【vol.29】仲間に花一輪ささげる | 私はミューズとゼウスのケアラーです

2026/06/26

韓国の介護現場で働く作家が送るケア文学

 激しいスピードで高齢化が進む隣国で、 ケアの最前線に立つ作家による、初の日本語エッセイ連載スタート!! 昼は介護の仕事をして夜は文章を書く、作家イ・ウンジュの連載が始まります。日本の介護福祉士にあたる、「療養保護士」という韓国の介護の国家資格を持つイ・ウンジュさんは、自身もケアの現場に立ちながら、ケアに関する文章を韓国語で発表する数少ない作家です。
  • そんなイ・ウンジュさんは韓国で、ケアについてのエッセイ三部作(『私は神々の療養保護士です』こんなにいてれたでしょう』『東京因縁)を出版して話題を集め、2023年には母親の在宅療養保護の経験を盛り込んだ『ケアの温度』を刊行しました。ケア部作の『私は神々の療養保護士です』では、療養保護士として歩んだ療養院での日々から訪問介護に至るまでの道のりについて、『ケアの温度』では、誰かをケアする時の適切な距離感・温度感とレジリエンスについて、やさしい筆致で綴っています。この連載では、イさんの目に映った韓国の介護現場から、「ミューズとゼウス」のためのケアについて考えます。 


今年でケアラー8年目になる同僚を見ていると、私も歳を取ったらこの方に面倒を見てもらいたいと感じてしまう。ミューズとゼウスを、ひとりの人間として接しているその姿勢が、そう思わせるのだ。


 見せかけだけのものになりがちな午前のプログラム――体操教室、工作、塗り絵、歌の教室。ミューズが行きたがらないなら、朝遅くまでベッドで横になっていても放っておく。寝坊して朝食を断る日には、無理に起こして食べさせたりはしない。


 自力で起きて身支度を整え、食卓に着いたら、そのときに軽食とコーヒーを一杯出すという気配り。ミューズとゼウスを子供扱いせず、彼らの好みや趣向を尊重している。


 月・火・水・木・金曜と決まった日に、それぞれ入浴するようになっているが、当日ミューズの状態が良くない場合は、無理にお風呂に入らせたりしない。


 そして、頃合いを見て土曜日の午後、日差しが差し込む時間になると、耳元でささやく。


 「何日も髪を洗ってないでしょ~。洗わなきゃ、臭いし、かゆいじゃない~。髪を洗って、そのあとコーヒーを一杯飲みましょう」
 「髪だけ洗うの?」

「ううん、ここも拭かないと」


 風呂場に連れて行かれるミューズが、私に片目をばちりと動かして合図を送る。洗いたくない、という意思表示だ。 私の仲間はそんなミューズの手を握り、元気に前へ進む。


 彼女たちは、みんな愛らしい。入浴を終えたミューズはテーブルに座り、軽食とお茶を楽しみながら、車椅子のルームメイトであるミューズに自分の気持ちを伝える。


 「ああ、洗う前は嫌だったけど、洗ったらすごくすっきりしたわ」


 目が見えない、車椅子のミューズが相槌を打つ。


 この光景は忘れられないだろう。


 人生100年時代と言われているが、国民健康保険公団*には伝えたい。過剰な管理が、こうした優雅なケアサービスを失わせてしまうかもしれないと。


 ご家族が持ってきたおやつも、「せっかく持ってきたのだから、必ず食べさせなければならない」という考えを捨ててほしい。介護施設には、その日その日のおやつが用意されているし、それ以上の間食が必要ない場合もある


 
また、お昼休みもろくに取れない最小人数のケアラーたちは、その日のスケジュールに合わせて食事やおやつの介助、おむつ交換、入浴、掃除までこなしている。そんな状況では、ご家族が持ってきたはちみつを溶かしてあげる余裕はないかもしれない。


 結局のところ、“管理者”を自称する人々に見せるために、月曜日は必ず入浴し、午前中はプログラムの開催のために、私たちのミューズは、大好きな朝寝坊をあきらめて、人数合わせのために椅子へ座らされ、決められた体操をしなければならないのだろうか?


 7歳で幼稚園に通い、その後は学校へ通っていたミューズが、90年もの人生を生きてなお、プログラムに動員され続けるのだとしたら――。


 それなら、私は介護施設で死にたくないと思う。自由に生きることは、年齢にも、心身の状態にも関係なく、人にとって大切な問題なのだから。


*韓国の公的医療保険制度(健康保険・介護保険)を一本化して運営している、中央省庁から独立した政府機関。



著者紹介
 イ・ウンジュ 이은주



 1969 年生、作家、翻訳家。日本に留学し、1998 年に日本大学芸術学部文芸学科を卒業。20 代から翻訳家になることを夢見て、家庭教師として働きながら翻訳した『ウラ読みドストエフスキー』(清水正)で夢をかなえる。その後も仁川国際空港の免税店で働きながら、休憩時 間は搭乗口 31 番ゲートで訳し、仁川への通勤電車でも訳し続け、『船に乗れ!』(藤谷治)、 『人生で大事なことはみんなゴリラから教わった』(山極寿一)をはじめ、十数冊もの日本書籍を韓国に広める。おばあちゃんっ子だったイさんは祖母の逝去をきっかけに、高齢者施設でボランティア活動を始め、その後療養保護士の資格を取得。昨年からは認知症になった実母の介護を行う。「ケア」と「分かち合い」について、文学の一形態として追及してみたいという気持ちから、高齢者のケア現場についてのエッセイを三部作で発表し、韓国で共感を呼ぶ。現在、認知症で苦しんでいる母親の世話をしながら、翻訳、執筆活動と共にメディア出演、講演活動を続けている。