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佐野卓志の「こころの病を生きるぼく」

責任を取るということ(part2)

 実は、顔立ちやスタイル、才能、頭の良さ、年齢、病気、親の財力、親の喪失など、人は自分で責任の取れないところで、生きている限り十二分に理不尽な責任を取らされ続けている。遺伝的異常に対して、責任を取らされている。恋愛や仕事や生活で、生まれた時からずっと他人からの評価などよって人生を左右されて、責任を取らされている。
 また、DV夫と一緒になるなんていう、結婚するまでわからないことに、責任を取らされている。どんな親の元に産まれてきてどんな扱いを受けるか、愛情飢餓でトラウマを受けて育ったことに、十分責任を取らされている。

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 ストリートチルドレンも、戦争孤児だったり、親のDVだったり、貧困だったりしてトラウマを抱えている。ストリートチルドレンはストリートギャングにもなり、社会に自分で責任が取れないことを集団少年犯罪などで訴えたりする。トラウマとはまったく理不尽な心の傷だ。突然やってきてこころを何度も繰り返し傷つけ、血が流れ、言葉を発せられない世界に落ち込ませる。血が固まることなく傷が大き過ぎた場合、精神障害を発症させたり、自殺を引き起こしたり、怒りから加害事件を起こしたりもする。
 多くの初犯の凶悪犯罪者には、子どものときの悲惨なトラウマ体験が隠されている。刑事事件化されにくい犯罪被害者(特に性犯罪など)だって、トラウマ体験を語り事件化するには、二次的トラウマを受ける覚悟と莫大なエネルギーがいるし、今の裁判制度では判決で得られる補償の何倍もの金がかかるし、お礼参りだって怖い。

 ぼくは、統合失調症であることに十分責任を取ってきた。本当に長いトンネルだった。ストレスがかかれば、入院したり寝込んだりを繰り返してきた。病気の理不尽さに圧倒され、逃げたくてしかたなかったし、居直って、病者の権利とか言い出すのはずっと後のことだった。
 おまけに、国家までが「自己責任」といって、すでに十分取らされている責任を世間が強いたりする。高遠菜穂子さんがイラクから帰っていじめられても、彼女に責任はないし、自己責任という言葉にはあまりにも愛がない。バッサリである。最近、多数派の価値観に無批判に寄りかかって、寄ってたかって少数者をいじめる世間の人たちが多いなと感じる。たぶん、戦争中の「非国民」のような息苦しさだ。
 日本で無力感に苛まれている人には、もっと彼女ら国際ボランティアのやっていることを知ってほしい。戦争で身もこころも傷つき、責任を取らされている人たちの援助を行っていることを知ってほしい。生きるヒントになるかもしれない。
 そもそも「自己責任」とは、先輩というものから学び生きる指針がなくなってしまっている現代、国家が提言した若者への生きる心構えのひとつだ。被る不利益はすべて自分のせいだと、多くの若い人が思い込まされている。
 地震や災害、病気で亡くなった場合、身近な人を失った悲しみはどこにもぶつけることができない。パニックを加害者にぶつけることができず、ただじっと傷や喪失の悲しみをひとりで受け止めるしかない。理不尽を誰も代わって受け止めてくれるはずもない。
 ぼくの義理の息子である波津子の息子が、交通事故で死亡した。波津子は警察からの知らせに電話機の前で、ただ屈んでいつまでも号泣し続けた。葬儀もすんでしばらくしてから、ぼくに「洗礼を受けておいてよかった」と言った。

 人間が本当に責任を取らされるのは、実はこの人間のさまざまな生まれ育ち、生老病死、愛する人の死、人生そのものにまつわる理不尽だ。トラウマを受けた者同士、部分的に悲しみを分かち合える時もあるかもしれないが、底のない悲しみは誰とも分かち合えない。生きていることは理不尽が次々に起こることだから、人生はつらく悲しい。人はそれを運命と呼ぶかもしれない。だからこそ、普段はできるだけいい加減に生きていきたいものだと思う。いい加減とは、「良い加減」のことである。
 そして、他者の不幸や痛みへの想像力は、愛(関心)の手当てを受けながら、理不尽な運命を受け入れることを養分にして育つものだと思う。自立とは、理不尽な運命に責任を取ることなのかもしれない。
 死を遂げた人の理不尽を、何とかこころの中で納得させるために、人は意味のある死だという物語を必要とする。曰く「お国のために死んだ」「平和の礎となった」「天国で安らかに暮らしている」「多くの人の命を救った」「殉教した」「殉職した」「誇りを守った」「人の命は地球より重い」。
 本当は人の生死に意味などない。意味のない自分の死の恐怖の深淵を前にすると、人は生きていけないから、みんな、うつろい変化する記憶を頼りに、言葉による自他の物語を紡ぎながら生きていく。


コメント


 「人の生死に意味はない。言葉による自他の物語を紡ぎながら生きていく。」
 感じ入りました。言葉で紡いでいく現在。

 人間が人間であることの証明として、歴史は、葬祭というまつりごとの遺跡で決定づけました。
 死にたいする恐怖は、古代から受け継がれています。しかし、知識が発展するごとに、死の原因が大きく変化してきました。
 自然災害への畏怖がなくなり、大地震の準備はせず、戦争は繰り返され、人災の問題だけがクローズアップされ続け、私たちはそれを人権と叫び求めてきました。
 残された人々にとって、死は「仕方ない」という思いではなく、「怒り」と「納得できない」不安感を抱かせています。まつりごとの価値が変わり、生を見つめ直す死ではなくなり、さりとて、人災を減らすために自然回帰を求めることはない。そして希望のない将来を思いながらただ生きていく。
 知識は人間の限界に達しているはずなのに、今のほうが病んでいるかのようです。

 自然への畏怖を感じていた昔に戻れたら、もっと生への希望と力が持てたかもしれない。まつりごとによって死への思いに潔さがあったかもしれない。

 現代人の言葉による死への意味づけは、生きている実感を持てない時代に生きる私たちの、諦め方の違い、生を感じたいと思うもがきではないでしょうか。


投稿者: カンカン | 2008年05月30日 02:52

 動物の生死と同じく、間も、命が輝いたり、尽きたりの繰り返しですが、言葉による意味付けばかりが強化されて、自然からどんどん離れて行ってしまっているようです。
 自然に帰るために、沖縄のユタとか祈祷などの自然への祈り、動物的な快を求める鍼灸やヒーリングに興味があります。これらを主に担うのが女性であるという意味で、これからの時代、女性の感性にもっと学ぶべきだと感じています。


投稿者: 佐野 | 2008年05月30日 09:43

 初めて投稿します。 実はご相談があり、ムゲンのホームページを開こうと思ったのですが、私のpcでは何かが足りないみたいで開けなかったのです。

 私は16年前統合失調症を発病しました。
 入院するほどの状態ではなかったので、数年間は薬を服用しながら自活していました。派遣で働いていたので、状態が悪くなった時は、期間終了を待たずに適当な理由をこじつけて辞めさせてもらったりもしました。 四六時中というわけではありませんが、幻聴はずっと続いています。
 今悩んでいるのは、自分が考えること、その他自分の頭をよぎる言葉(幻聴)が他人に伝わっているのではないかという思いから抜け出せなくて困っていることです。  
 色々な新薬を試したのですが、ことごとく副作用に悩まされ(舌のもつれとか心臓の圧迫感)、現在は唯一副作用が出ない二種類の薬を服用しています。
 お忙しいところ申し訳ありませんがもし何かアドバイス等ありましたら宜しくお願いします。


投稿者: chaco | 2008年05月30日 21:45

 ムゲンのホームページは下記です。もう一度試してみて下さい。
http://www7.ocn.ne.jp/~lutheran/
 たぶんクスリに敏感な体質だとおもいます。2種類のクスリの名前が分かればいいのですが。
 なかなか働けないと思いますから、障害年金の申請をしてみてはどうでしょう。


投稿者: 佐野 | 2008年06月02日 11:54

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。

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プロフィール
佐野 卓志
(さの たかし)
1954年生まれ。20歳(北里大学2回生)のとき、統合失調症を発症、中退。入院中、福岡工業大学入学・卒業。89年、小規模作業所ムゲンを設立。2004年、PSWとなる。現在、NPO法人ぴあ、ルーテル作業センタームゲン理事長。著書に『こころの病を生きる―統合失調症患者と精神科医師の往復書簡』(共著、中央法規)『統合失調症とわたしとクスリ』(共著、ぶどう社)。
ムゲン http://www7.ocn.ne.jp/~lutheran/
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