【vol.3】ゼウスの沈黙 | 私はミューズとゼウスのケアラーです
2025/04/23

韓国の介護現場で働く作家が送るケア文学
激しいスピードで高齢化が進む隣国で、 ケアの最前線に立つ作家による、初の日本語エッセイ連載スタート!! 昼は介護の仕事をして夜は文章を書く、作家イ・ウンジュの連載が始まります。日本の介護福祉士にあたる、「療養保護士」という韓国の介護の国家資格を持つイ・ウンジュさんは、自身もケアの現場に立ちながら、ケアに関する文章を韓国語で発表する数少ない作家です。
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そんなイ・ウンジュさんは韓国で、ケアについてのエッセイ三部作(『私は神々の療養保護士です』『こんなに泣いて疲れたでしょう』『東京因縁』)を出版して話題を集め、2023年には母親の在宅療養保護の経験を盛り込んだ『ケアの温度』を刊行しました。ケア三部作の『私は神々の療養保護士です』では、療養保護士として歩んだ療養院での日々から訪問介護に至るまでの道のりについて、『ケアの温度』では、誰かをケアする時の適切な距離感・温度感とレジリエンスについて、やさしい筆致で綴っています。この連載では、イさんの目に映った韓国の介護現場から、「ミューズとゼウス」のためのケアについて考えます。
ゼウスの部屋から叫び声が聞こえて駆けつける。まずは、経管栄養中の「ゼウス・ヘミングウェイ」の状態を観察する。彼の耳元には涙がこぼれていた。鼻に挿したチューブが苦しげだ。唇は乾いてパン屑のように裂けている。ついでに、自分では指一本動かせない彼の体位を変えてあげる。ゼウスの口元の形を初めて読み取った瞬間を覚えている。ヘミングウェイは「痛い」と言っていた。 その日も一人で泣いたようだった。目元が赤くただれていた。
「何を見てるんだ。こっちを見るな! あっちを向け!」
ルームメイトの「ゼウス・キャプテン」が背後でまた怒鳴りつける。すべての療養保護士が身動きの取れない「ゼウス・ヘミングウェイ」に気を遣うたび、同室の「ゼウス・キャプテン」は嫉妬をしはじめる。下半身麻痺の「ゼウス・キャプテン」は大変そうに見えるが、一人でベッド横にある簡易トイレを使える。小さな花柄の布団を腰に巻いてベッドに座っている様子は、まるで雲の上にいるような存在感がある。そんな彼が嫉妬して怒鳴りつける時、腕に刻まれた龍も一緒に吠えているようだった。
「電気を消せ、うるさい。」
私はルームメイトの「ゼウス・キャプテン」の元へ歩み寄り、白いTシャツに包まれた痩せた背中をなでながら、事情を申し上げる。
「見たくて見ているわけではないでしょう。右側に私が体位変更をしたからですよ。お好きなピーナッツキャラメルも買ってきましたので、ちょっと勘弁してください」
「ゼウス・キャプテン」がにっこり笑う。腕にある龍もつられて笑う。
やがて夜が来て、昼間つけていた蛍光灯やテレビも消灯する。私が部屋を出るやいなや、小さな花柄の布団を腰に巻いた「ゼウス・キャプテン」がリモコンでテレビをつける音がした。
「このまま永遠に眠ってしまいたい。あの布団を腰に巻いた老人が、しきりに私を見て悪口を言う。我慢できない。あの人のように一人で小便をして、座って食事をすることができればいいのに……どうして涙だけはしきりに流れるのだろう。涙を拭こうとにも拭けない。テレビの音のせいで深い眠りにつくこともできない。立ち上がることも、座ることもできない。かといってあの人のように大声で叫ぶこともできない。女房はどこにいるのだ? 私をここから連れて行ってくれ。若い頃、あなたを悩ませたことを今になって、一つ二つと思い出すのがとても辛い。私がまた気を失ったら、その時は絶対に私を起こさないでほしい。お願いだ……」
老人ホームに入所した日、「ゼウス・ヘミングウェイ」は沈黙していた。無気力に見え、枕の端に傾いた横顔が濡れていた。涙を流していたに違いない。
彼が私に言い渡した最初の一言は、声が出なくて聞こえなかった。ただ唇の動きから「い・た・い」という言葉が読めた。
次にかけられた言葉。うがい薬を染みこませたガーゼで、乾いた口の中を拭いてあげると、「サンキュー」と返ってきた。その次は、おむつ替えをしながら、「早く治ってここから歩いて出てください」と言えば「ファイト」。夜勤を終えて、「家に帰ります」と言いえばすぐ「早く戻って」。 最初は唇の動きだけで意思を伝えていたが、徐々に元気になって、とても小さな声で自分の感情を表現するようになり、妙な感動を覚えた。
私はおむつの世話をしながら、できるだけ多くのお話をささやこうとする。居間から聞こえてくるテレビの騒音。笑い声。ゼウスが横になっているベッドとは全く違う世界から聞こえてくる音を聞きながら。彼らのベッドは孤島のように浮かんでいた。
おむつ交換は横になっているミューズとゼウスにとって、人と疎通できる唯一の時間だ。私はその機会を逃さぬよう、せっせと手を動かし、ゼウスとミューズの話し相手になってあげる。
「君は私の固い体を回して楽な姿勢を作ってあげようとしてくれる。実は、私はもう何も感じることができない。見ず知らずの老人に、ここまで世話をしてくれてありがとう。自分の子供にも頼みたくないことを、名前も知らない君に任せてすまない。あまり頑張らないでほしい。時がくれば、軽い体でここを出る日が来るだろう。君の言うとおり。早く元気になってここを歩いて出たい。その時まで私のそばにいてくれ。えっ? 退勤するから2日後に会おうって? また見知らぬ人に自分の体を任せなければならないのか。ああ、とにかく早く帰ってきて。私を一人にしないで。私が横を向いただけで殺そうと叫ぶあの男が、枕でも投げつけたら、本当にたまらなく惨めだから」
著者紹介
イ・ウンジュ 이은주
1969 年生、作家、翻訳家。日本に留学し、1998 年に日本大学芸術学部文芸学科を卒業。20 代から翻訳家になることを夢見て、家庭教師として働きながら翻訳した『ウラ読みドストエフスキー』(清水正)で夢をかなえる。その後も仁川国際空港の免税店で働きながら、休憩時 間は搭乗口 31 番ゲートで訳し、仁川への通勤電車でも訳し続け、『船に乗れ!』(藤谷治)、 『人生で大事なことはみんなゴリラから教わった』(山極寿一)をはじめ、十数冊もの日本書籍を韓国に広める。おばあちゃんっ子だったイさんは祖母の逝去をきっかけに、高齢者施設でボランティア活動を始め、その後療養保護士の資格を取得。昨年からは認知症になった実母の介護を行う。「ケア」と「分かち合い」について、文学の一形態として追及してみたいという気持ちから、高齢者のケア現場についてのエッセイを三部作で発表し、韓国で共感を呼ぶ。現在、