死をことほぐ社会へ向けて 第11回

2025/06/27

人生の下りを考える ……登山と「死を避ける社会」

誰にもいずれ「死」は訪れる。多死社会を迎えた現在の日本において、いずれくる「死」をどのように考え、どのように受け止め、そして迎えるか。医療、介護・ケアの問題とあわせて、みなさんも一緒に考えてみませんか。


名郷 直樹(なごう なおき)
武蔵国分寺公園クリニック名誉院長

1961年、名古屋市生まれ。自治医科大学卒業。へき地医療に従事した後、2011年に西国分寺で「武蔵国分寺公園クリニック」を開業。2021年に院長を退き、現在は特別養護老人ホームの配置医として週休5日の生活。
著書に『いずれくる死にそなえない』(生活の医療社)、『これからの「お看取り」を考える本』(丸善出版)など。

2025年7月に『名郷先生、臨床に役立つ論文の読み方を教えてください!』(共著、日本医事新報社)が刊行予定。

人生の困難さに対処する方法を、YouTube(名郷直樹の診察室では言いにくいこと)で発信中。
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 高齢化という大きな流れでは老化は進むほかない。それが正常である。自然であるといってもいい。ただこれを悪化とか、異常ととらえる世の中がある。この対立をどう解消すればいいのか。コントロールしたいという欲望を手懐け、健康より生活を重視し、ということであるが、現実にどうすればよいのか。そこが知りたい、そう思われる読者も多いだろう。しかし現実にどうするかの前に、とことん考えたい。40年近くあまり考えず、現実にどうするかばかりにとらわれて、臨床医として働いてきた反省でもある。まだまだ考えることにこだわりたい。さらにその考えることも、なぜかとか、どうするかとかよりも、何が起きているかについて考えたい。具体的なことに乏しく、抽象的で、わかりにくいという批判があるだろうが、それこそがここで書きたいことである。


老いを登山に重ねて考える

 いきなりであるが、今回はまず登山について考えてみる。「山に登る」、頂上を目指すのが登山だということなのだが、そうだろうか。上ったままの登山というのはない。必ず下ることになる。下山があっての登山である。登下山という方が実際をよく表している。登山という言葉に見られるように、下ることを考えない世の中がここに顔を出している。上ることは重要だが、下るのは重要ではない。それは少し言い過ぎかもしれないが、上ることに価値を置くのはごく普通の考え方だ。しかし、下るよりも上りに価値を置くというのも一つのドグマではないだろうか。上りにも下りにも価値がある。その方がはるかに現実に即した考え方ではないかという気がする。
 「死を避ける社会」は下山を無視した、上ったままの登山に似ている。頂上を過ぎてもまだ上ろうとしている。しかし足元を見れば下り坂である。ただその中で所々小さな上りもある。全体が下りであっても、小さな上りばかりに関心が向き、下りに考えが及ばない。上りがやめられない。
 人生は頂上がわからない登山かもしれない。知らぬ間に頂上を過ぎ、下りに差し掛かっているのだが、その下りがわからない。下り坂をなだらかにする努力に励むと、さらに下りを見失う。もちろん下りがなだらかになれば、それはそれで快適だ。しかし、この快適さもまた「より快適」という上りに向かう満足感につながる。現実の下りは、徐々に急坂になる。ところどころ転げ落ちるような下りもある。そこから、満足や良さを感じることは難しい。
 また実際に下りを感じたりすると、下るにはまだ早いと、また上りを目指したりする。下ることの心地よさは、「老化を避ける社会」の中で見失われ続ける。

 

「下り」に価値を見出す

 上る楽しみがあれば、下る楽しみもある。上りより下るほうが楽だ。上る楽しみは、元気なうちは心地よい。しかし疲労が積み重なり、筋力が落ちると楽しいばかりじゃない。むしろしんどい、苦しい部分が多くなる。それに対して下りは、自らの重みに逆らって上るのとは逆に、自らの重みで下ることができる。急に転がり落ちるとなると大変だが、それもまた多くの人が望む「ピンピンコロリ」と思えれば、案外大丈夫なのかもしれない。またこの急な変化に対しては、医療に望みをかけて、悪化と回復をくりかえしながら、ゆっくり下っていくのは、疲れても、筋力が落ちても、案外楽しい気分ではないだろうか。

 

 登山と人生を重ねて考えてみたがどうだろうか。下りを考えない登山は、「死を避ける社会」に似ている。下りに目を向けるとしても、上ることに匹敵するような価値を認めがたい。 それは「老化を避ける社会」でもある。しかしそこに解決の糸口がある。下ることの価値について考えることが、「死を避けない社会」への道を開くかもしれない。
さらに上らない人生もある。登山しない人生である。上るというのも、実はそっちが幻想で、ひたすら下るというのが人生かもしれない。寿命は1日生きれば1日減っているのだ。寺山修司の詩が浮かぶ。

 

 ぼくは不完全な死体として生まれ 
 何十年かゝって
 完全な死体となるのである
 (寺山修司「懐かしのわが家」朝日新聞、1982.より)