死をことほぐ社会へ向けて 第22回

2025/11/28

ACP、「人生会議」は自己決定の場でなく、相談の場に

誰にもいずれ「死」は訪れる。多死社会を迎えた現在の日本において、いずれくる「死」をどのように考え、どのように受け止め、そして迎えるか。医療、介護・ケアの問題とあわせて、みなさんも一緒に考えてみませんか。

名郷 直樹(なごう なおき)
武蔵国分寺公園クリニック名誉院長

1961年、名古屋市生まれ。自治医科大学卒業。へき地医療に従事した後、2011年に西国分寺で「武蔵国分寺公園クリニック」を開業。2021年に院長を退き、現在は特別養護老人ホームの配置医として週休5日の生活。
著書に『いずれくる死にそなえない』(生活の医療社)、『これからの「お看取り」を考える本』(丸善出版)など。
人生の困難さに対処する方法を、YouTube(名郷直樹の診察室では言いにくいこと)で発信中。

2025年7月に『名郷先生、臨床に役立つ論文の読み方を教えてください!』(共著、日本医事新報社)が発売!

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在宅死を希望しながら生活より医療による回復を希望する患者

 これまで繰り返し取り上げてきた「健康より生活」、「下り坂の下り支援」、「生活のなかでのバラ」という医療・介護側からの生活重視の動きに対して、「健康と生活のどちらを優先するか」、「下り坂の支援を優先するか、あくまで上りを目指すのか」を、個人の問題として、個人が選択、決定するという大きな動きがある。この動きは、生活重視を進めたい介護・ケアの現場での判断をより複雑なものにしている。多くの人に、回復の可能性があれば生活より回復を希望する反面、できれば人工呼吸や胃ろうは受けたくないということの間で、矛盾や葛藤をもたらす。ただその葛藤の先にあるのは、介護・ケアの現場でも急激な悪化に対して回復の可能性があると、胃ろうや人工呼吸を希望しないとしても、まず生活を犠牲にしてでも回復をということになりがちで、生活重視が結果的に困難になる。多くの人が在宅での死を希望するという調査結果と、現場で起きていることには大きな乖離がある。さらに患者が安定した状態でも、急激な変化を予防するための医療の重視という方向に進み、ここでも生活の問題が置き去りにされている。
 しかし、在宅死を望む反面、急変時も安定した状態でも生活よりも医療に依存するという矛盾を抱えながら、Advance Care Planing:ACPを積極的に進めようという動きは活発だ。介護・ケアの現場で避けて通ることができないものになりつつあるが、ここでも個人の生活を重視してという部分はあまり取り上げられず、医療を受けるか受けないかという議論になりやすく、生活がかえってないがしろにされる現実がある。


個人の意志と社会のニーズ

 個人の意志を重視し、自己決定を支援するというのがACPの重要なポイントであるが、ここにも大きな矛盾がある。個人の意志、自己決定が重要という世界。確かに個人は重要だし、自分のことを自分で決められる社会はよい社会だ。しかし、ここでは別の視点からACPについて考えたい。
 そもそも個人の意志とは何か。意志が個人のものとしてあるとはどういうことか。もし意志が個人のものとしてあるのなら、ACPを「人生会議」と言い換えるような「会議」が必要だろうか。単に個人が決定を下せばいいのなら、会議など余計なお世話で、医療・介護関係者から情報提供を受けて、個人が決めればいいということではないか。それをわざわざ「会議」と呼ぶからには、個人の意志だけでは決められないのが現実で、自己決定と言いつつ、「会議」によって多くの人が関わる中で、社会にとって都合のいい選択を、あたかも自己決定にすり替えているだけではないかという疑いがある。
 ACPが必要なのは、個人の意志が重要だからではなく、むしろ個人では決められないから必要だというのが現実ではないか。その個人では決められないという背景には、医療費を制限しなければ保険制度が持続不可能になりつつあることや、多くの人がどこまでも医療に期待し、胃ろうや人工呼吸を希望するようでは困る社会がある。また、救急患者の対応など、最終的な態度を決めておいてもらわないと困るという臨床現場のニーズもある。それに対して患者側のニーズはどうかというと、筆者自身、患者側から「人生会議」を開いてくださいと言われた経験はない。医療・介護側から「人生会議」を提案しても、開いてほしいとなることは少なく、まだそんなことは考えていないし、今考えることでもないというような意見が多い。
 現状の「人生会議」は、厚生労働省や現場の医療・介護従事者が勧める結果行われるものが大部分で、患者からのニーズによって開かれているものは少ない。これは「人生会議」が自己決定の場ではなく、むしろ周囲との相談のなかで「決めさせられる」場になってしまう危険が高く、単純に勧めればいいというものではないことを示している。


自己決定と相談して決めることの違い

  さらにこの問題は複雑で、そうした家族や地域社会、あるいは国との関係を考慮して、個人の意志だけではなく、周囲との関係性や社会的な問題を考慮して決める方が、自己決定より重要ではないかという意見もある。病院へ運んでも回復の見込みがない患者が、個人の意志として心臓マッサージや、人工呼吸器の装着まで希望していれば、その決定を重視して心臓マッサージをしながら病院へ運ぶという対応になるが、現実には多くの人と相談して決めたほうがいいというのももっともだし、実際にそういう選択を迫られたときに、患者がどこまでも治療を望んでいるというACPが開かれていたとしても、医療者側からこれはやめたほうがいいと提案するのは、専門家としての医師の重要な役割だという意見もある。ただ、そこで医療者が、回復の可能性がある患者から医療を受ける権利を奪ってしまう危険も考えなくてはならない。また、そもそも回復可能かどうかの判断が現実には困難なことも多く、それこそ「人生会議」が、在宅での死を希望する人が多いという調査結果と、現場ではむしろ医療に依存するという乖離を無視して、医療側のニーズに沿って医療を受ける権利を剥奪するという非倫理的な対応を促すことにつながる危険もある。


「人生会議」もShared Decision Making:SDMへ

 臨床現場では、患者に自己決定を促すのも、医者が決定するのもどちらも問題で、Shared Decision Making:SDMと言って、相談して決めましょうというのが最近の大きな流れであるが、ACPはいまだ自己決定を重視し、SDMのようなプロセスが明確にされていない。「人生会議」は自己決定の場でなく、相談する場であるということが前面に出されるまでは、自己決定を強制する場になる危険が高く、安易に勧めるべきではない。それよりも「明日の健康より今日の生活」、「バラのある下り坂支援」の方がはるかに重要で、急変時の医療依存が生活を犠牲にするという大きなデメリットがあることを伝えることこそ、ACP、「人生会議」においてまず行わなくてはならないことだというのが筆者の意見である。