッシを入れてもらったり、風呂に入れるようにしたり、段差を除けてもらったり、すきま風を塞いで人が住めるように大工さんに直してもらって、100万円かかった。さあ、あこがれの田舎暮らしだ!

 家の南側の縁側の前には小川が流れていて、道路を隔てた東側の谷の底を流れる大きな川に注ぎ込んでいる。大きな川の向こう岸は急峻な山で、斜面は広葉樹と針葉樹の混合林だ。遠くの正面にはビニールハウスが見える。家の西側はなだらかな山で、途中牛小屋を抜けて、道が頂上まで続いていて畑が広がっている。
 もう一筋下の道は、だらだらと谷一番の高さの山につながっていて、頂上は公園になっている。ここは、両側の山と山の間を大きな川が流れる谷底になっている。谷沿いの一本道をずっと上がっていくと、道沿いに民家が点在し、小学校があり、もっと先は道が行き止まりだ。
 近所に住んでいる文学好きのおばあちゃんは、この谷を称して「川内のスイスだ」と言っていた。このおばあちゃんとの付き合いは古く、身体障害者施設から障害者の人たちが飛び出して、アパートで24時間ボランティアを入れて(その頃はヘルパー制度もなかった)暮らす運動に僕が若い頃かかわっていた中で知り合った。ぼくと波津子が知り合ったのも、この運動中だった。運動していた重度身体障害者の女性の一人が結婚すると言い出し、彼女の親たちが大反対している中、親たちの説得に回ってくれたのがこのおばあちゃんだ。
 結婚した女性障害者には娘ができ、今では娘も成人してOLになっている。あの頃は、障害者の自立運動とボランティアが一体となった、生き生きした時代だった。

 さて、わが家の縁側から隣の家までは100m以上離れていて、すべてが緑の世界だ。しかし視界をさえぎるように、川向こうの山の頂上に、松山に向けた高圧電線の鉄塔が立っていて、視界の中のただ一つの人工物であった。大自然の画竜点晴(完璧でない)な邪魔者だ。
 でも、この縁側からの緑の景色と渡る風の匂い、小川のせせらぎの音をぼくは気に入って、いつまでも寝転がって時間を過ごすのが好きだった。もちろん、コーヒーとタバコと灰皿は必需品だ。
 毎年6月になると、家の南の小川に蛍が湧く。年によって違うが、10数匹の年もあれば、100匹近く飛ぶときもある。遠くに見える小川の端の木の茂みに群がって点滅していることもある。家の庭まで飛んできて、手で捕まえることもできた。カエルの大合唱と蛍の光は初夏の楽しみである。
 これをムゲンの人たちに見せようと、毎年カップルを招待していた。でも、蛍を見に来たカップルはその後、数年経たずにことごとく別れてしまった。「家に蛍を見に来たカップルは必ず別れる」というジンクスができあがってしまい、その後は誰も招待しなくなって、ぼくたち家族だけで蛍を楽しむようになった。
(part2に続く)


コメント


 ぼくは生まれた時からの田舎暮し。途中、16年の入院と施設かあった。だから余計にふるさとが恋しかった。
 子どもの時から父は、米と花を作っていた。転作が始まった時、父は、こんな農政ではいけん、と北風を利用した寒干し大根というものの共同出荷を始めて、特産品にした。日本中でここしか作っていないものとなった。
 やがて、その売上げは町全体のなかで米の売上げを抜いた。我が家はそれとカキツバタを作っていた。それから30年経った。年金生活をしている今は、当時の収入の七分の一位だが、なぜか今のほうが生活にも心にもゆとりがある。
 田舎暮らしでは儲けることばかりを考えていると、作物によってはもうかっても、自由な時間がなくなります。それとくたびれるだけです。いかに手を抜くかでしょうね。自給自足の時代はそこまで来ているような気もします。 では


投稿者: 夢現 | 2008年06月06日 10:21

 夏の暑い時間帯には、農家はお昼寝出来ます。マイペースで自然の中で食っていければいいのですが。
 世界的な食料不足です。日本の農業を再生しようにも、若者は都会志向です。無農薬などの理想と哲学があれば、若者も引きつけられると思うのですが。
 戦争というのは、備蓄出来るようになってから、やり始めたそうです。食うに困る時代には戦争する余裕も無かったのかもしれません。
 しかしテレビで見た、一日に食うだけしか捕らない生活をする部族は幸せそうに見えました。捕れない時には、大変かもしれませんが。


投稿者: 佐野 | 2008年06月06日 23:13

 そうですね。田舎暮しの動物たちも必要以上は、喰わないようで適当に遊んでいますね。
 農家から後継者が消えたのは、なぜでしょう? あるひとはキツイ・儲からない・休みがないといっていましたが。確かに戦国時代は、腹が減っては戦はできぬ、でしょうが、腹が太ると眠くなります。古い農家での昼寝は、風通しがよく最高です。


投稿者: 夢現 | 2008年06月07日 16:28

 波津子の故郷の漁港の野良猫は、恐ろしいくらい丸まると太っています。
 農業はキツいのはキツいです。あと、機械の借金を一袋100円とかのタマネギなどで返さないといけないので、大変だと思います。
 中国産がこれだけ日本に食い込んできたのは、安いからだけれど、国内産なら安心感があります。無農薬なら、もはやブランドかもしれません。
 あと、春と秋がむちゃくちゃ忙しくて、夏と冬は比較的休めるかもしれません。自然のサイクルを感じてくらすのは、大切な事だと思います。農家は長生きというか、老人が元気ですね。


投稿者: 佐野 | 2008年06月08日 17:48

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プロフィール
佐野 卓志
(さの たかし)
1954年生まれ。20歳(北里大学2回生)のとき、統合失調症を発症、中退。入院中、福岡工業大学入学・卒業。89年、小規模作業所ムゲンを設立。2004年、PSWとなる。現在、NPO法人ぴあ、ルーテル作業センタームゲン理事長。著書に『こころの病を生きる―統合失調症患者と精神科医師の往復書簡』(共著、中央法規)『統合失調症とわたしとクスリ』(共著、ぶどう社)。
ムゲン http://www7.ocn.ne.jp/~lutheran/
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