精神疾患のある本人もその家族も生きやすい社会をつくるために 第6回:高校生時代②―― うまくいくことはほとんどなかった
2025/04/21

みなさん、こんにちは。2001年生まれの大学生で、精神疾患の親をもつ子ども・若者支援を行うNPO法人CoCoTELIの代表をしている平井登威(ひらい・とおい)です。
「精神疾患の親をもつ子ども」をテーマに連載を担当させていただいています。この連載では、n=1である僕自身の経験から、社会の課題としての精神疾患の親をもつ子ども・若者を取り巻く困難、当事者の声や支援の現状、そしてこれからの課題までお話ししていきます。
第5回では、希望に満ち溢れていた高校入学からの絶望について焦点を当てました。入学すぐの怪我がなかったら、サッカー面も家庭面ももうちょっと悩まなくて良かったかもな、、と思うことは今でもありますが、そこで得たものも多かったので、今となっては大変だった思い出程度になりました。
第6回となる今回は、高校2・3年生時代に焦点を当てたいと思います。この時期は、自分自身の考え方などにも大きな変化のあった時期でした。
著者

平井登威(ひらい・とおい)
2001年静岡県浜松市生まれ。幼稚園の年長時に父親がうつ病になり、虐待や情緒的ケアを経験。その経験から、精神疾患の親をもつ子ども・若者のサポートを行う学生団体CoCoTELI(ココテリ)を、仲間とともに2020年に立ち上げた。2023年5月、より本格的な活動を進めるため、NPO法人化。現在は代表を務めている。2024年、Forbes JAPANが選ぶ「世界を変える30歳未満」30人に選ばれる。
「父のようにはなりたくない」
入学してすぐの絶望を経験し、家族にも部活にもたくさん頭を悩ませたなかで、僕自身の考えに大きな変化がありました。
「中学の頃のような、苦しさの先の矢印を他者へ向け、人を傷つける自分でいたくない」と強く感じ、父のことを反面教師と考えるようになりました。
「僕は人に対して優しくありたい、誰かを傷つける人間にはなりたくない」
そう決意したのは自分にとっては大きな転換点だったのだと思います。
そんな思考の転換からサッカーに向き合う姿勢も改め、怪我から復帰。徐々に順調に進み始め、Aチームでのプレー時間も増え始めました。
自身が試合に出ることやそこでのプレーが安定することで、家庭の雰囲気が良くなっていくことも感じられて、比較的穏やかな日々が続いていました。
しかし、またしても悲劇が訪れます。秋から控える高校サッカー集大成の大会のメンバーに入るために重要となる夏の遠征のメンバーに入り、Aチームのスタメンが見えてきたとき、遠征先で再び怪我を負ってしまいました。
重傷だった怪我と失われた父の拠り所
この怪我は重傷で、手術が必要になりました。手術までの1か月+手術後のリハビリ期間を含めて復帰には約5か月かかることが決まり、僕は再び絶望の淵に立たされます。
そのとき一番最初に頭に浮かんだのは家族のことでした。
唯一の心の支えであり、家族関係を安定する頼みの綱であったサッカーをプレーできない。それは家族が荒れる可能性を意味し、また地獄の日々が始まることをすぐに認識しました。
また、その3か月後、自身がリハビリに励んでいる頃、チームは全国大会出場を決めました。とても嬉しかったと同時に悲しく、悔しい気持ちもあり、家庭の悩みに重ねて乗っかるような悔しさと苦しさがありました。
そんななか父は、僕がサッカーをしていないことで大きな心の拠り所がなくなり、飲酒と暴言がひどくなっていきます。
このときの僕にはストレス発散手段もなく、何度も泣き、自身の命を断つことや「親を殺せば楽になる」と考えるほど追い込まれていました。
しかし、そんなところまで追い込まれても当時の自分には、相談するという選択肢はなく、苦しい気持ちを誰にも打ち明けることができない孤独な日々を過ごしていました。
ただ幸いにも、怪我というわかりやすい悩みがあったために、怪我に関しては周囲に相談することができ、その際に周りの人たちが優しく支えてくれたことで、なんとか元気に過ごすことができました。
母の涙と自分への怒り
怪我の期間は本当につらい時間でしたが、怪我自体は順調に治り、再び復帰しました。復帰のタイミングは高校2年生の1月。新チームでの活動が始まったタイミングでもありました。
そのときサッカーの調子は良く、サッカーをプレーできるようになったことで家庭の状況も少しずつ良くなっていきます。
そんな光が見えてきたある日、僕のサッカーをきっかけに両親の大喧嘩が起こりました。階段で泣く母に「こんなことになるならサッカーを辞める」と伝えると、母は
「私がここまで我慢してきた意味がなくなるじゃない。あんたが普通でいられるようにたくさん我慢してきたんだよ」
と強い口調で言い、僕はその言葉に心の底から腹が立ちました。結局僕のためではなく、自分自身の自己満足のためだったのか――。そんな思いが頭を巡り、「我慢してって頼んでいない。離婚していいよとも何度も言っていた。別に普通じゃないならそれでいいし、なぜ隠そうとするんだ」と、強く反発した記憶があります。
今振り返ると、母にとってはそれが本当に僕自身のことを思っていたということ、親子間感のコミュニケーションが取れていなかったことでお互いの考えや認識の調整ができていなかったことがわかりますが、同時に親子間のコミュニケーションを安全・安心に取ることができる環境ではなく、どうしていたら良かったのだろうか、という問いは今でもわかりません。
母の涙と自分への怒り
本当に苦しいことの多い高校生活でしたが、振り返ってみると部活での学びが本当に多く、自身の人生が大きく変わった3年間であったとも思います。
次回は、高校時代の進路決定の葛藤から大学入学までを振り返っていきます。
