死をことほぐ社会へ向けて 第23回

2026/01/13

安楽死について考えること、安楽死以前に重要なこと

誰にもいずれ「死」は訪れる。多死社会を迎えた現在の日本において、いずれくる「死」をどのように考え、どのように受け止め、そして迎えるか。医療、介護・ケアの問題とあわせて、みなさんも一緒に考えてみませんか。

名郷 直樹(なごう なおき)
武蔵国分寺公園クリニック名誉院長

1961年、名古屋市生まれ。自治医科大学卒業。へき地医療に従事した後、2011年に西国分寺で「武蔵国分寺公園クリニック」を開業。2021年に院長を退き、現在は特別養護老人ホームの配置医として週休5日の生活。
著書に『いずれくる死にそなえない』(生活の医療社)、『これからの「お看取り」を考える本』(丸善出版)など。
人生の困難さに対処する方法を、YouTube(名郷直樹の診察室では言いにくいこと)で発信中。

2025年7月に『名郷先生、臨床に役立つ論文の読み方を教えてください!』(共著、日本医事新報社)が発売!

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安楽死には反対

 ACPと同様に、介護・ケアの現場で常に問題になるのが安楽死である。最初に筆者自身の安楽死に対する立場を表明しておく。安楽死に反対であるし、安楽死の議論の前にまだやるべきことがある。ここでは安楽死の手前で介護・ケアのできることについて取り上げたい。


不十分な緩和ケアと安楽死

 安楽死議論の前にやるべきことの一つは、緩和ケアの十分な提供である。緩和ケアというと、医療から見放された絶望と受け取られていることも多いが、実際には、痛みを和らげるなど、終末期の様々な症状や苦痛を軽減し、日々の生活を支えるための重要な手段の一つである。それが絶望と受け取られるのは、医療から見放されたらおしまいだという医療依存がある。介護・ケアの側からすれば、ようやく医療による苦痛から解放され、日々の生活を取り戻す時期がやってきたということでもあるが、そもそも緩和ケアの効果や重要性が多くの人に理解されていないばかりか、回復の見込みがない絶望的状況と思われる現実がある。介護・ケアを受ける側にも、日々の生活を優先するという意識がない場合も多く、そこから一足飛びに安楽死を希望するという考えに取り込まれてしまう。
 そのためには治療を継続している早期から緩和ケアを受け、その効果を実感することが一つの解決の道かもしれない。もう一つは緩和ケアの生活面に対する効果を十分説明することである。少しでもおいしいものが食べられ、ちょっとおしゃれして外出しという「バラとしての介護・ケア」が緩和ケアによって実現できる。


緩和ケアの普及を阻害する非がん患者に対する緩和ケアの軽視と保険診療

 緩和ケアにおける重要な薬剤の一つが麻薬であるが、がん患者に対する麻薬使用はかなり普及したが、非がん患者に対してはまだ使える麻薬が限られている。今のところ、コデイン、トラマドール,フェンタニル貼付剤,ブプレノルフィン貼付剤、塩酸モルヒネ、一部のオキシコドン製剤が使えるだけで、内服薬の選択肢も不十分であるし、適用の範囲も心不全では激しい咳嗽に対するものであって、終末期の苦痛改善に対するものではなく、皮下注射に保険適用はない。
 もちろんこれは、麻薬系薬剤の副作用や依存性を考慮した上のことであるが、終末期においては副作用に対処しながら使えばメリットの方がはるかに大きいし、依存症はその後の死によって問題にはならない。慢性疼痛という枠組みではなく、終末期の苦痛緩和の視点で、保険適用が広げられないと、非がん患者の緩和ケアが十分に提供できない。
 また、医療現場においても非がん患者の緩和ケアに対する経験不足、無関心という問題もある。心不全や腎不全のような非がん疾患の終末期の緩和ケアに精通する専門医は少ないし、非がん患者の緩和ケアに際して、緩和医療の専門家にコンサルトするというのも十分普及していなく、そもそもコンサルトできる医師がいない場合も多い。こうした緩和ケアを十分提供できない現状が、安楽死を望む背景にある。


老いや病気に伴う下りを悪と考える社会

 もう一つの問題は、安楽死と優生思想の関係にまつわるものだ。これは日本安楽死協会(現・日本尊厳死協会)の設立の中心となった産婦人科医、国会議員でもあった太田典礼には、寝たきりで生きる意味はないというような優生思想的な面が明確にあり、安楽死も尊厳死と同様、寝たきりで生きるくらいなら死んだほうがましという優生思想と無関係ではない。
 人間の尊厳は生きているということ自体にあり、生を分類し、この生は価値がない/あるという議論は、尊厳そのものを破壊する議論だと感じる。どんな生にも尊厳があるというのが尊厳ではないかと思う。だれも望んで生まれて来たわけではない。どんな生き方をしようとも、どんな最期を迎えようとも、一生を生き、終えるということそのものに尊厳がある。一生ベッドの上で過ごすのも、老いて寝たきりになるのも、他人に排泄の処置をしてもらうのも尊厳を失うことではない。思うように生きることなどできない、そういう現実の中に尊厳がある。そのすべての人の尊厳を支えるのは、この連載で繰り返し述べてきた、健康より生活という視点である。健康を重視すれば、健康な人は幸福で、不健康な人は不幸だということになるが、それはもっともな意見であると同時に、健康を害した人に対する差別を生む。それは不健康な人の尊厳をないがしろにする行為であって、尊厳を守るのとは逆のことだ。さらに現実には一生健康であるという人などいないし、老いは健康を害していくプロセスともいえる。そうだとすると不健康が不幸だということは、すべての人は不幸の中で死んでいくしかないということにもなりかねない。
 もちろん望んで生まれてきたわけではないので、最期くらい望んだとおりに死なせてよ、というのも筋の通った考えだ。しかし、それこそが生きることの尊厳を取り違えているように思える。たまたま生まれてきた人生には終わりが設定されている。どう死ぬか、どう生きるかではなく、生きることそのものに尊厳がある。生き方によって尊厳が左右されるということはむしろないのではないか。
 そこで重要なのは今の生活である。健康/不健康にかかわらず生活はある。その生活こそが生きることであり、尊厳だと考える方が、必ず老いて死ぬことになるあらゆる人にとって重要な考え方ではないだろうか。


緩和ケアの充実と生の尊厳にかかわる思想

 安楽死そのものについて、ここでは取り上げなかったが、緩和ケアの充実、尊厳にかかわる思想、考え方について語らなければ何も始まらない。安楽死の議論はその先にある。その先については著者のYouTube*で一部取り上げている。さらにまた機会があれば、どこかで取り上げたいと思っている。