死をことほぐ社会へ向けて 第24回
2026/01/27
安楽寝たきりから死をことほぐ社会へ

名郷 直樹(なごう なおき)
武蔵国分寺公園クリニック名誉院長
1961年、名古屋市生まれ。自治医科大学卒業。へき地医療に従事した後、2011年に西国分寺で「武蔵国分寺公園クリニック」を開業。2021年に院長を退き、現在は特別養護老人ホームの配置医として週休5日の生活。
著書に『いずれくる死にそなえない』(生活の医療社)、『これからの「お看取り」を考える本』(丸善出版)など。
人生の困難さに対処する方法を、YouTube(名郷直樹の診察室では言いにくいこと)で発信中。
2025年7月に『名郷先生、臨床に役立つ論文の読み方を教えてください!』(共著、日本医事新報社)が発売!
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これまでを振り返りながら
1年間にわたって続けてきたこの連載は、今回で最終回。
長寿社会において、長生きすればするほど不健康を避けることは困難だ。そもそも、認知症の最大のリスクは高齢化である。また、長生きすればするほど多くの人が寝たきりになり、その先では100%の人が死を迎える。
世界一の長寿を達成しながら、どこまでも治療・予防ばかりを重視し、人生100年時代という世の中に対し、治療・予防、上りの支援より、今の生活を重視する介護・ケアの提供、下り坂の支援、さらには生活支援に加えて「バラ」の提供という選択肢があることを繰り返し書いてきた。
ギフトとしての老い
老いは苦しいものだと割り切るのは難しい。何とか老いにあらがいたいという気持ちもないがしろにすることはできないが、それは老いをかえって苦しいものにする部分が多い気がする。老いのプロセスは、短期に見れば改善も期待できるが、長期で見れば徐々に以前できたことができなくなる、だんだん動けなくなる、認知機能が低下する、寝たきりになる、そして死ぬということを避けがたいのが現実である。不老不死は未だ夢に過ぎないのである。
しかし老いは苦しいばかりでなく、一種のギフトという面がある。認知症ではそれが顕著なことを
第20回「忘れること、ギフトとしての認知症」
で紹介した。認知症だけでなく、老いそのものにもギフトといえる面がある。人が老いない世界というのは、いつまでも世代交代や、世代間の戦いが無くならない社会かもしれない。老いることで次の世代へのバトンタッチがスムーズにでき、老いによって高齢者が若者に譲ること自体が他者に思いを寄せる利他的な良い社会をもたらすのではないだろうか。
ギフトとしての死
また、老いの苦しみが、必ず死ぬことで終わるということも、老いと死がつながることによる一種のギフトと言えるのではないでだろうか。さらに死は、老いよりもはるかに世代交代を促す。老いて死ぬことは、次の世代に新たな仕事を与えることにつながり、このことは残されたものにとってのギフトとも言える。
死を悲しいこととしてしか取り上げない社会は苦しい。死にはギフトという側面もある、そんな風に考えられる社会は、案外生きやすいのではないだろうか。
「安楽寝たきり」から「死をことほぐ社会」へ
老いも死もギフトである、そんな考えを現実に移してみると、寝たきりや死を避けよう、遠ざけようとするのは、ギフトの側面をなくしてしまうということでもある。老いや死を苦しみというだけではなく、ギフトとしても受け止めよう。そんな風に考えられる社会は、とても生きやすい、死にやすい社会ではないだろうか。
そのギフトとしての老い、死を象徴する現実として、寝たきりも寝ているだけで案外楽な毎日を送れたりするのを「安楽寝たきり」と呼び、死を悲しいだけではなく、一生を全うしたという喜びをもって死を受け止めたりするのを「死をことほぐ社会」と呼ぼう、というのがこれまで書いてきたことの結論である。
個人と社会は別々に存在できない関係性そのもの
避けることができない死を避けようとする人生100年時代という現代社会は、どう生きても苦しい。長生きのよい部分を受け取ることができず、いつまでも、長生きすることを目指して、最終的にはそれがかなわず、寝たきりにならないために、死なないためにという実現が困難な不幸な老いを生きてしまう。そんな不幸に関わらず、社会全体がそれを奨励しているのが現代ではないだろうか。
しかし、個人個人で見れば、寝たきりになって、自分で何もしなくても周りの人が何でもやってくれる今が一番幸せという人もいる。また、何も言わず、何も相談せず、人生会議を行うこともなく、楽に死んでいく人もいる。
社会全体が人生100年とか健康長寿をと言おうが、そんなことに関係なく、幸せに老い、幸せに死んでいく人たちは、案外何も言わない人が多いように思う。それに対して、私はこうして死にたいと声を上げる人は、逆に個人の意見を言っているというよりは、背景の社会の動向をあたかも自分の意見のように勘違いしているような気もする。人生会議も個人のニーズより社会のニーズがはるかに高いと言えるし、安楽死も老いに対する差別意識が潜在化した社会的影響がその背景にある。
個人と社会というのは別々に存在することはない。個人が集まるところには必ず社会が形成される。個人も社会も関係性に過ぎない。個人と社会の関係を測りながら、自分自身の老いや社会について、一度考えてみるとよいのではないだろうか。
本連載はこれで終了です。これまで1年、お付き合いいただきありがとうございました。
