死をことほぐ社会へ向けて 第8回

2025/05/16

高齢社会の「生活第一」 ……日常と非日常の反転

誰にもいずれ「死」は訪れる。多死社会を迎えた現在の日本において、いずれくる「死」をどのように考え、どのように受け止め、そして迎えるか。医療、介護・ケアの問題とあわせて、みなさんも一緒に考えてみませんか。


名郷 直樹(なごう なおき)
武蔵国分寺公園クリニック名誉院長

1961年、名古屋市生まれ。自治医科大学卒業。へき地医療に従事した後、2011年に西国分寺で「武蔵国分寺公園クリニック」を開業。2021年に院長を退き、現在は特別養護老人ホームの配置医として週休5日の生活。
著書に『いずれくる死にそなえない』(生活の医療社)、『これからの「お看取り」を考える本』(丸善出版)など。
人生の困難さに対処する方法を、YouTube(名郷直樹の診察室では言いにくいこと)で発信中。

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日常の楽しみ、喜びを支援する「介護・ケア」の発想

 概念的な話が続いたので、今回は健康と生活の関係をもう少し具体的に見てみよう。
 例えば視力の衰え、特に近くが見えにくくなる老眼は、多くの人に訪れる健康上、生活上の問題だ。この老眼に対して、自分自身の目を何とかしようと考える人は少ない。老眼鏡をかければ解決するからだ。ここには健康より生活という当たり前が存在している。近くがよく見えるように手術をして健康を取り戻そうとする人より、現実の生活で新聞が読め、本が読めればいいと生活を重視して、メガネをかける人がほとんどだ。
 メガネをかけることを、医療、介護・ケアの問題に重ねて考えてみる。メガネは介護・ケアのあり方を端的に表している。目そのものの改善はなくても、メガネをかけるという「ケア」によって、生活上の問題が解決している。介護・ケアの重視と言っても、実はこんなことだ。あまりに日常的なことなので、その重要性や価値がわかりにくい。手術して老眼が治るなんて聞くと、そんな素晴らしいことはないと思うかもしれないが、メガネをかけると見えるようになるというのは当然のこととして受け取られ、メガネの価値が感じにくい。
 医療の価値は感じやすいが、介護・ケアの価値は感じにくいという大きな問題がここにある。医療は非日常、介護・ケアは日常と言ってもいいかもしれない。非日常は記憶にとどまるが、日常は忘れ去られていく。
 メガネと同じように、食事について考えてみる。だんだん食事量が減ってきた時に、点滴は必要ないでしょうかと言われることは多い。それに対し、食事の介助をどうすればいいでしょうかとはあまり言われない。栄養が不足しないように栄養剤などは必要ではないでしょうかと言われることは多いが、少しでもいいので好きなものを食べさせたいのですがどうでしょうかとはあまり言われない。口から食べられるかどうかとか、おいしいかどうかとかより、食事量や栄養に関心が向きがちである。
 ここでも生活より健康を重視する社会が顔を出している。十分食べられない非日常が、ただ食べるという日常を覆い隠してしまう。だんだん食べられなくなるなかで重要なのは、また食べられるようになるという健康の回復だけでなく、少しでもおいしく食べられるという楽しみ、喜びこそ重要ではないか。さらに年齢を重ねれば重ねるほど、再び前のように食べられるようになる回復は困難になる。しかし、おいしいものを少し食べるということは、回復に比べれば実現可能なことも多い。小さな文字を見るときだけメガネをかけるのと同様、ときどき少しでもおいしさを味わえればいいではないか。
 現在ということだけを考えれば、健康を目指して点滴しても少しもおいしくない。健康はさておき、少しでもおいしいものを食べる方が、楽しいのではないか。

 

介護・ケアが支える暮らしの本質

 健康より生活、当然のことである。しかし、ここで問題となるのが未来である。今おいしいのはその通りだが、「このままだとだんだん衰えて死んでしまうじゃないですか。点滴してください。」という反論の解決にはならない。食べられなくなる非日常、死という非日常、日常に戻したいということだ。しかし、日常とは、徐々に食べられなくなり、最期には必ず死ぬということである。いつまでも食べられるのは非日常、死なないのは非日常どころかあり得ない。
 健康を重視することで、衰える、死ぬという日常が非日常になり、回復する、いつまでも生きているという非日常が日常になっている。目の衰えに対して視力そのものを取り戻すのではなく、メガネという「ケア」で対処したように、食事ができなくなること、着替えができなくなること、排泄の処置ができなくなることに対して、医療で回復を目指すだけでなく、介護・ケアで対処するというのは、メガネ同様に日常的な対応方法だ。介護・ケアがメガネのように日常として利用される社会が、高齢化が進むほど重要になってくるのではなかろうか。