精神疾患のある本人もその家族も生きやすい社会をつくるために 第20回:名前のつかない困難
2025/11/10
みなさん、こんにちは。2001年生まれの大学生で、精神疾患の親をもつ子ども・若者支援を行うNPO法人CoCoTELIの代表をしている平井登威(ひらい・とおい)です。
「精神疾患の親をもつ子ども」をテーマに連載を担当させていただいています。この連載では、n=1である僕自身の経験から、社会の課題としての精神疾患の親をもつ子ども・若者を取り巻く困難、当事者の声や支援の現状、そしてこれからの課題についてお話ししていきます。
第13回から、CoCoTELIの活動を通して感じている当事者の子ども・若者を取り巻く課題感とそれぞれができることについて、あくまでも現場で活動する一人の実践者としての視点で書いています。今回は、子どもが抱える「名前のつかない困難」をテーマに書いていけたらと思います。
著者

平井登威(ひらい・とおい)
2001年静岡県浜松市生まれ。幼稚園の年長時に父親がうつ病になり、虐待や情緒的ケアを経験。その経験から、精神疾患の親をもつ子ども・若者のサポートを行う学生団体CoCoTELI(ココテリ)を、仲間とともに2020年に立ち上げた。2023年5月、より本格的な活動を進めるため、NPO法人化。現在は代表を務めている。2024年、Forbes JAPANが選ぶ「世界を変える30歳未満」30人に選ばれる。
名前のつかない困難
「カチャッ」―― 薬のフタが開く音。
「ガタンッ」―― 鍋がシンクに置かれる音。
「ガシャン」―― 何かが落ちる音。
日常の中で生まれる生活音の1つ1つが、まるで、何かが始まる合図のように、胸の奥に小さな緊張を走らせることがあります。
「今日は大丈夫だろうか」
「何か起きるかもしれない」
家の中で響く音や気配が、無意識のうちに身体をこわばらせます。
そして、耳を澄ませてリスクを感じ取ろうとします。
それは意識して行うというより、長い時間の中で身についた防衛の感覚のようなものなのだと思います。
怒られるかもしれない。
泣き出すかもしれない。
親が自分を傷つけてしまうかもしれない。
急に家を出て行ってしまうかもしれない。
精神疾患を有する親と暮らす子ども・若者にとって、何かが起こる前に察することは、生き延びるための知恵でもあり、日常の一部であることがあります。
気が抜けない日々
「家にいるだけで疲れてしまう」
「自分の部屋なのに、気が休まらない」
多くの人にとって安心できるはずの家が、決して気を抜けない場所になっています。
家庭の中で、常に“何か”を予感しながら過ごす時間。外でどんなに笑っていても、帰ると心のスイッチが自動的に「緊張」に切り替わるのです。
その状態に名前はありません。
名前がないため、社会からはなかなか認識されづらく、相談等にもつながりません。
でも確かに、そこにある「生きづらさ」があります。
ならないようにを優先して
怒らせないように。
がっかりさせないように。
心配をかけないように。
精神疾患の親をもつ子ども・若者たちのなかには、日々「ならないように」を最優先にして生きている子ども・若者がいます。
自分の気持ちよりも、家族の気分や体調、機嫌の波を読むことが当たり前になっていきます。
そうして気づけば、「自分が何を感じているのか」が、だんだんわからなくなってしまいます。
「私がなんとかしなきゃ」
「親を助けないと」
その思いは、まっすぐなものであることも多いです。
でも、自分を後回しにすることが当たり前になることで、長い時間の中で心をすり減らしていくことがあります。
名前がないから、見えにくい
こうした困難は、名前がないからこそ見えにくいものです。
「虐待」や「貧困」といった言葉のように、社会の中で共有されるラベルがありません。
そのために、本人も周囲も「何がつらいのか」を言葉にできず、支援とつながらなかったり、「虐待」や「貧困」「不登校」といった名前がつく困難になるまで見えてこないことがあります。
でも、名前がつかないことは、“存在しない”ということではありません。
むしろ、その名のなさこそが、社会の目が届いていないサインでもあるかもしれません。
「あの子は細かい変化に気づく子だな」「あの子はよく人の顔色を窺うな」
そんな気づきの背景に名前のつかない困難が隠れているのかもしれません。
次回以降も日々の活動を通して感じている当事者の子ども・若者を取り巻く課題感とそれぞれができることについて、あくまでも現場で活動する一人の実践者としての視点で書いていけたらと思います。
関連書籍
中央法規出版では,『精神疾患のある親をもつ子どもの支援』という書籍を発刊しました。参考にしていただければ幸いです。
