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野田明宏の「俺流オトコの介護」 2011年02月

母のリハビリ

 母をショートステイへ出して、一服。インスタントコーヒーを飲み終えて、母には申し訳ないのだけれど解放感に浸っていたら携帯へショート先のケアマネジャーから。
 「野田さん、お母さんのエンシュア(経管栄養剤)がありませんね?」
 アッ! 母の食事。三泊四日分で250CCエンシュア10缶。ちゃんと準備はしていたのだけれど、荷物とは別の場所に置いていたので持たせないままに出陣させてしまった。胃ろう利用者の場合、経管栄養剤持参となる。
 ケアマネジャーは、
 「10缶はショート側で用意するので次回のときに一緒でいいですよ」
 オレも甘えて、
 「じゃあ、そういうことでお願いします。スミマセン」
 一端はこれで一件落着したものの、オレは黙考。
 「いつも偉そうなことをブチブチとショートステイにも言っている。一度などは大爆発している。これは、オレのミスだよなあ!? エンシュアは手元にある。自分には甘い“野田明宏君”かあ!」
 反省。買い物など済ませてからエンシュアをショートステイまで持参することにした。バスを乗り継ぎ40分~50分の距離。車だと最短コースなので20分の距離となる。
 ショートへ到着し母の部屋へ。いない。アレッ? キョロキョロしてるところへ車椅子に乗って母は現れた。リハビリ室からご帰還とのこと。ショーステイを利用し始めてもう2年近くになるかな? オレは、このとき初めて知った。
 リハビリは、ショートを利用している三泊四日。毎日30分ほど。つまり4日間継続で行われているということを。オレは、利用期間の1日のみと思い込んでいた。ビックリ!
 で、母担当の理学療法士さんに頼んでリハビリの現場を翌々日に訪ねることに。そこでパチリンコ。
 こんな密着と笑顔に支えられて、母は日々リハビリしてるんだ。
 その場では撮ることに専念していたので深くは想いもしなかったのだけれど、帰宅して写真の編集作業をしていると心が熱くなってきた。
 本当にありがとう。

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造影剤

造影剤を入れながら確認
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 胃ろう交換したことは前回に記した。極めて順調に交換は終わった。医師、看護師、そして放射線技師方々もそれは良くしてくれた。
 胃カメラをしたくない。
 そんな想いから、思い切って病院を替えて良かった。そんな風につくづく、交換後に母をデイサービスへ託して、ヤレヤレと一服感を極めたのだった。
 ところが、オレにとって一人しかいないお母ちゃん。とんでもない異変が起こった。
 翌日早朝の朝食時、お腹がグルグルと激しく鳴っている。♩ビッ♫という音がお尻の方から聞こえたような気もした。グルグル&♩ビッ♫の組み合わせだから排便を気に掛けないといけない。
 とはいえ、母は頑固な便秘症。少量しか出なかったとはいえ、胃ろう交換の前日にデイサービスで摘便等で出している。過去の経験で排便することはあり得ないので無視した。
 朝食を終え、オレは改めて布団の中へ。午前8時50分頃からデイサービス出陣準備。まずは尿取りパッドの交換だ。エアコンとファンヒーターで室温は23度前後。動き始めるとオレには暑い。
 母は、尿取りパッドをして紙オムツでお尻を包んでいる。尿漏れも希にあるのでフラットのパッドも敷いている。下半身はそれで夜を過ごす。もちろん、足下などはレッグウォーマーや毛布等で包んでいる。問題はない。
 布団を捲る。アレッ??\(◎o◎)/!
  アッチャー! 母が自然排便している。それも軟便で、フラットのパッドも突き抜けてエアマットに被せてる冬用シーツまでにも染みこんでいる。
 オムツを左右に開く。尿取りパッドからは便がはみ出てオシッコも混在してオムツとパッドの領域区分がない。
 オレは母の介護を8年7ヶ月やってきた。が、軟便を処理したケースは本当に希。摘便も、一度掘ると肛門が裂けそうになりながらメリメリモリモリと、極太ウンコが出てきていたものだ。
 オレはかなりパニックった。なにせ、胃ろう造設後の3年半ほど、排便処理はデイサービスでやってきてもらっていたから。記憶の中では1度だけ、デイサービスで処理した残便が残っていたモノをキレイにしたくらいだ。
 そうこうしているうちに9時。9時20分にはデイサービスからお迎えが来る。どうしよう?
 SOS発信。
 デイサービスへ電話を入れる。状況説明。すると、直ぐに来てくれるとのこと。近所になったメリットだ。二人の職員が来てくれ、とりあえず簡単な便処理。その後、着替えさせてくれデイサービスへと母は向かった。
 ヤレヤレ。
 なんで? いろいろと考えてみた。胃ろうそのものは型が替わったけれど、これが原因とは思えない。経管栄養のエンシュアも同じ。となると、胃ろうがちゃんと装着され稼働しているか確認のために飲んだ造影剤か?
 まあ、シッカリお腹の中がキレイになったのだからOK。オレは安易に考え、ハイそれまでよだった。
 ところがだ。これが、翌日朝、翌々日朝も続いた。デイサービスで放出してくれれば良いモノを!
 突然、正真正銘と記すと語弊がありそうだが、正真正銘の在宅介護最前線ど真ん中に身を置く現実。キツイ! 
 エアマット上で行うオムツ交換。もちろん肛門付近の洗浄。腰にオモイッキリ来るのだ。(×_×)
 オレはオレ自身に言い聞かせる。
 「一つひとつ。一つひとつを確実に。焦らない」
 母を、胃カメラを飲むという苦痛から解放するためだった病院替え。目論みどおりに母は苦痛から解放された。とはいえ、日々の軟便処理はオレへの試練か? いつまでもなら耐えられないオレが確実にいる。
 ネットで検索をかける。
 造影剤 副作用
 下痢などの症状は希にあるらしいが、確率2パーセントと。
 黙考。
 「それでも、造影剤しかないな」
 胃ろう交換した病院へ電話し、放射線技師の方に事情を説明した。すると、
 「造影剤を飲むと腸が活性化されるんですよ。ドーンと一気に全てを出し切った状態になっていると思います。それで、腸内細菌のバランスが狂ったのではないでしょうか? 便秘症の方は特に多いんです。
 造影剤はガストログラフィンという造影剤20cc。それを薄めるために生理食塩水20ccを入れさせてもらいました。
 造影剤は油成分なんで、大雑把に想像してもらうなら“ひまし油”と考えてください」
 感謝! 多忙の最中、親切に説明してくれた。しかし、“ひまし油”? 知らない。
 検索をかける。
 なんと、下剤としても使用されてるとのこと。
 そうかー。自然治癒が普通だそうだが、
 どこまで続くぬかるみぞ だ。 
 と、お気楽な行き当たりばったりでこれからに臨むわけにはいかない。16、17&18日の朝に排便というより軟便失禁があった18日の午後3時半は主治医の往診日だった。
 放射線技師さんに電話した直後に主治医の医院に電話を入れ、いつも主治医に同伴してくれる看護師さんと相談した。
 結局、ロペミンという下痢止めを処方してもらった。小児用。大人の半分の量が粉末というか微粒になっている。それと整腸剤のラックビー。
 主治医曰く、
 「動いてます。すごく腸が動いてますよ」
 聴診器を当てるまでもなく、母はグルグル音を室内に放散している。
 この往診時、看護師さんに下痢止めと整腸剤を胃に注入してもらった。オレもできるが、プロに任せた方が無難。

シリンジ(注射器のように見えるモノ)に薬を溶かした液体をいれる。
これが、案外と初心者には難しい。
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胃ろうから注入
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 そして翌朝である19日。母のお尻周りに便の付着はなかった。
 半年後の胃ろう交換。今回の経験を踏み台にしなければならないが、思いも寄らない苦戦を強いられた。
 さて、なんとか今冬も乗り切れた様子。次回の胃ろう交換は半年後が目安。となると8月。夏ど真ん中だ。それを乗り越えたら、オレの在宅介護は10年目に突入する。
 



胃ろう交換 新たな病院で

 2月15日。無事に胃ろう交換を済ませた。
 実は、胃ろう造設した病院で前回の交換まで、継続して胃ろう交換をしてきたのだけれど今回から病院を替えた。
 とりあえず、8月24日の記事を振り返って欲しい。 
 このときから胃カメラを飲んで胃ろう交換をすることになったのだ。交換後の表情は悲惨極まった。苦しかったに違いない。あまりに切なく哀しかったので、この瞬時から胃カメラをしないで交換できる病院をオレは探し始めた。
 ところが、よくよく調べてみると、他県のどこかの病院で胃ろう交換時に事故があったらしいのだ。もっと詳しく調べれば、詳細は把握できるはずだけれど、そこまでする必要がないので聞き取りはしていない。
 とにかく、胃カメラで確認しながら胃ろう交換する流れが定着しているのだ。国からなのか厚労省発令なのかも把握していないのだが、胃カメラを飲むことは避けられない方向があるらしい。
 処置室で簡単に取り替える。こんなことは今は昔なのだ。
 もっとも、交換後に胃へ造影剤を流し込んで、ちゃんと填っているか? ちゃんと流れているかを確認すれば良い、との手段もあることをケアマネジャーが仕入れてきた。
 ただし、今回からお世話になることになった病院でも、胃カメラを飲んでの交換が圧倒的とのこと。そこをなんとか、造影剤で確認するという手法で交換してもらった。
 ここまで記してきて、“事故があった”等々と書き連ねたが、間違いがあるかもしれない。それは全て、オレが聞いた伝聞であるから。正しい文献から引用しているわけではないことを承知していただければ、と。
 で、以下のような感じで胃ろう交換は運んだ。
 あまり目にすることもないはず。ここに紹介して胃ろう交換騒動記とする。

処置室に入る前 インフルエンザ等が恐いのでマスク装着
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今まで胃の中にあったモノ
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造影剤を入れて確認中 一番恐い逆流は全くないとのこと
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今回は余裕でありました Photo K.Sakuragi
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New  今、母のお腹に装着してある胃ろう。今回からタイプが代わった。
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 さて、胃ろうについては、延命云々、大手メディアが火を点けたような形で悪者扱いされている傾向著しい。
 口から食べられなくなったら人生にエンドマーク。これが、なにやら論客たちの良識となりつつある。
 しかし、どうなんだろう? 胃ろう造設者、もしくは胃ろう造設した人の家族の声は世間に届いているのだろうか? 聞こえてくる声は、
 「私は胃ろうなどして延命しようとは思いません。ちゃんと書き留めました」
 こうやって、世間の声として闊歩する。闊歩させる。オピニオンリーダーになる。
 だけど、違うな。
 どれだけの家族が、この母に、この妻に、この夫に、もっともっと生きて欲しいと願って胃ろう造設したかの声が封印されている。
 例えばオレ。母と一緒にいられることで、どれだけ癒されてるか。確かに、これまでの介護は辛いことが多かった。だけど、だからこそ、これからを一緒に長閑に、できるだけ長く過ごしたい。 
 胃ろう。母とオレの絆を繋げ、より強固にする生命線。
 2月18日で55歳になるオレにとって、お母ちゃんは一人だけだから。



大雪降る下で

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 2月14日。
 昨日の岡山は冷えた。午後3時までの最高気温が2度。
更には、写真でご覧のとおりの大雪。どのくらい積雪しているのか把握できなのだが、ここ近年では記憶にないほどだ。
 オレはデイサービスへ電話を入れた。送りの準備でアタフタすることは必至。ご近所になったのだから、こういうときに協力しなくてはいけない。
 「まだ3時過ぎですけど、もう帰宅させてください」
 毎日の帰宅は4時40分頃か? 近所になったので以前より10分ほど早くなった。
 もっとも、オレにはオレなりに思惑があった。イメージどおりに撮れれば、事が運べばシブイ写真が撮れはず。雪を背景にした写真など、あたりまえだけれど雪が降らなければ無理。
 オレが、オレと母を撮る。難しい!?
 しかし、セルフタイマーを上手く作動させれば問題はないはず。位置撮りもOK?
 結局、14日のデイサービス帰宅時の流れを撮ることができた。
 写真で、オレは母を両手で担いでいる。雨の日などは担ぐ方が早い。昨日のように、大雪で冷え込み厳しい瞬時などはモタモタしてられないのだ。
 腰には悪い。座骨神経痛も悪化する。分かってはいる。
 だけど、オレはこうやって踏ん張ってます。



若いチカラ

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 母の入浴現場を撮った。
 ある雑誌の仕事だったのだけれど、胃ろうが本題だったので、使用しない写真をけあサポで使用させてもらうことに同意もいただき、ここに貼り付ける。
 基本的には、胃ろうしても入浴できる。という当たり前のことを裏付けるためのパチリンコであったのだけれど、以外と、胃ろうしても入浴できる現実を知らない人は多い。
 で、本題はここから。
 母が今のデイサービスへ通い始めた頃から母は胃ろうを造設していた。胃ろう造設直後から、今のデイサービスへ通い始めたのだ。胃ろうしていてもアッサリと受け入れてくれるデイサービスは珍しい。
 で、取材をしながら強く感じたことは、若い力の必要性だ。
 母は、デイサービスへ通い始めた当時、まだ、それなりに自分の足裏で踏ん張る努力をしていた。それはそれは、つま先立ちのような微妙な踏ん張りだったが、それでも母を入浴させる担当者にも支えにになっていた。
 ところが、今回の撮影時、母は二人の女性に抱えられながらの入浴だった。オレにも、それは事前に分かっていた。我が家で行っていた立位訓練も、去年の夏前から出来なくなってしまっていたから。立たそうにも、膝が折れて立てないのだ。
 とはいえ、若い女性職員二人に抱えられ・支えられながらの入浴。本当に頭が下がった。
 多くの施設現場、それも入浴中にもお邪魔したけれど、一般的には若い世代がお年寄りの入浴を支えてることが多い。入浴介助。真夏などは若い力なくしては無理だろう。
 母から老人臭は漂わない。若い力たちのお陰だ。
 若い衆。ありがとう。

嗚呼! いい塩梅

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けあサポの原稿を書くとき

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 けあサポの原稿を書くとき、我が家のノートパソコンで書く。以前、モバイルがスコブル格好良く見えたので、もっと小型のノートを街中のカフェなどに持ち込んで打ち込んだ。しかし、気が散ってアウト。周囲の会話が耳に入り気が散る。タイプの女性などが視野内に存在すれば、文章にならない。
 後悔はしなかったが反省はした。オレは格好良いモバイル派になれない、ということが心の動揺で理解も納得もできたから。付け加えれば、まだまだウキウキ感を忘れていない中年オトコであることも証明された。
 という経緯もあり、原稿は我が家で集中して書くこととなった。集中を意識しているわけではないが、集中できるのだ。
 で、原稿を書くときだけれど、母がデイサービスに出陣していない日が多い。つまり、母と我が家で一緒に過ごしている日だ。
 母がアルツハイマーの混乱期で、どうにもこうにも母の行動にだけ集中力を注がねばならない頃なら不可能。
 とはいえ、今の母はその場から移動することは絶対にない。一度だけ、傾きが強すぎて入浴椅子から滑り落ちてしまったことがあったけれど…
 この入浴椅子。排便も兼用なので、着座したお尻の位置に穴が空いている。そこにスッポリとお尻が入るので、基本的に、注意していれば滑り落ちることはないはず。ただ、冬はそのまま座らせると冷えるので座布団2枚を敷いていたから穴の効果はなかったのだ。更には、座布団で柔らかモードにしておかないと、褥瘡が隙を逃さず攻撃してくる。
 今の母ほどになると、一瞬の油断が致命傷となることを肝に銘じておかないといけない。
 そんなわけで、母と一緒の日なのだが、では、どんな環境設定なのかを説明したくて孤軍奮闘した。
 脚が10センチほどの三脚にカメラを装着。超広角レンズをカメラに填め、部屋の角へ。セルフタイマーをONで、シャッターが落ちるのを待つ。カメラが部屋角にあるということは、ファインダーを覗けないのだ。厚顔なオレだけど、シャッターが落ちるまでの数秒間、表情を意識してしまう。掲載してる写真を撮るのに30分を費やした。
 まあ、こんな感じで、けあサポの原稿を書いているのだけれど、洗濯物が乾かないのには頭が痛い主夫でもあります。



疲れ

 今年、最初のショートステイは1月11日から14日までの3泊4日だった。我が家へのショートのお迎えは午前10時半前後。ショートからの帰宅は午後2時半頃となっている。
 で、母をショートへ送り出して直後、緊張感から解放されたのか? 突然に疲れが襲ってきた。ショートは、昨年の12月17日から20日までも利用している。ただし、この期間は東京と千葉へオレは出向いていた。その後に引っ越しの一切合切を終え、デイサービスがお休み期間の年末年始を乗り切った。
 ここで一段落ではない。やはり、新しい土地に住むということは最初にストレスがある。同じ岡山市内への転居とはいえ、かなり慣習も異なるのだ。その異なる慣習を知らなければならない。ゴミを出す日などは岡山市へ問い合わせれば良いのだが、地域によっては、燃えないゴミでも分別がかなり細かい所もある。町内会費や葬祭事。世間との折り合いは大事だ。
 もっとも、オレ一人なら深くは考えもしない。母と一緒なのだ。些細なことで、地域から疎遠にされたくはない。背負っているモノがあれば、誰でも慎重にならざるを得ないのが現実だろう。
 で、疲れ。なんと申しましょうか? 倦怠感の極め、とでも表現すれば良いのか? 母を送り出して直ぐに、改めて布団を引っ張りだして潜った。スーパーへ買い出しに出ないと食料がないのだが、自転車のペダルを漕ぐのも億劫状態。
 夕刻、なんとかスーパーへ。買い出しを終え帰宅。刺身を摘み、日本酒を呑む。やれやれ。
 しかし、倦怠感の極めはやはり根深かった。2合も呑まないうちから心拍数が上がっているのが分かる。刺身もあまり美味く感じない。身体は自然と布団の中へ。そのまま、何度か目覚めるも、母を気にすることなくシッカリ眠ったので、翌日はかなり身体も軽くなっていた。
 翌々日、かなり回復したので、母のショート先へ。
 「なにやってんの? ショートステイを利用する意味がないじゃない」
 との声もあるに違いない。
 しかし、気になるものは気になるのだ。
 公共バスを乗り継いで約40分の距離。母は食事中だった。ぬいぐるみ犬のクーキーを抱いて。あまりに愛おしくなり、携帯でパチリ。
 その後、母の洗濯物を持って帰路に向かったのだが、バス車中でつくづく納得した。
 我が家の在宅介護。ショートステイ利用なくして継続できない。

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プロフィール
野田明宏
(のだ あきひろ)
フリーライター。1956年生まれ。約50カ国をバックパックを背負って旅する。その後、グアテマラを中心に中央アメリカに約2年間滞在。内戦下のエルサルバドルでは、政府軍のパトロールにも同行取材等etc。2002年、母親の介護をきっかけに、老人介護を中心に執筆活動を開始。2010年現在、83歳になる母と二人暮らしで在宅介護を続ける。主な著書は『アルツハイマーの母をよろしく』『アルツハイマー在宅介護最前線』(以上、ミネルヴァ書房)など多数。『月刊ケアマネジメント』(環境新聞社)にて、「僕らはみんな生きている」連載中。
http://www.noda-akihiro.net/
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