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野田明宏の「俺流オトコの介護」 2010年09月

黄色の花束

 敬老の日。
 オレは、けあサポ9月22日掲載の写真を撮って帰宅。その後、母がデイサービスから午後5時前に普段どうりに帰宅してきた。
 出迎える。母はアルツハイマーと診断された数週間後からデイサービスを利用し始めた。それからというもの、母がデイサービスから帰宅時、オレは玄関そばの窓から外を伺いながら母を待つのが日課となった。今のデイサービスは5カ所目。4年目となったが、胃ろう造設後からだ。
 玄関口。夏は暑く冬は寒い。夏であれば汗を流しながら。冬であれば寒さに震えながら。もっとも、暑さと寒さに耐えられなくなると、部屋に戻り身体を冷やしたり暖めたり。帰宅時というのは、だいたい決まってはいるけれど、10分や15分の遅れは当然の世界だから。
 だけど、なぜ、汗ダグであったり凍えたりしながら玄関口に待機するようになったか? 
 それは、どうにも忘れられない光景だった。デイサービスへ通い始めた初日だったように記憶するが、初日なのでオレもスコブル心配していた。帰宅時間になった。玄関から出、車が着く玄関前の道路で待っていた。デイサービスの車が見えた。いろんな不安がオレの脳裏で交錯。車が横付けされた。
 途端、車中からオレの顔を見た母が微笑んだ。少し照れているようにも? スコブル嬉しそうにも見えた。職員にドアを開けてもらうと、直ぐに飛び出しオレの手を握った。
 母とオレの心理的距離についてはこの連載で後々記すことになるのだが、あまり良い関係が構築できていなかった。でも、その距離のある関係をその瞬時に克服できたのだ。たぶん、だけれど、オレの推測では、アルツハイマーという病が母の心理的距離まで忘れさせてしまったのではないか? 
 そんなこともあり、オレは当初、母のアルツハイマーを良性アルツハイマーなどと勝手に呼称していた。
 とにかく、最初が強烈だった。当然、今もこの日課を継続しているが、今夏はキツカッタ。やれやれ。
 で、敬老の日の帰宅時。職員のTさんが花束を抱えている。微笑みながら、
 「今年も届いたよ」
 写真にある花束だけれど、今回の敬老の日で3回目となる。
 オレは、最初のときTさんに聞いた。Tさんと花束の送り主は親しいらしいのだ。
 「どちら様なんでしょうか? お礼だけはさせて欲しいんですが?」
 「お母さんのファン。ということでええじゃない。ただな、お母さんのことは昔から知っていて、黄色が良く似合う女性だったらしいのよ。だから黄色の花束。一度も、お母さんと話をしたことはない、とも言ってたなあ!? ちょっとミステリーでいいじゃない?」
 オレは詮索しないことにした。
 ミステリーはミステリーのままが良さそうだから。

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父 6人部屋入院

 父を10ヶ月、母と交代で毎日、市民病院の六人部屋で24時間介護したのはオレが36歳から37歳にかけての頃だった。
 1週間や10日そこらなら、厳しい家計からでもなんとか個室を確保しようと努力したかもしれない。ただ、担当医師からは“少し長期の視点で”と最初に説明を受けたので、個室での介護は無視せざるをえない覚悟をした。父は、血液の血小板が著しく減少した状態だった。
 覚悟。大袈裟な表現ではない。6人部屋とはいえ、いつでも空きベッドがあるわけではない。逆に、緊急を要する場合、大部屋に空きがなく個室に空きがあるときなどは経済状況と相談せず心で泣いて個室入院ということもある。
 個室。当然、全額自己負担。保険適用ではない。疾病保険には多くの人が加入はしているが、家計の苦しい人ほど無加入というケースが目立つ。なかなか難しい問題。オレ自身で説明するなら、高血圧の持病があるため疾病・入院時保険は掛け捨てで加入している。
 そうだった。覚悟について。父が治療を受ける6人部屋でのベッドは確保できた。しかし、病棟看護師長(当時は看護婦と呼称。ここでは看護師に統一)から簡単な説明があった。この時点では、母が最初に付き添いをする予定でいた。
 「今、部屋のベッドの空きは一つです。そのベッドは、片側三つあるうちの真ん中にあるベッドです。一週間、とりあえず我慢してください。一週間後、窓際のベッドにお父さん、移動してもらえますから」
 真ん中。介護する立場からは最悪だった。今はどうか知らない。しかし、父の入院時、隣のベッドとの空間幅は1メートルにかなり満たなかったように記憶する。とにかく狭かった。寝袋がやっと敷けるほどだったから。
 どうしよう? 瞬時悩んだ。悩んだ理由は、やはり幅の狭さ。ここに母を泊まらせることに抵抗があった。まだ、隣人の入院患者さんがどんな人だかも分からない。父を部屋に連れていったときには不在だったから。一応、母もオンナであったし。
 決断。了解。オレがここで一週間泊まり込もう。父をベッドに寝させ、オレは院内の公衆電話へ。ウーム!? 今振り返ると、当時は至る所に公衆電話があったなあ!
 母に電話を入れた。とりあえず、母には着替えなどを持参してもらい、帰宅してもらう。母も了解した。排便・排尿は父が自力で行えていたから母も納得したのだと推測できる。
 じゃあ、なんで付き添い? 父は、かなり緑内障が進んでおり、歩けるのだけれど、視野狭窄になっており幅感覚が把握できなくなっていた。円形の筒を覗いて見て欲しい。そのまん丸の範囲以外は視野が欠けているのだ。これは恐い!
 だから、他人様と肩がぶつかることも頻繁。当然、お叱り頂戴。
 しかし、この1週間はキツカッタ。正直、お隣のベッドの方がどんな人だったかは記憶の外だけれど、スコブル気遣いした。床へ直に寝袋だったから身体も痛んだ。
 1週間経過。看護師さんからは、
 「息子さん、よう頑張ったなあ!」
 と誉められながら窓際へ移動。そして、母の到着。窓際はベッドと壁までの幅が身体二つ以上はあった。それが超ワイドに見えてしまったから不思議だ。
 入院となるといろいろだ。病棟名主のような人も存在する。ハルシオンを看護師さんに頼んでは、飲まないで貯めていた人もいた。
 お隣が常識に欠けた患者・介護者だとストレスは急上昇。例えば、テレビをイヤホーンなしで見る。音はデカイ。そのテレビは、父の頭の直ぐそば。
 「スミマセン。イヤホーン着用で見るようになってます」
 オレは、部屋に貼られたイヤホーン着用の紙を指しながらお願いする。お隣とは仲良くしたいけれど、父に忍耐も要求できない。
 夏。クーラーが効きすぎ、効いてないで患者間でケンカにもなる。
 病院大部屋。今も、いろんな泣き笑いドラマが展開されているはずだ。
 
PS
お見舞いの多い患者さんは、個室を選択される方がベスト。大部屋の場合、ただただウルサイだけの雑音。

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母の入院時 夜間声掛け
Photo 蜂谷秀人



敬老の日

9月20日、敬老の日。
写真撮影でお世話になっている 岡山県赤磐市にある グループホームひなた を訪ねた。
今年のテーマは まなざし。
もちろん、藤川幸之助さんの新刊“まなざしかいご”から。
ユニットは、“まなざしかいご”からの抜粋でイッパイだった。
「わたしたち、介護力はまだまだかもしれないけど、気持ちだけは“まなざしかいご”だったよね」
そんな言葉が切っ掛けで、テーマは まなざし に!
以下、写真で綴る まなざしかいご。

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今夏も乗り切った

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 やっと涼しくなってきた。
 岡山では日中30度を超す日が続いてはいるけれど、熱帯夜からは解放され、夜中に寝苦しさを感じることはほとんどなくなった。逆に、明け方は母にタオルケットを掛けてやらないとクシャミをすることも度々。やはり、母は季節に対して敏感。間違いなく、正しく生きている。
 今日、coopへ買い物に出掛ける最中、田んぼの用水沿いを自転車で走っていると赤トンボが乱舞していた。この用水路沿い。母の足腰が達者な頃、毎日、一緒に歩いていた。(写真は今日ではないが、稲穂が頭を垂れはじめている)

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 今夏、もう秋は来ないのではないか? などと疑問・不安も感じたものだ。しかし、遅まきながら秋は確実に身近まで迫っている。
 とはいえ、やはり今夏の暑さは異常だったのだろう? 昨日、とうとう冷凍庫が稼働しなくなった。冷蔵庫は生きているのだけれど、もう15年以上も頑張ってくれたから南無阿弥陀仏と念仏を唱え引退してもらおうか?
 とにかく、暑い夏だった。
 皆さんも、お疲れさまでした。
 そして、やっと言葉にできるかな?
 「和ちゃん、なんとか今夏も乗り切ったなあ!」



オトコが付き添うということ

 父を介護したのが35歳~37歳の頃だったと以前に記した。母との共同作業ではあったのだけれど、もうかれこれ20年が経過したことになる。今、十年一昔のサイクルではないにしても、随分と昔に父の介護を経験したことになる。
 当時、男性介護者云々などと世間で問われることはなかった。新聞等、マスコミなどが問題提起している記事を見ることもなかった。
 そういう慣習・常識の最中、オトコが病院で介護するということはかなり異端であったように思う。当時、オレは形振り構わずだったので客観視して自分を見つめる余裕などなかったけれど、振り返れば、確かに男性介護者と出会うことなど病院内でほとんどなかった。市民病院だったからかなりベッド数もあったが記憶にないのだ。
 一週間ほどを病院で介護。ということなら、他に男性介護者が存在していても出会わなかった可能性はある。すれちがい?
 しかし、オレは10ヶ月を母と交代で父を介護した。24時間介護。1日交代で。つまり、父のそばにはオレか母が必ずいた。
 そうそう。以前に記したのは介護デビュー。このときも同じ市民病院ではあったけれど、この10ヶ月は父が新たに入院しての出来事だ。
 付き添いをしている家族のために入浴日が設けられていた。浴場はひとつ。オトコであるオレが入浴希望ということで混乱が生じた。浴場は四人ほどが一度に入れるほどだった。オレが希望するまでは、女性ばかりだから入浴時間内であればいつでも女性軍は入浴できた。
 ところが、オレの出現。いつでもどうぞ、とはいかなくなった。オレ一人のための入浴時間を設定しなければならなくなったから。オレは嬉しいけれど混浴などありえないし。病棟婦長からは、極めて異例の事態であることだとも教えられた。
 そして、オレが入浴するときには入り口に、
 『男性入浴中』
 の張り紙を必ずしてから入浴することとなった。
 だから、この事態から推測してもオトコの介護者はオレひとりではなかったか? と、今になって想像するのだ。病院へ泊まり込んでの男性介護者は、という前提で。
  現在、認知症で徘徊等がある患者さんには、病院側から家族の誰かがが付き添うよう依頼されることも少なくない。患者家族からすれば、指導に近い雰囲気を感じるとも聞く。
 原則付き添い廃止であったような記憶があるけれど、家族が付き添えない場合、付添婦さんを頼むことになる。家政婦紹介所を、病院側が家族に紹介することがあることをオレは知っている。家政婦さんは家族として付き添う。暗黙の了解は出来上がっている。
 付き添い廃止=有名無実
 病院で付き添うということ。ストレスとの戦いだ。オレの父が入院していたのは6人部屋であったし。
 では、どうストレスだったか? それは次回で!

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 PS
 母も尿路感染等で何度か入院を経験したが、個室ばかりを依頼した。
 写真は2006年。
 Photo : 蜂谷秀人



今まで以上に信頼・安心して

 8月末に東京に出向いている間、いつも利用するショートステイに母を託していた。東京では充実した時間を過ごし、この連載担当のT女史とも二人でお茶などもした。
 東京ではタイトでハードなスケジュールだったので、母には四泊五日ショートステイでお泊まりしてもらった。過去、最長は三泊四日だった。
 東京から帰宅し、直ぐにメールチェック。何件か入っている中に、ショートステイ先からのメールもあった。これは一番に開かないといけない。過去、こんなケースは皆無だったから。
 開いた。ショートステイのケアマネジャーからで、母が表皮剥離をしたとある。そして、申し訳ありません、と。直ぐに電話を入れた。電話では要領を得ない。翌日がショートステイから帰宅日だったので、ケアマネジャーに一緒に我が家へ来て説明して欲しいと命令調で問うた。伺います。との返事。
 翌日、ケアマネジャーが運転する車で母は帰宅した。表情は普段どおり。母をベッドへ寝かせ、表皮剥離したという背骨の部分を確認。以下の写真のようになっていた。

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 ケアマネジャーの説明では、車椅子に座ってもらっている2時間ほどの間に起こってしまったとのこと。
 オレは反論した。母を最初に預けたとき、同じような表皮剥離を太腿に作って帰宅した経緯もある。職員も一生懸命なのは理解できる。が、一生懸命やって事故となると技量が足りないのでは? と疑いたくもなる。
 とにかく、オレは15分ほど怒りも混じった問い掛けをした。とはいえ、筋違いな発言をするほど沸騰してたわけではない。
 まず、誰が母を車椅子に座らせたかを教えて欲しい。次に、誰が母を車椅子からベッドへ移し、背中の表皮剥離を確認したのかを教えて欲しい。
 問いただされている側には厳しいことは間違いない。ただし、オレは犯人捜しをしているのではない。一人ひとりのその場の行動が把握できれば、次に関わった人に繋がるからだ。
 というのも、このとき、ケアマネジャーからの説明があまりに具体性に欠けていたから。
 車椅子に座っていることもそうですが、いろんな流れの中で…、という事だったので、オレは具体的・詳細な説明を求めたのだ。
 結局、明確な回答が得られないままにケアマネジャーには帰路についてもらった。
 翌日、ケアマネジャーから電話が入った。今回の件の検証を職員皆で行ったとのこと。そして、普段使用してるエアマットではなく、低反発マットを利用していたことも表皮剥離になった一因であるのではないか?
 夜間の体位変換を定時で行ったという確認がとれない等、ショートステイ側としては言いづらい・認めづらいことを詳細に報告してくれた。
 オレは納得した。
 「分かりました。この件はこれで終わりにしましょう。ありがとうございました」
 で、長々とオレはここに記してきたが、何が言いたいか?
 聞く耳をもつ姿勢。利用者本位を貫く姿勢。
 確かに、事故は起こしたが、その後の姿勢が嬉しいのだ。人間関係。デジタル化などあり得ない。気持ち。心。全てアナログだ。
 オレは、これからも今のショートステイに母を託す。今まで以上に信頼し安心して。



恥ずかしくも哀しいお話

 介護とウンコは切っても切り離せない。と、明言しても異論を挟む人は滅多にいないはず。
 在宅であろうが施設であろうが、身内であろうが他人であろうが、お年寄りの排便処理と初めて向き合うとき、これはやはり勇気と気合いが必要となる。
 「赤ちゃんと同じでしょ?」
 とオレに口を尖らせた若い女性もいたが、絶対に違う。あくまで一般論だが、赤ちゃんを世話するのは実母。母性本能にもビビッとくるはず。我が子のウンチと接して、
 「良い子じゃなあ! イッパイ出たねえ。ありがとう。ママ、スゴク嬉しい\(^O^)/」
 などと独り微笑みながらウンチ処理をしている光景が目に浮かぶ。もっとも今日、これが一般的ではないのかもしれないが、オレが知る周囲の世界ではそうだった。
 では、お年寄り&大人はどうなのか? やはり臭いもキツイ! 赤ちゃんのように可愛いウンチでもない。なにせ身体が大きいので、赤ちゃんのようにお尻をヒョイと持ち上げてオムツ交換するわけにもいかない。とにかく、排便処理と記せば同じだが、似て非なるモノなのであります。
 ヤレヤレ。ウンコ論の前置きが長くなってしまった。
 で、オレの介護も9年目になってしまったが、超恥ずかし事件を赤裸々に告白したい。これもウンコ関連。母のではなくオレの…>_<…。
 まだ、母がなんとか数歩は歩ける頃だった。数歩。実は、これが介護者にとってはスコブル厄介なのだ。事件が起きる前にも、母は後方転倒し頭を打ち4針縫ったばかり。蛍光灯のスイッチを入れる紐に掴まり、全体重を支えようとしたのだから無理があった。紐は切れ、後ろに落ちた。
 そんなこんながあり、オレはオレ自身の排便処理にも困った。オレは、トイレに行ってパンツを下ろし、出して、拭き、パンツを上げる。全てをちゃんとこなせる。オレってエライかなあ?
 冗談を言ってる場合ではない。当時、母とオレの布団は万年床。今も基本的に変わりはないのだが、母の万年床は電動ベッドになった。その万年床にちゃんと寝ていてくれれば問題は一切ない。ただ、起き上がろうとして、運良く立て・歩けたとしても数歩のみで前に滑り込むようにして落ちる。
 母とオレの万年床からトイレまでには三畳間が一つあり、母の位置からは5メートルはないはず。オレは事件の日、母に何度も言った。トイレに向かう前に。
 「和ちゃん、ちゃんとここに寝とくんで。頼むでホンマに!」
 母はこの頃、まだ失語はしておらず、「ふん」ぐらいの相づちは打った。信用はできなかったけれど、オレの忍耐も危うくなってきていた。オレの肛門は膨らんだり萎んだりを繰り返していたから。
 エイヤッ! オレはトイレへ。和式。一度は屈んだものの、心配なので尻だし後ろずさりして再確認。寝ている。ヨッシャ! GO!!
 オレのウンコは勢いよく出始めた。途端、ガシャーンという音。母だ。どうにもこうにもならない。ウンコを出し切らないまま、拭くことさえできずオレはトイレから出た。母がいない。横を見る。すると、母がガラス戸に倒れそうになりながらもしがみついている。ホッ!
 「和ちゃん、頼むで! ちゃんと」
 などと愚痴っていたところへ、
 「おはようございまーーす」
 元気のよい声が響いた。デイサービス職員の声。そうなのだ。母のデイサービス出陣のときなのだ。
 準備はしてあったのでそのまま送迎車へ。すると、職員から不穏な声。
 「和子さん、便の方は大丈夫ですか?」
 臭うのだ。オレの出し切れなかったウンコを、母が粗相していると。当然だろう。まさか、今このとき、出し切れなかったウンコのことでオレの肛門も頭もはち切れんばかりだと想像できるわけなどない。
 「和ちゃん大丈夫だから今日もヨロシク」
 デイサービス職員の怪訝な顔を他所に、オレは最速でトイレへ。
 全てを終え、オレはオレのパンツを手洗いし、洗濯機へ放りこんだ。
 恥ずかしい というより 哀しいお話でした。

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トイレから見て、三畳間、万年床、母の電動ベッド



石井英寿さん

 8月30日。午後8時過ぎから10時半までの2時間少々、「宅老所・デイサービスいしいさん家」の石井英寿さんと一緒に過ごした。
 いしいさん家といえば、映画“ただいま それぞれの居場所”で紹介されており、映画についての私的論評は、この連載の6月29日付けで記している。
 石井さんに会ってみたい とも。
 その念願がかない、石井さんと飲んだ。KOBUの会(7月23日付けに詳細)に招待したわけだ。

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 石井さん、自称160センチ。オレの身長が163センチだからお互いの目線はほぼ同位置になる。ただ、映画の中では大きく見えた。やはり存在感も大きかったからだと思う。
 身に着けているモノは質素。映画の中のまんまの仕事中から飛び出してきたと表現しても過言ではない。たぶん、現実にそうだったに違いない。彼は、KOBUの会終了間際にやっと到着したのだから。
 石井さんを独り占めにできたのは、2次会に流れた小川幾多郎さん経営するキタローネ(7月15日付けに詳細)でだ。

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 サービス精神旺盛であり、ひょうきん族そのものである石井さん。しかし、その体内に潜む熱いマグマが言葉となってオレに向かってきたとき、
 嗚呼! やはりこの青年は真摯にお年寄りと向き合っている
 と心底から嬉しくなった。
 石井さんに会いたい は現実になった。
 「石井さん、今度いつになるかは未定だけど、いしいさん家に寄らせてもらっていい?」
 「どうぞどうぞ。いつでも構いませんから」
 社交辞令などではない、本物の招待をゲット。もっとも、誰でも自由に出入りできる自由な場所であることは承知していたのだけれど。
 次の目標が決まった。
 いしいさん家に行こう!
 オレとは20歳ほども年下の青年だけれど、
 ともだち
 になれると、今は勝手に決めこんでいる。
 アッと! 青年を“好青年”に訂正。



在宅介護者とは?

 ときどき強烈に思うのだけれど、名刺の肩書きを替えようかな? と。ウーム! 先の“肩書き”と記すだけで5分を必要とした。ヤレヤレ。肩書きコンプレックスかもしれないオレは?
 まあ、肩書きといっても“フリーライター”とだけ記しているのだけれど、これって事実? と自分自身に問い掛けるオレが度々おるのです。
 フリーライター。この肩書きと自分の名前を入れた名刺さえ作れば即、一丁上がりと囁かれている現実。実績なくしても、職業を偽ってるなどと世間から非難されることもない。ただただ、生活が苦しいだけ。
 もっとも、夢を食べていられる間は生活苦もなんのその。オレも、世界の戦地を駆け巡るジャーナリストになる、という夢を追いかけて、北新宿の三畳一間トイレ共同で何年も踏ん張れたのだから。結果、無謀ではあったけれど、内戦下の中米エルサルバドルで政府軍のパトロールに同行取材することはできた。しかし、それまでだった。
 恐怖が夢を駆逐した。
 前置きが長くなった。コツコツと介護については書いてきた。著書も数冊。地方紙2社で連載もした。まあ、とりあえず実績だけは築き上げてきたと思う。
 ただし、母の介護も9年目に突入した。この間、在宅介護の合間をぬっての取材であったり原稿を書いたり。つまり、オレは在宅介護者であるということが背骨なのだ。
 だから、名刺も、
 在宅介護者 野田明宏
 とするべきではないか? と、そんな思いが鋭く心の底から湧き上がってくるのですね。
 オレは在宅介護者として母と一緒に3年間、父も介護している。母の介護も9年目。胸を張って、在宅介護者と記せば良いのでは? と、在宅介護者という立場から正々堂々ともしたいのだ。
 ところがだ。在宅介護なんていうのは、10年頑張ろうが20年踏ん張ろうが、何らの資格を得ることもできず、得られるチャンスさえないのだ。この現実が、在宅介護者の位置づけを端的に表していると確信する。
 在宅介護者はアマチュア。それはそれで良い。だけど、在宅介護するためにホームヘルパー2級養成講座を受講・終了する方々も多い。我流ばかりではないのだ。皆、それなりに知恵を絞り、在宅介護最前線に立っている。
 在宅介護アドバイザー
 などという資格を創っても良いのではないか? 
 在宅介護を終えた人は、かなり極端に別れる傾向があるとオレは思う。ヤレヤレ解放された。これで、介護とは無縁だー、という人。
 一方、解放されたからこそ、今を介護で苦しんでいる人に役立ちたい。事実、こういう方々は多いのだ。
 介護職であった人が、身内を介護するようになって慌てふためいている場面に遭遇することも少なくない。在宅介護というのは別物なのだ。
 だからこそ資格創設。
 オレもチャレンジするぞ。そして、名刺には、
 在宅介護アドバイザー2級  野田明宏
 そんな遠くない未来に現実化されそうな気がしてならない。
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プロフィール
野田明宏
(のだ あきひろ)
フリーライター。1956年生まれ。約50カ国をバックパックを背負って旅する。その後、グアテマラを中心に中央アメリカに約2年間滞在。内戦下のエルサルバドルでは、政府軍のパトロールにも同行取材等etc。2002年、母親の介護をきっかけに、老人介護を中心に執筆活動を開始。2010年現在、83歳になる母と二人暮らしで在宅介護を続ける。主な著書は『アルツハイマーの母をよろしく』『アルツハイマー在宅介護最前線』(以上、ミネルヴァ書房)など多数。『月刊ケアマネジメント』(環境新聞社)にて、「僕らはみんな生きている」連載中。
http://www.noda-akihiro.net/
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