精神疾患のある本人もその家族も生きやすい社会をつくるために 第21回:実名顔出しが評価される社会のなかで
2025/11/19
みなさん、こんにちは。2001年生まれの大学生で、精神疾患の親をもつ子ども・若者支援を行うNPO法人CoCoTELIの代表をしている平井登威(ひらい・とおい)です。
「精神疾患の親をもつ子ども」をテーマに連載を担当させていただいています。この連載では、n=1である僕自身の経験から、社会の課題としての精神疾患の親をもつ子ども・若者を取り巻く困難、当事者の声や支援の現状、そしてこれからの課題についてお話ししていきます。
第13回から、CoCoTELIの活動を通して感じている当事者の子ども・若者を取り巻く課題感とそれぞれができることについて、あくまでも現場で活動する一人の実践者としての視点で書いています。今回は、「実名・顔出しで発信すること」をテーマに書いていけたらと思います。
著者

平井登威(ひらい・とおい)
2001年静岡県浜松市生まれ。幼稚園の年長時に父親がうつ病になり、虐待や情緒的ケアを経験。その経験から、精神疾患の親をもつ子ども・若者のサポートを行う学生団体CoCoTELI(ココテリ)を、仲間とともに2020年に立ち上げた。2023年5月、より本格的な活動を進めるため、NPO法人化。現在は代表を務めている。2024年、Forbes JAPANが選ぶ「世界を変える30歳未満」30人に選ばれる。
軽率に背中を押すことはできない
日々活動をしていると、子どもや若者から「自分も実名で当事者として発信したい」と相談を受けることがあります。そんなとき、僕は「しないほうがいいよ」と答えています。
大学1年生の頃、初めて家族のことを誰かに話して心がスッと楽になった経験をきっかけに、当時の僕はその“重さ”を十分に理解しないまま、実名・顔出しで発信をしていました。
あの頃の僕は、目の前の「似たような境遇にある子の役に立てるかもしれない」「自分の経験が誰かの力になれば」という純粋な気持ちだけで動いており、将来の自分の人生にどのような形で影響してくるのかを、ほとんど考えられていませんでした。
だからこそ今は、同じ道を歩もうとしている子どもや若者に対して、安易に背中を押すようなことはできないなと感じています。
「実名・顔出し」には不可逆性がある
まず、当事者のことを考えるうえで何より大切なのは、その人自身の生活と、これから続いていく長い人生だと僕は思います。
そのなかで、実名や顔を公にして発信することは、一度外に出れば後戻りができません。今のインターネット社会では、一度出た情報は半永久的に残り続けてしまいます。
そしてそれらは、進学、就職、結婚、地域とのつながりなど、どんな場面で影響してくるかわかりません。
僕たちが生きる社会は、まだ「精神疾患の親をもつ」というテーマを十分にフラットに受け止められる段階には成熟していないのではないかと感じています。
そうした現状のなかで、一度踏み出したら戻れない“不可逆”な発信を背負い続けて生きることは、想像以上に大きな負荷を伴います。
今は「発信したい!」という思いが強かったとしても、5年後にも同じ気持ちでいられるかはわかりません。
10年後、大切なパートナーと結婚するとなったとき、相手の家族がその情報を見つけたら、どんな反応をするかもわかりません。そういったリスクも存在します。
だからこそ、どうしても発信したいという人には、リスクをしっかりと伝えたうえで、匿名や顔を出さない形を勧めています。
それは「隠しなさい」という意味ではなく、「人生を守るための選択肢を広げよう」という提案だと僕は思っています。
社会の「応援」は、心地良さと同時に“罠”にもなる
実名で語ると、社会は驚くほど優しい顔を見せてくれます。応援してくれる人が増え、声をかけてくれる人も増えていきます。それは確かに心地良く、自分の存在がようやく肯定されたような感覚になるのだと思います。
ただ、この“居心地の良さ”には、同時に危うさも潜んでいます。
メディアに取り上げられ、ファンが増え、イベントに呼ばれ、謝金や講演料が得られるようになると、それがアルバイト代わりになることもあります。
気づけば、当事者として話すことが収入源になり、簡単には手放せなくなってしまいます。
一方で、当事者発信には“年齢的なタイムリミット”があります。若さが武器になる時期は短く、世代交代は常に起きます。
そのときが訪れたとき、僕が身をもって感じたように、社会は誰かの人生を本当の意味で背負ってはくれません。頼りにしていた“応援”は、数年経てば別の誰かへ移っていきます。
そのときに残るのは、ネット上に刻まれた発信の履歴と、積み上がっていないキャリアだったりします。
僕自身も“偶然”に助けられてここにいる
僕は今、周囲の支えや、時に厳しいことを率直に伝えてくれる人たちの存在、そしてそうした人たちと出会えた運に恵まれて、自分の経験や発信を「持ち札のひとつ」として扱えるところまで来られました。
同時に、24歳の僕に見えている世界なんて本当に限られていて、今もどこかに危うさは残っていると感じています。
だからこそ、日々の活動を続けたり、今回のように連載をもたせてもらったりするなかで、この“僕自身の n=1 の偶然”を、目の前の子どもや若者に押しつけたくないという思いがあります。
僕は“止める人”でいたい
僕は、発信を考える子や若者に対して、まずは反対する姿勢をとります。反対するのは、ここまで書いてきたような現実が確かに存在するからです。
そして、僕はその人の人生に、本当の意味で責任を取ることはできません。だからこそ、軽々しく「やってみなよ」と背中を押すことはできません。
ただ、「どうしても発信したい」という気持ちも、その人の大切な思いであり、決して否定してはいけないものだと思っています。
だからこそ、安易に賛成も反対もするのではなく、その気持ちとリスクを一緒に考える存在でいたいと思っています。
当事者の声はとても大切。でも…
当事者の声はとても大切です。彼ら・彼女らの声は、確かに社会を動かす力をもっています。
でも、その声を届けるために“誰かの人生”を犠牲にする必要はありません。誰かが傷つくことで社会が変わっていくのではなく、「どうすれば誰かの犠牲を前提にせずに変化を起こせるのか」という視点で、社会のあり方そのものを考えていくべきだと思います。
一当事者として、そして、かつて発信から入ってしまった僕自身も、この問いについて引き続き向き合い続けたいと思っています。
次回以降も日々の活動を通して感じている当事者の子ども・若者を取り巻く課題感とそれぞれができることについて、あくまでも現場で活動する一人の実践者としての視点で書いていけたらと思います。
関連書籍
中央法規出版では,『精神疾患のある親をもつ子どもの支援』という書籍を発刊しました。参考にしていただければ幸いです。
