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野田明宏の「俺流オトコの介護」 2010年08月

母は正しく生きている

 厳しい残暑 お見舞い申し上げます。
 8月も最終日。本来ならば、
「やれやれ、今夏もなんとか乗り切ったぞ」
 となるところ。しかし、この夏の残暑はスコブル厳しい様相。9月も真夏らしい?
 オレがガキの頃、お盆が過ぎれば途端、秋をアチコチで感じたものだ。そして、夏休みの終わりを嫌でも肌で納得させられた。振り返れば、小学生にして季節の移り変わりからセンチメンタルを覚えていたのだ。
 ところがだ。岡山市では、8月15日から24日までの10日間、最高気温が36度を超えた。なんと、お盆過ぎてから気温は一層の上昇。
 確かに、朝夕はスズムシなどの鳴き声も聞こえてくる。オヤッ? と感じつつスズムシも予定を組んでの出番なのだろうが、あまり元気ある鳴き声とは思えない。

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 我が家では室内の温度設定を28度にしてある。しかし、外気温が35度を超えてしまうと、28度設定では室内が28度にならない。30度近くをさしていることもある。母の背中に手を触れる。発汗してTシャツが濡れている。オレは汗まみれになって母の背中をタオルで拭き着替えさせる。エアコンは即効モードに切り替え。
 夜から朝にかけても暑い。最低気温は27度前後を毎夜ウロウロしている。なので、夜中の母の管理もより一層の注意が必要となる。我が家の場合、窓は全開にしてエアコンは除湿モード。冷えすぎたら、母はクシャミで知らせてくれる。認知症であっても、これだけは間違いない。ウソでも作話でもない。
 こういうとき、強く思う。
 母は正しく生きている と。

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母が通うデイサービス

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 一生懸命に母がヨーグルトを食べている。デイサービス職員が母の口元にスプーンを差し出すと、本能的であるかのように口を空ける。
 本当に一生懸命。写真を撮りながら、オレはなんだか胸が熱くなり切なくもなった。とはいえ、ヨーグルトだけだけれど、まだまだ口から入る現実に喜びが切なさを駆逐する。
 さて、写真は七月中頃に撮ったものだ。母はオモイッキリ髪を切っている。夏。これでいいのだ。最初は少し違和感もあったけれど、慣れてくると短毛の和ちゃんもなかなか良いではないか。
 で、今回は母が通うデイサービスのお話なのだが、まずはヨーグルト。母の便秘症はかなり頑固。胃ろうで経管栄養にすると下痢をしやすくなる、とも聞いていた。とんでもない。母の便秘症に変化なし。お通じを良くするため、口から食べるを忘れないためにデイサービスは頑張ってくれているのだ。
 今のデイサービスへ通い始めて丸三年が経過した。胃ろうを造設してからだ。
 実は、ここに通い始めて以降、オレは母の排便処理をしていない。全てお任せ状態。一週間に一度、浣腸等をしてからトイレに座って出してくれている。もちろんサイクルが狂うこともあるのだが、そこは臨機応変に行ってくれる。排便については、今、オレより母を把握してくれていること間違いなし。
 「今日はなあ、ホンマにええのが出たんよ。『写真に撮って、息子さんに見せてあげたいなあ!』言うて職員皆で大笑いしよったんよ」
 楽しそうに報告してくれる。ありがたいことだ。
 先にも記したが、母の便秘症はスコブル頑固。半月出なかったこともある。もっとも、浣腸などはせず自然排便に任せていたのだけれど、オレが母の肛門から指を入れても直腸に下りてきていないのだ。直腸にあれば掘り出す。摘便だ。数え切れないほどに母のウンコを掘りました。まあ、在宅介護者であれば誰でもすること。
 ただなあ! 今、突然に母がウンコを肛門にぶら下げている状態と遭遇したら、オレはかなりパニックかも? なんせ、3年間も母の排便処理という実践から遠ざかってしまっているのだから。ヒェー!!
 ところで、8月も終わろうとしている頃に、なぜ7月に撮った写真なのか? ヨーグルトを食べている写真など、いつでも撮れるだろうに? と疑問符の読者方々も少なくないと想像する。
 この写真を撮った日、母以外に胃ろうの利用者さん二人。利用者さん九人中三人が胃ろう造設者だった。この日は利用されていなかったけれど、もうお一人胃ろうの方が。四人も胃ろう造設者を受け入れているデイサービスは珍しい。定員九名の小規模デイサービスでだ。他利用者さんも要介護度が高く、オレがパチパチするためにアチコチ動いたら狭いデイサービスなので迷惑を掛けること必至。オレも、そこら辺りは配慮しなければならない。
 実は、このデイサービスは介護保険が始動する以前から稼働していた。岡山市というより岡山県下で、介護の世界では一目置かれていた。今も、研修という名目で勉強に来る介護職は少なくない。当然、オレも噂は聞いていた。
 母がアルツハイマーを宣告されて、まず頭に浮かんだのがここだった。デイサービスへ通わせながら在宅介護。
 翌日には直接訪ねた。ところが、どの日も定員イッパイ。空きが全くなかったのだ。仕方ないな。というのが実感だった。しかし、失望も大きかった。
 そして、四つのデイサービスを経験して、改めて今のデイサービスへ通い始めて三年だが、胃ろう造設して後のデイサービスが決まらず、悩んでいたところへケアマネジャーからの朗報だった。
 驚いた。ここは無理だ、と最初から諦めていたから。
 今、デイサービスへ出してるとき、オレは全く心配していない。もし、なにかあっても、それは母の運命なんだと思えるようになった。そこまで信頼しきっている。
 時々、介護保険枠外で母の時間延長をお願いする。一時間千円。相場だろう。だけど、母に対応する職員は二人。不測の事態があったとき、一人では対応仕切れないからと管理者のTさんは言ってくれる。感謝!
 認知症在宅介護。なかなかじゃないけれど、暖かくも優しい人たちに囲まれている。
 幸せ。
 オレにはあまり縁がなかったけれど、最近、この二文字が直ぐそばにいてこれることを実感することも多くなった。

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胃ろう交換

 8月18日、胃ろう交換をしてきた。
今回より、胃ろうがキッチリと埋め込まれてるかを確認するため、胃カメラを飲んでの交換となった。
 可愛そうだなあ! 辛いだろうな!
 そのように想像し、以前と同じように処置室で簡単に交換してもらえないか説明担当の看護師に食い下がったが、病院の姿勢として新たなに決まったことなので承諾しないと交換できない と。
 微妙にケンカ越しで承諾。
 少し胸を痛めながら母を送った。
 30分ほどで帰還。写真のように疲れ切った表情。オレは、頭の剃り込み状態増幅。

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これからの交換は、その度に、少しシンドイ思いをしないといけない母。オレもストレスだ。
 母の口周りは、強者どもの夢の後状態。局部麻酔するも、かなり抵抗したらしい。
 やれやれ。
 胃ろうの胃の内側の写真を頂戴した。
 しかし、素人目にも母の胃はキレイだ。

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罪滅ぼし

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 まずはグワッチリと写真をご覧ねがいたい。父の遺影がある。かなり枠からズレ落ち気味だけれど、父亡き後、母がここに置いた。その前面には今年の干支である寅がいたり、オレの指荒れ予防の薬があったりする。主夫をはじめてから手荒れするようになった。余談だが、父も母も寅年生まれ。つまり今年、母は年オンナでもある。
 そして、なぜだが秤があって、秤には母の尿取りパッドが乗っている。出したてホヤホヤ。計測は480グラムほどを指しており、尿取りパッドの重さ60グラムを差し引いて420グラム。午前8時半、母の排尿は420グラムでありました。
 これを毎回、“和ちゃんオシッコ手帳”に記入している。母の失禁が始まってからだから、このオシッコ手帳もNO10。バックナンバーはシッカリ保管してある。
 でだ。前回でかなり詳細に記したので、父、オレのオヤジだけれど、「困ったオトコだねえ」と思われた方々も多いに違いないと想像している。本当に困ったオトコだった。
 父は六十六歳で逝ったのだけれど、六十歳前に勤めていた会社が倒産。母も同じ会社? 食料品を主に扱う卸問屋のような所であったのだが、そこは生き残るために練炭等も売っていた。母は、その練炭を担ぎながら、事務も全てを任されていた。
 会社が倒産したことを切っ掛けに、父も母も第一線から退いた。母の方は、算盤と事務に長けていたので会計事務所からリクルートされたりもしたのだが、父が心配で断った。
 というのも、この時点で父は生きる屍状態のようになっていたから。
 「あとは、もう待つだけじゃ」
 こんな言葉を頻繁に口にする父。待つは、死を待つと理解するのが妥当だった。動かない。寝たまま天井と睨めっこしている時間がほとんどだった。
 オレは思った。
 「なんで、こんなオヤジとお袋は一緒になったんだろう?」
 オレは、それを母に問うた。頻繁に叩かれ蹴られしていたのに?
 「あんた、そんな風に言うけれどなあ、お父ちゃんは本当は優しい人なんよ。ちょっと気が小さいだけだったんよ。そんな風にアチコチで言わんようにしてよ」
 こんな応えが返るばかり。夫婦とは? 不思議かつ魑魅魍魎。
 確かに、オレも良くない。父の優しい一面を記してこなかった。キャッチボールはよくしたなあ! その延長線に甲子園という夢を見られたのだから。一応、補欠出場ながら、オレも甲子園球児でありました。
 さて、写真に戻るが、父の遺影の目前に秤があり、その秤で母の尿量を計測する。母の尿。けっこう臭う。父には申し訳ないとは思うのだが、秤を置く場所はここが最適なのだ。
 モノは考えよう。母が愛おしい父にマーキングしていると思えば一件落着。父には、もうしばらく忍耐してもらおう。これも母への罪滅ぼしだ。



まごのて村デイサービス

 介護雑誌の依頼を受け、久々に介護施設を取材した。撮って書く。文字数は原稿用紙換算で6枚ほどか? 
 介護施設の職員や利用者であるお年寄りの写真を撮るということ。これはオレ自身のライフワークになりつつあるので、母がデイサービスへ出陣している合間をぬって出向いてはシャッターを切ってきた。
 ただ、これだけの文字数で施設紹介となると力が入る。取材。施設関係者はもちろん、お年寄り個々からも直接に聞き取りをしなければならない。認知症の方も少なくない。更には、必要であればお年寄りご家族からもお話を聞くことになる。つまり、時間を必要とする作業なのだ。急いではいけない。
 写真は11日に撮った。母がデイサービスで過ごしてる時間に。情報収集。利用者さん個人のプライバシー。施設の歴史、現況。これからの方向性や課題をコツコツと聞き集める。
 介護の現場を取材するとき、個人情報保護が取材者には大きな壁となる。もっとも、今回の取材をお願いしたデイサービスは地域との密着度が高く、施設側と利用者さん、そして利用者ご家族との信頼関係が蜜でもあり大きな壁は簡単にクリアできた。
 今、その収集した情報をいかに文字で表現するか? だけの作業が残っているだけ。つまり、あとはオレの器量次第ということだ。
 その、今。現在進行形のお盆ど真ん中。母はショートステイで踏ん張ってくれている。オレも、母の踏ん張りを無視はできない。
 「お母さんをショートに預けてるときぐらい、ゆっくりして自分の好きなことをしないと」
 こんな風に心配してくれる人が周囲に多いのだけれど、ゆっくりしていても充実感を欲してしまう。いや、取材することが楽しいのだ。母の密着介護で、取材したいのにできない期間が長かったから。

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 その母がいるショートステイへ、取材先である“まごのて村デイサービス”の社長・中川氏と訪ねた。若干37歳。現在、二つのデイサービスを運営し、今年度末には小規模多機能型居宅介護施設と三つ目のデイサービスが立ち上がる。介護付き有料老人ホームの認可も受けた。勢いがある。
 オレは54歳。なんだかなあ? と自問自答してしまう。でも、それはそれ。オレは、書く。それでいい。
 素敵な出会いを期待しながら。
 下の写真もそうだ。中川氏の奥様からいただいた手作りクッキーに添え書き。素直に嬉しい。貧乏してでも書いていける支えだ。
 オレは、オレ自身にエールを送る。
 野田明宏。ファーーイト!!

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衝撃的介護デビュー

 今回は、オレの介護デビューについて記す。母の介護ではなく、亡き父の介護でデビューしたのだが、それは極めて衝撃的であった。
 父が逝ったのは十七年ほど前だから、オレは三十五歳から三十七歳までの三年間、母と一緒に共同作業のような形で父を介護した。看取りは、看護師の従姉妹と母、そしてオレの三人だった。今、この原稿を書いてる部屋で。
 身体中に褥瘡を創ってしまったけれど、最後は、文字通りに“スーー”と旅だってくれたことが介護者である我々には慰みになった。
 さて、介護デビューについて詳細を記したいのだが、あまりに長編になってしまうのでかなり省略することをお許し願いたい。
 父がO病院へ前立腺肥大の治療で入院した。数日後、経過良好で退院することに。ところが、この際だからアチコチ検査して欲しいと父が改めて入院希望した。ここまでは母からの又聞き。
 それから三日ほどが過ぎた夕刻、母から電話が入った。
 「お父ちゃん、肺炎になったみたい。今夜は付き添うから、明日、お父ちゃんのシャツとか病院へ持ってきて」
 翌日、オレは病院へ。六人部屋。片側三人真ん中のベッドで高熱をだして苦しんでいた。結論から言えば、MRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)というヤツに院内感染してしまったのだ。
 医師に呼ばれ、ほぼ九分九厘、助かる見込みはないと説明も受けた。とはいえ、父は生き延びた。母はといえば、リカバリールームと呼ばれる四人部屋で、ほぼ一週間を寝ずの看病だった。オレは、ときどき病院を覗くも、本当に覗くだけだった。
 唯一、行ったことは、父は死を宣告された状況だったので葬儀屋さんに事情だけは説明しておいた。もちろん、死に近い領域から生の世界へ帰還したので断りの挨拶にも出掛けたのだけれど。
 で、だからといって直ぐに退院できるわけではない。院内感染という事情もあり、病院側も配慮してくれ二人部屋を無料で使用させてくれることになった。付き添う母を気遣ってくれてのことだ。一方のベッドで休息しながら介護してください、ということだ。
 しかし、母は疲れ切っていた。あまりに酷いので、オレは心にもないことを口走ってしまった。もちろん、不祥息子からこんな言葉を聞けば母も少しは元気がでるかな? という、オレなりのオレ流気配りだった。実践する気など全くなかったのだから。
 「よう頑張ったなあ! 今夜は家に帰ってゆっくり休め。オヤジはワシが看るから」
 母が頷いた。そして、紙オムツのある場所等をオレに確認させ、母は背中を向けて帰路へと。アッという間の出来事で、オレにはその流れに逆らう術がなかった。
ただ、母は、
 「お父ちゃんは点滴ばかりで過ごしてきたからウンコの心配はしなくてええよ。オチンチンに管が入ってるからオシッコも大丈夫。あんたは、そこのベッドで寝るだけじゃ」
 間違いなく、そう言い残して帰って行ったのだった。
 夏だった。しかし、省エネで午後八時にはクーラーがオフになり、部屋には熱が籠もり始めた午後九時過ぎ。
 オレは、ベッド脇にある小さい蛍光灯で読書していた。どこからか? ピピプピーみたいな音が聞こえた。無視。
 ところが、一分もしない間にビビビブビバービャーの激しい音。音色を正しくは表現できない。
 部屋の蛍光灯を点けた。父に目を向けた。悲惨。無残。
 その頃のオレは、介護はオンナのやるべきこと、というか、介護などとは全く無縁。だから、オレには想像外の世界がそこには展開されていた。父の背中から下半身先までが下痢便で包まれていたのだ。水便と表現した方が正しいのかもしれない。
 オレと父とは折り合いが悪かった。オレが子供の頃は、鉄拳が頻繁に飛んできた。そば屋に二人で入り、そば汁をガタンとこぼしたときなどは、その場でキョーツケーをさせられた。そして、説教されながらのビンタ。ギャラリーも多くいた。忘れたくても忘れられない。そんな事が茶飯事だった。母が泣き泣き止めるのだが、矛先は母へ。ビンタされる母を見て、オレは更に涙が溢れた。
 そんな経緯もあり、オレは激高してしまった。ただ、この始末はオレがやらなければならないと思い、看護師を呼ぶことは思考の外だった。
 父はオチンチンに管。更には、左腕に点滴。オムツ処理など想像したこともないオレがいて、修羅場は始まった。それでも、三十分ほどで、シーツ替えまでもやってのけたのだが、最中、とにかく父との過去が蘇るのだ。
 「なんじゃこれは? クソだらけけじゃねえか。迷惑かけたらどうなるんならオオッ! キョーツケーしてみい」
 父の身体を右に左にしながらオレは罵声を浴びせる。
 「すまんのお スマンノオ」
 泣く父がオレの眼下にいる。
 「泣いても許さんぞ」
 もう、これ以上は書けない。
 それから数時間後、オレは哀しみの中にうずくまった。
 オヤジはオヤジ。いつまでも憎まれるクソオヤジでいて欲しかった。強いまま。弱いオヤジに罵詈雑言を投げつけたオレ。
 なんだかもう、頭が爆発しそうだった。


母のアルバムから 高等女学校時代
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踏ん張ってくれる母に感謝!

 ついさっき、オレは買い物から帰ってきた。買い物といっても、Coopへオレの総菜を買いに出るだけ。今、オレは全て総菜に頼っている。軽い食事なら作れる。山芋の千切りは得意技。これは結構むつかしい。
 さて、今日は往診の日。往診時が午後3時過ぎだから母は3時前には帰宅する。デイサービスへの出陣が午前9時20分頃。送迎の時間を考慮すると、実質なところ母はデイサービスへ5時間ほどしかいないはず。行きは、母を車に乗せた後、他の利用者さん宅を廻って向かうので、デイサービス到着時間は10時少し前になるから。
 母を送り出すとき、デイサービス職員とオレとの二人がかりで車に乗せる。オレが母の両脇から腕を通し、ガッチリと背中から胸をオレの両腕で囲む。職員には両脚を担いでもらってオレの万年床から運び出す。母には、ベッドからオレの万年床へ下りてもらっている。帰宅したとき、車から部屋に入れるときはオレが両脚を担ぐ。

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 どこかのコラムで、玄関先までのお迎えで、家の中まで上がらないデイサービスがあるとか云々あったけれど、オレの周囲でそんな話を聞いたことはない。母の状態を把握して、家の中までは入れません、などというデイサービスをオレは信じられない。
 デイサービスと利用者家族間。介護保険にはいろんな縛りがある。デイサービスの車に家族は同乗できない等。
 介護タクシーに至っては、病院へ向かってる途中にコンビニで缶コーヒーを飲みたくなっても途中下車はしてくれない。 
 介護保険。現場の介護職員たちも分かっているのだ。融通の利かない制度であることを!
 なんだか暑すぎて、本旨からかなり逸脱してしまった。今、クーラーにクールダウンさせている最中。室内の温度計は34度に近い。クラッときそうなので、とりあえず水分補給。アクエリアスをゴックンと。
 書きたい、言いたいことが、こんがらがってしまった。
 つまり、今日のような日、母をデイサービスへ送り出すこに申し訳なさを感じるのだ。5時間ほどのデイサービスへの滞在。往復路、陽射しも厳しく暑い、熱い!
 踏ん張ってくれてる母に感謝!
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オレだけなんだろうか?

「野田さん。お母さんを一生懸命に介護しているのは理解できるけど、そこまで力一杯にしなくていいでしょう。“一生懸命”と“力一杯”は全く別よ?」
 本年二月、中京テレビが我が家の介護を取材しに来た。六分ほどニュース内で流れたのだけれど、番組録画を一緒に観ていた介護職の女性から冒頭の“もの言い”がついた。
 “もの言い”の場面はオレが母にリップクリームを塗っているところ。二月はもっとも空気が乾燥している頃で唇も乾く。とはいえ、“もの言い”がつく場面ではないのだ。その時点ではそのように確信しカチンとも来た。全く意味不明ではないか?
 ところが、改めて彼女の説明を聞くと、否が応でも納得せざるを得ないオレがいた。
 「なんで、あんなに強くリップクリームを和ちゃんの唇に当てるかなあ? ゴシゴシやってるだけじゃない。軽く唇に触れさす程度でいいのよ。和ちゃん、言葉が出せたら『痛い!』って言うよ? 絶対。和ちゃん、ガマンばかりだよねえ!?」
 母を、和ちゃんと呼ぶ親しい関係だからハッキリと言えるのだろうけれど、オレも番組録画のその場面を何度か見直してみると、母の唇にリップクリームを押しつけながら右に左に。確かに、指摘どおりに“痛いだろうな”と思った。参った! 返す言葉がなかった。深く反省。
 しかし、オトコの介護などというのは力任せのところが多分にあるのではないだろうか? なんだかいつの間にやら在宅介護という渦の中にいた、という男性軍のほとんどが我流だろう、と推測する。もちろん、介護技術を取得した男性介護職は別だけれど、在宅介護最前線に立つオトコたちのほとんどがオレ同様のオレ流で踏ん張り続けているのでは? と想像できる。
 オムツ交換にしても同様。オレがオムツ交換してるところに初めて立ち会ったときの訪問看護師さんやデイサービス職員等は決まって言う。
 「野田さん、そこまでビシッとオムツを固定すると、和子さん、お腹かが苦しいですよ。もう少しオムツに余裕をもたせないと。もっと緩くでいいんですよ」
 オレはオレなりに、オムツを緩くして母のお尻を包んでいるつもりなのだが、プロの目からはガチガチに見えるのだ。
 そりゃあ、力任せにやるのはダメだと分かるのだけれど…
 まだ、オレが母のオムツ交換という作業に慣れていない頃、母のオシッコが横漏れして何度かシーツを濡らすことがあった。あれがトラウマになっているような気がしないでもないのだが、キッチリしないと安心できないオレがいることは間違いない。
 母が排出したオシッコの量を、その度に計り、尿取りパッドの重さ分を差し引いてオシッコ帳に記入する。一日で最後の交換が終わり、
 「オオッ! 今日は1500CCも出た」
 などと、ここでも一安心。
 今は胃ろうで水分補給になんらの問題はないのだが、一食に2時間近くかけて食べさせていたころは嚥下困難が酷かった。その延長線に脱水症状。脱水が引き金になって何度か入院もさせてしまっている。だから、オシッコの量が母の健康のバロメーターだと思い込んでるオレ流介護。
 こんな思い込み&力任せ介護。オレだけなんだろうか?

訪問介護
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『まなざしかいご』

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 藤川幸之助氏が本年三月までけあサポに連載していた“まなざし介護”。その連載が単行本『まなざしかいご』として、よりパワーアップして戻ってきた。
 温かさ、切なさ。哀しみも歓びも! 
 介護という大きな枠組みの中にいる誰もが、この本のどこかで必ず共感できる場面と遭遇できる。そんな貴重な一冊である。
 が、もしかすると、これから介護と向き合わなければならない人たち。その方々が介護登竜門として一読する、という手法も二重丸だろう。これから先、介護の現実にどう対応すれば良いのか? そこから湧き出る不安や焦り。読めばたちまち解消などありえない。が、背負っている苦悩の共通点は多い。そして、その先にある歓び。歓びに至るまでには遠い道のりだけれど、いつか必ず見えてくる。
 ヨッシャ! やってみよう? 
 と、前向き思考と出会えるかも? の一冊でもある。
 とはいえ、藤川氏と同様な思考であることもない。この本から、なにかヒントが見つかればOKなのだ。介護。あまりにも不透明で奥深い。深層までたどり着いた人はいるのだろうか?
 さて、大事なことが一点。本書は
 “まなざしかいご”
 “介護”から“かいご”へ。ひらがな。なんだか、ほんわりと包み込まれるようではないか? 父を我が家で看取り、母の在宅介護も九年目に突入した私だけれど、介護=辛い。のイメージからなかなか脱却できないできた。
 しかし、かいご。この文字は温かく優しい。おかあちゃんのようだ。
 
 順序が前後してしまったが、少し詳細に!
 装丁。シンプルそのもの。淡いグリーン色? 手に取ると、肌触りが良く優しい。
 「はじめに」をまず読む。ちょっと哀しい。末文は、
 
 老いていく母と
 長いこと一緒に生きてきた
 ただそれだけ
 
 のっけから、期待に反してカウンターパンチ。
 「藤川さんよう、そりゃあねえだろう。もっともっと、楽しいこともイッパイあっただろ?」
 思わず、文字に向かって怒りモードで問い掛けた。
 読了。
 やはり、ホンマもんだった。共感できる箇所には付箋を打った。ありすぎて、付箋が意味を為さなくなっていた。写真がスコブル良い。藤川氏、カメラもプロなの?
 藤川氏と私の相違点といえば、藤川氏はお母様を施設に託し、私は在宅で母を看てる。大きな意味での違いはここだけだ。
 藤川氏のお母様も胃ろう。私の母も胃ろう。二人ともに失語している。
 藤川氏は問い掛ける。
 「母に言葉がないので、心までないと思い違いをしてしまうときがある。それは、言葉を通して母を『分かろう』としているからだ。言葉がないからこそ、純真無垢な心が見える。それが、存在を『感じる』ということだと思う」
 更に、
 「感じあっているとき、与えることは言葉ではないものだが、受け取るときもまた言葉ではないものなのだ。そして、『人はそこに存在するだけで大きな意味がある』ということをも母は教えてくれているのだ」
 今、延命ということが世間で問われ始めた。口からモノが食べられなくなったら、そのまま食べられないまま自然に逝かせてあげなさい。それが平穏死と。
 だけど、私は母と寝食をともにし八年間。
 『人はそこに存在するだけで大きな意味がある』
 ここだけ。ここだけで、“まなざしかいご”と出会えて心から良かったと。ありがとう でイッパイだ。
 
 P158の 夕日を見ると
 この詩には救われた。まず、この詩から藤川ワールドへ突入するのも一考かと?
 
 “まなざし”
 正しく、ただの視線ではない。
 
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プロフィール
野田明宏
(のだ あきひろ)
フリーライター。1956年生まれ。約50カ国をバックパックを背負って旅する。その後、グアテマラを中心に中央アメリカに約2年間滞在。内戦下のエルサルバドルでは、政府軍のパトロールにも同行取材等etc。2002年、母親の介護をきっかけに、老人介護を中心に執筆活動を開始。2010年現在、83歳になる母と二人暮らしで在宅介護を続ける。主な著書は『アルツハイマーの母をよろしく』『アルツハイマー在宅介護最前線』(以上、ミネルヴァ書房)など多数。『月刊ケアマネジメント』(環境新聞社)にて、「僕らはみんな生きている」連載中。
http://www.noda-akihiro.net/
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