ナッジのススメ 第5回 感染症に注意すべきなのに消毒をしてくれないのはなぜ?
2025/12/11
感情の習性に沿って、望ましい行動へと促す手法「ナッジ」。
今回も「介護の現場でのコミュニケーションを円滑にするためのナッジ」について、ナッジを用いたヘルスプロモーションを研究している竹林正樹さんと、在宅を中心とした高齢者支援に奔走する橘友博さんが語り合います。
橘 竹林先生に相談です! 介護事業者の集まりで、「感染症対策のためにデイサービスの利用者に玄関で消毒をしてほしいが、どうしたらよいか」という議題で話し合いました。結論としては、玄関の消毒液がある場所に「消毒で感染症から身を守りましょう」というポスターを貼る、という意見で一致しましたが、効果は出るのでしょうか?
竹林 認知機能の低下により、利用者の衛生観念が低下している場合も考えられますが、そうでない人たちについて考えます。ポスターによる啓発は、知らないことを知ってもらうことが目的であれば、効果が期待できますが、消毒による感染予防を知らないということは考えにくいです。というのも、新型コロナウイルス感染症の流行初期に行われた政府の調査で、多くの国民が「感染症予防のために手指の消毒をしている」と答えているからです。
橘 感染症を予防するためには消毒が有効である、ということは周知の事実ですよね。
竹林 必要性はわかっているけれど、行動に移せない。つまり、認識と行動にギャップが生じている状態です。そこで、「認知バイアスに影響されて解釈が歪み、うまく行動につながっていない」と疑ってみます。消毒液を利用しないという行動の背景には、❶非注意性盲目、❷現在バイアス、❸楽観性バイアス、これらの認知バイアスがある可能性が考えられます。順に説明します。❶非注意性盲目は、別のことに気を取られると、目立つものでも見落とす心理です。次の実験をご覧ください。
【実験】実験参加者に「黒いシャツと白いシャツのチームでバスケットボールをパスし合う動画を見て、白シャツチームのパスの回数を数えてください」と指示しました。
この動画では、途中でゴリラの着ぐるみが現れ、胸をたたいた後にゆっくりと立ち去るのですが、実験参加者の約半数はゴリラの存在に気がつかなかったのです(この動画はYouTubeで「ゴリラ バスケ」などと検索すると出てきます)。
橘 私もこの動画を見たことがあるのですが、最初はゴリラを見逃してしまいました。
竹林 これと同様に、急いで玄関を通った利用者は、消毒液をうっかり見逃したのかもしれませんね。さらに、高齢になると、❷現在バイアスや、❸楽観性バイアスが強くなるため、「別に今やらなくてもいい」「自分だけは感染症にかからない」と考えやすくなります。
橘 なるほど! 「認知バイアスに影響され、消毒しなくなる」というメカニズムはわかりました。では、実際に利用者が消毒してくれるようにするためにはどうしたらよいでしょうか?
竹林 認知バイアスの特性に沿って、「つい消毒したくなるナッジ」を紹介します。これは、大阪大学医学部附属病院で実際に使用されたナッジです。
【ナッジ1】イタリアの有名な彫刻「真実の口」のレプリカの中に、消毒液の自動噴霧器を設置しました。レプリカ設置前は消毒液の利用率が0・6%でしたが、設置後は2・8%に、さらにメディアで取り上げられた後は10%に増えました。
橘 これだったら「手を入れてみようかな」という気持ちになりそうですが、いざ導入するとなると、大掛かりでお金がかかりそうですね。
竹林 その場合、次のナッジはいかがでしょうか? 実際に竹林家で実践したものです。
【ナッジ2】玄関に消毒液を5本置き、「お好きなタイプをお選びください」という貼り紙をします。「(消毒液は使うという前提で)どれを使うかを選ぶ」と、初期設定を変えたこと(デフォルトナッジ)で、訪れた多くの方が自発的に消毒液を使うようになりました。
橘 「この消毒液を使いなさい」と書かれると反発したくもなりますが、自分で選ぶのなら「使ってもいいかな」という気持ちが芽生えそうです。ただ、お気に入りの消毒液を選んでいるうちに、玄関で渋滞が起きそうです(笑)。
竹林 そんな橘さんには、次の事例が参考になりそうです。この手法を使うのはいかがでしょうか。
【事例】保健所の入口に消毒液を設置しました。設置した週は「消毒液を使ってください」といった一般的な貼り紙をし、2週目は床に消毒液に向けた矢印を描きました。3週目は「消費量を計測しています」と貼り紙をし、4週目は消費量が増えている様子をグラフにして掲示しました。その結果、4週目は1週目に比べ1・9倍の消費量になりました。
竹林 2週目に導入したしくみは、目立つものや目新しいもの、自分に関係がありそうなものに注目する心理を活用したナッジです。3週目に導入したしくみは、人に見られていると感じると、正しい行動をしたくなる心理を活用したナッジで、4週目に導入したのは、他の人が使っていると知ると、自分も使ってみたくなる心理を活用したナッジです。たとえば、足元ばかりを見て歩いている利用者さんが多い場合、床に矢印を描くだけでも、消毒液の存在に気づきやすくなります。
橘 これならすぐにできそうです。ぜひ試してみます!
まとめ
感染症対策が必要であるにもかかわらず、消毒をしない背景には、非注意性盲目や現在バイアス、楽観性バイアスの存在が挙げられる。認知バイアスをふまえたナッジなどによって、自発的な消毒液の利用が期待できる。
参考文献
Takebayashi M. Takebayashi K. Control experiment for health center users to compare the usage of hand
sanitizers through nudges during the COVID-19 pandemic in Japan. International Research Journal of Public and Environmental Health. 2021. 8(6).299-303.
竹林正樹
青森大学客員教授。青森県出身。行動経済学を用いて「頭ではわかっていても、健康行動できない人を動かすには?」をテーマにした研究を行い、年間10本ペースで論文執筆。各種メディアでナッジの魅力を発信。ナッジで受診促進を紹介したTED(テッド)トークはYouTubeで80万回以上再生。著書に『心のゾウを動かす方法』『介護のことになると親子はなぜすれ違うのか』など。
橘 友博
合同会社くらしラボ代表。介護福祉士、ケアマネジャーとして介護施設で勤務したのち、2015年に合同会社くらしラボを設立。「あなたの“ふつう”を考える」をコンセプトに複数の介護事業所を運営し、在宅を中心とした高齢者支援に奔走している。
