「ナラティブの世界」へようこそ ―人生の物語をとらえ直す旅に出よう― 第3回

2026/10/23

 本連載は『月刊ケアマネジャー』での連載(2025年4月号~2026年3月号掲載)を再編集し、再掲載するものです。
 本連載には、「ナラティブ・アプローチ」のエッセンスがふんだんに詰まっています。全24回の束の間の物語の旅になりますが、「ナラティブ・アプローチ」に触れるこの旅をぜひ一緒に楽しんでもらえたなら嬉しいです。


ナラティブの
根底にある「思想」 上

 前回、ナラティブは人生の物語と向き合い、語り、聴くこと、その目的は「自分の人生の物語に価値を見出す」ことだと伝えた。今回は、ナラティブの根底にある「思想」に目を向けてみよう。そこから「ナラティブ」のもつ真の強さを感じることができる。


果物と種

 旅は「楽しみ」「語り」「聴く」よい機会だ。時折フレッシュな果物でも一緒に食べながら、大いに語ろう。テーマは「思想」である。ところで、あなたが今、手に持っている果物には種がある。それを植えると、また果物ができる。種がなければ果物は生まれない。種は非常に重要な核だ。ナラティブという果物にも種がある。それが社会構成主義やフーコーの思想である。


社会構成主義―Social Constructionism

 社会構成主義では「現実は最初から決まったものではなく、社会のなかで、言葉を介して、人々が意味づけし、つくり上げていったもの」ととらえる。たとえば、「高校時代、落ちこぼれだったんです」と、あなたが語り出したとする。そのときあなたも相手も「落ちこぼれ」の意味を、どのように理解しているだろう?実はこの言葉、最初から存在したものではない。1970年代、子どもたちの成績の格差が広がった時期、マスコミから発信されたものだった。
 以来、社会のなかで、テレビ、新聞、雑誌、小説、映画などのメディア、あるいは人同士のコミュニケーションを介して、頻繁に語られ、意味づけられ、人々の内面にまで浸透されてしまった。そして今では「落ちこぼれ」といえば、「標準」に満たない「劣った」ものと誰もが定義づけている。ただ繰り返すが、これは最初からあった、普遍的なものではない。相対的につくり上げられてきた「事象」だったのだ。皆さんは、このことをどう感じるだろう?


「それって、一種のレッテルじゃないかな」
「勝ち組、負け組もそうだよね」
「そういう言葉が流行ると、傷つく人が大勢いる」
 皆さんの、熱い語らいの様子を目に浮かべながら、もう少し続けてみたい。


フーコーの思想

 フランスの哲学者フーコーは「知は権力」だと語った。たとえば、医師が専門知識から助言すると、患者にはそれが唯一、絶対の正解となり、従うほかない。それは一種の「権力」だということになる。
 またフーコーは、正常とか異常は、普遍的なものではなく、時代や社会のなかで構成された相対的なものと教えた。こうした思想が社会構成主義に受け継がれ、ナラティブの種になった。


著者紹介

川村隆彦

「エンパワメント」や「ナラティブ」等、対人支援にかかわる専門職を強めるテーマで、約30年全国で講演・研修を行ってきた。人生の困難さに対処する方法をYouTubeやInstagramで発信中。