【vol.6】お腹ペコペコのミューズ | 私はミューズとゼウスのケアラーです
2025/05/30

韓国の介護現場で働く作家が送るケア文学
激しいスピードで高齢化が進む隣国で、 ケアの最前線に立つ作家による、初の日本語エッセイ連載スタート!! 昼は介護の仕事をして夜は文章を書く、作家イ・ウンジュの連載が始まります。日本の介護福祉士にあたる、「療養保護士」という韓国の介護の国家資格を持つイ・ウンジュさんは、自身もケアの現場に立ちながら、ケアに関する文章を韓国語で発表する数少ない作家です。
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そんなイ・ウンジュさんは韓国で、ケアについてのエッセイ三部作(『私は神々の療養保護士です』『こんなに泣いて疲れたでしょう』『東京因縁』)を出版して話題を集め、2023年には母親の在宅療養保護の経験を盛り込んだ『ケアの温度』を刊行しました。ケア三部作の『私は神々の療養保護士です』では、療養保護士として歩んだ療養院での日々から訪問介護に至るまでの道のりについて、『ケアの温度』では、誰かをケアする時の適切な距離感・温度感とレジリエンスについて、やさしい筆致で綴っています。この連載では、イさんの目に映った韓国の介護現場から、「ミューズとゼウス」のためのケアについて考えます。
ああ、美味しい。
こんなに美味しいのに、もったいなくてどうしよう。
ありがとう、おねえちゃんありがとう。
ああ、こんな味、初めて食べてみる。
なんてもったいないことしちゃった。全部食べちゃった。
業務日誌を書いていた私は、つい習慣のようにミューズの独り言を書き取ってしまった。面白い昔話のようなミューズのライムに思わず笑ってしまった。しかし、もう我慢できないくらいうるさい。私は自分の仕事を止めて、おなかペコペコのミューズのところに行ってみた。
それまでミューズは、小川のほとりに座っている子供のように、ベッド柵の間に足を入れていた。目が見えない彼女は食事をしても、少し経つとすぐにまたお腹がすいたと言う。食べても食べても足りないみたいだ。この日も食事を終えて30分ほど過ぎてから、また「お腹がすいたからご飯をくれ」と歌を歌っていた。
秋夕*1の祝日にも仕事をする療養保護士たちのおやつにハングァ(韓菓)*2が用意されていた。ミューズのおなかぺこぺこの歌が悲しそうに聞こえる。秋夕だからハングァを一つ渡したが、それからミューズの独り言が始まってしまったのだ。恐ろしいほど大きな声で、まるで村長さんが人々にお知らせしたいことがあるかのように大声で叫ぶのだった。しかし聞いていると、滑稽だし何よりリズムもいい。
ああ、美味しい。
アイグ(ああ)*3、美味しかった。
食べ切ってしまってもったいない。
節約して食べればよかった。
残しておいて明日食べればよかった。
一日中立って仕事をするので、業務日誌を書く時だけはなかなか立ち上がりたくない。しかし、そのままにしておくには、ミューズの歌があまりにも悲しそうに聞こえる。一度は抱きしめてこようと思った矢先に、逆転の展開が私を待っていた。
たった一つのハングァ。口の中でとろけるようなハングァがとても美味しいのに、食べ終わってしまった悲しみが、涙になっていたのだ。その悲しみは涙になって、ミューズの頬を伝って流れていた。私は信じられなかった。ハングァがそんなに美味しかったのか。家へ帰る時、母にも買ってあげようかと思いながら、ハングァの箱に目を向けた。いつものことだが、悲しみは一歩遅れてから感じるものだ。ハングァの箱に書かれたラベルを見ていた私は悲しくなってきた。鼻先がじんとした。おなかぺこぺこのミューズが、ハングァを一つ食べ終えて悲しんだように、私はミューズの濡れた顔の前で胸が痛くなった。
ハングァ一つがミューズの365日を物語っていたのだ。
思い出の食べ物、日常的でない特別な食べ物とはかなり離れていた老人ホームの生活。味わうってこういうことだったんだ。涙が出るほど、すぐに呑みこむのが惜しいほどなんだ。味覚だけは最後まで残る。だから、「お年寄りと子供がいる家を訪ねる時は手ぶらで行くのではない」とうちのおばあさんは教えていたのか。私は、一つのハングァを食べ涙が出るほど惜しかったミューズの手に、ハングァをもう一つ握らせた。私の頭の中では、オーブンでペイストリー*4が花を咲かせるように、思考の花が咲き誇っていたのだった。
*1 秋夕(チュソク)韓国で最も重要な祝日。日本のお盆に近く、親類が故郷に集まって先祖や秋の収穫に感謝したりする。
*2 ハングァ(韓菓) 韓国の伝統菓子。もち米粉など穀物の粉に木の実を加え、ハチミツや水あめで固めたものをはじめ、様々な種類がある。
*3 アイグ 韓国語で驚いた時や嬉しかった時などに使われる感嘆詞。
*4 ペイストリー パイやタルト類の焼き菓子。
著者紹介
イ・ウンジュ 이은주
1969 年生、作家、翻訳家。日本に留学し、1998 年に日本大学芸術学部文芸学科を卒業。20 代から翻訳家になることを夢見て、家庭教師として働きながら翻訳した『ウラ読みドストエフスキー』(清水正)で夢をかなえる。その後も仁川国際空港の免税店で働きながら、休憩時 間は搭乗口 31 番ゲートで訳し、仁川への通勤電車でも訳し続け、『船に乗れ!』(藤谷治)、 『人生で大事なことはみんなゴリラから教わった』(山極寿一)をはじめ、十数冊もの日本書籍を韓国に広める。おばあちゃんっ子だったイさんは祖母の逝去をきっかけに、高齢者施設でボランティア活動を始め、その後療養保護士の資格を取得。昨年からは認知症になった実母の介護を行う。「ケア」と「分かち合い」について、文学の一形態として追及してみたいという気持ちから、高齢者のケア現場についてのエッセイを三部作で発表し、韓国で共感を呼ぶ。現在、